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第3話

 あんまりだ。  覚悟を決めていた筈の勇者でさえ、最後の目的地を前に、そんな思いに打ちひしがれていた。  魔王が封印されている場所に近付くにつれ、出現する魔物も強くなっていった。だから従者たちがわざわざ手を抜かなくとも、ただでさえ足手纏いな勇者は傷を負う事が増えた。それもかなりの深手だ。  それでも進まなくてはならないし、最低限、歩くくらいは出来ないと困るので、手当てと治癒はして貰えた。当然それなりの対価を体で払ったわけだが。  腕に覚えはある筈の彼らも、疲弊していくのは見て取れた。勇者に対する扱いが、重いなりに大切な道具から邪魔なお荷物になっていく様を、間近で見続けた。  捨てられてはいけない。世界を救わなくてはいけない。その一心で形振りも構わずに深い山奥へと分け入り、遂に禍々しい紋様が浮かび上がる火口へと降り立った。胎動するように黒いマグマに似たものがが轟き、だが溶岩と違い足下に伝わる空気は酷く冷たい。そこにいるだけで嫌な気配というものが充満していた。  暗闇を煮詰めたような異界が、今にも口を開けようとしている。  魔王の復活前に、そこへ着く事は出来た、だが。 「じゃあ勇者様ぁ、あとはお願いしますねぇ」 「ボクらは帰るンデ、しっかりヤッテね」 「あーあ、やっと終わった。ったく、男しかいねえ旅路とか、クソつまんねーっての」 「えっ……待っ……」  最後の封印を前に、彼らは踵を返した。  引き留めようと一歩踏み出すと悪い足場に躓き、頭から盛大に転んだ。 「まあ待て。一応見届ける必要はあるだろう」  髪を掴んで、騎士が勇者を引き起こす。それで全員の足は止まったけれど、いくら楽観的に考えようとしても、もうポジティブな思考など出来そうになかった。  転んでも受け身すら取れず、起き上がる事もままならない。 「それもソッカ。ここまで来て失敗シマシタじゃ、ボクらの苦労が水の泡だもんネエ」 「ただでさえ足手纏いだった勇者様がぁ、今は更に人間の平均値切っちゃってますしねぇ」 「つーか臭ぇんだけど、これ。ぶら下げとく意味あんの?」 「ではお前が切り落としたらどうだ。バランスも良くなるだろ?」 「あのな、俺の剣はこんなしょーもねえもの斬る為にあるんじゃねえの」  まだ強く髪を掴まれていて、顔が引き攣れる。しかしそうやって支えられていれば、立ってはいられる。1度転ぶと、なかなか大変だ。  道中で右腕を噛み千切られてしまった。左腕はまだ繋がってはいるが、骨ごと噛み砕かれた。とっくに変色して腐りかけている。脚を治して貰う代わりに、腕は諦めざるを得なかった。止血と痛み止めを貰えただけ、良かったと思い込んだ。歩けなければ置いていかれる。魔物の手にかからずとも、そのうち野犬にでも食われるのがオチだ。本当は治せるんだろうなどと疑っている暇はなかった。どちらかしか治せないと言われれば、分かりましたと答えるしかなかった。 「では、やって貰おうか」 「…………はい」  漸く手が離れる。少しふらつきながらも持ち堪え、短くなった右腕と、肘と肩との間で奇妙に折れ曲がった左腕を前に翳した。  腕がなくても、狙いを定めて精神力を注ぎ込めば、それで封印は出来る。それも分かっていて、彼らは勇者の腕を軽んじたのだろう。  ただこれまでの補助的な封印と違い、強大な魔力を封じ込めるのは容易い事ではない。腕がない事と度重なる精神的肉体的ダメージで、思うように上書きが出来ない。 「ちょっと勇者様ぁ、封印も出来なくなっちゃったんですかぁ」 「腕もナイし穴も拡がり過ぎてイマイチだし、存在価値なくなっちゃうネエ」  酷く焦った。ここまで来て敗走するなど、あってはいけない。ここで失敗するという事は、ここで無駄死にするという事。  改めて、なくなってしまった指先に力を込める。しかし嘲るように、ごぼごぼと黒い渦が跳ねるばかりだ。 「冗談じゃねーんだけど。お前ここまで来てそりゃねーだろ」 「使えないとは思っていたが、これほどとはな」  誰も慰めてなどくれない。  誰も褒めてなどくれない。  このまま自分が死んだら?  次にこんな目に遭うのは?  駄目だ駄目だ。そんなの絶対に駄目だ。 「っ……」  ぼろぼろの体で焦る勇者とは対照的に、従者たちは他人事のような口振りで会話を交わしながらただ傍観している。 「なあ、これ駄目なんじゃね?」 「ええーボクたち無駄骨? なんか案ナイの?」  こればかりは勇者も同意だった。魔王の封印。それだけは全員共通の目的だ。 「まあ一応、最終手段は王から聞かされてはいるんだが」 「ぃやったぁ、じゃあもう、それでぱぱっと片付けちゃいましょうよぉ」  最終手段? そんな話は聞いていないし、家にも伝わっていない。  訝しがりつつも、しかし耳を傾けないわけにもいかなかった。 「だから、要するにこいつ自身が封印と同じ能力を帯びているわけだ。だったらちまちまと面倒な真似はしないで……こうする」  騎士が、勇者の背を蹴った。  バランスの悪い体はよたよたと揺れ、そして目の前の渦に────落ちた。 「あ、ホントだ。凄い凄い、ボクまで魔力で酔っちゃいそう。こんなコト出来るなら、最初からシテよネエ」  随分と遠いところから聞こえる声と、封印の証であるオレンジがかった光が辺りを包んでいるのは分かった。強力な封印が、やっと発動した。  しかし勇者はそれどころではない。泥のように重い渦を、溺れまいと必死で掻く。だがそれは次々と纏わり付き、碌な働きの出来ない腕では到底抜け出せるものではなかった。 「はっ、あぁ、や、やだっ! こん……っぶはっ、待っ……!」  途中で途切れてしまった腕を懸命に伸ばす。  届く事など、ある筈はないのに。 「待つ必要がどこにある。良かったではないか、使命を果たせて」 「安心して下さいねぇ、勇者様はぁ、ちゃぁんと、体を張って、魔王を封じてくれましたって、報告しておきますからぁ」 「あーデモいいの? 勇者の血筋途絶えたら、マズイんじゃない?」 「幼い弟がいただろう、問題ない」 「さっすが、王国軍の隊長様は物知りだなあ」  体がどんどん重くなる。勇者は闇雲にもがいた。遠退く声の中から、弟という言葉が聞こえた。  弟に何をするつもりだと、声をあげようにも黒い何かが邪魔をする。遂には話し声も人影も、どこかへ消えてしまった。  本当に、置いて行かれた。  使い捨てにされた。  予想はしていたが、現実になると少なからずショックを覚えた。  しかしその合間にも勇者の体は沈んでいく。ただ黒い液体に見えたものは実際には液体ではなかったようで、すっかり口が塞がれてしまってから、呼吸に支障がない事に気付いた。  けれど底なし沼のような闇の渦から逃れられるわけでもなく、視界は暗雲が立ち込めたように暗くなっていき、声も景色も遠ざかる。  これが終わり? これで終わり?  目的は果たせた? 世界は救われた?  みんなは、無事に暮らせる?  ────それなら。  もう、いいか。  意識を手放しかけたところで、急に胸が苦しくなった。 「ぐっ……!」  余りの苦しさに、胃の中のものを吐いた。  ……筈だった。 『よくも邪魔をしてくれたな』  全方向から反響する声は、鼓膜を揺さ振ってはいなかった。直接頭に響くような、不思議な、そして恐ろしい声だった。  吐いたと思ったのに口腔も食道も気道までもが黒いもので塞がれているらしく、呻く事も出来ない。  吐くに吐けず、息をするのも苦しく、内臓が気持ち悪い。 『もう少しで世に出られたものを』  恨み節が木霊する。  途端に、魔法と薬で誤魔化していた腕が、急に痛みという感覚を思い出して、絶叫しかける。案の定それも、声にはならなかった。  痛い痛い痛い。  色をなくした空が、涙で滲んだ。 『あの時の子孫だな。1度ならず2度までも邪魔をするか』  声の主こそが、魔王だった。そう理解すると、絶望に襲われた。  復活を阻まれた憎しみが、真っ黒な感情が、体と頭に流れ込む。  痛みは全身に広がる。腕も脚も腹も頭も、耐え難い激痛が走る。押し潰されているのか、引き裂かれているのか、それすらも分からないような痛みにおかしくなってしまいそうだ。最早自分の体がどうなっているか、自覚する事が出来ない。  それでも直接頭に伝わる声だけはやけにはっきりと聞こえ、理解する事も出来た。 『折角結界のこちら側に落ちてきたのだ。再び封印が綻ぶまで、貴様には玩具にでもなって貰うとしよう』  憤りの中に、愉悦の混じった、ただただ恐ろしい声が響く。  どうやら、簡単に殺す気はないらしい。  再び綻ぶ日、それがいつになるかは、見当もつかない。何しろ魔王を封印した話など、数百年前の伝説だとばかり思っていたくらいだ。こんな旅に駆り出されるまで、語り継がれた先祖の話も、半信半疑だった。  それほどの長い時間を、ここで、こんなところで。  終わりにする事も出来ず、苦痛の中で。 「……ッ……ぁ」  苦痛、紛れもない痛みと苦しみ。  そういったものに興奮し、欲情し、自ら欲する。演技だった筈のそれらの行動は、この期に及んで真実として体に変調を来す。  絶命し兼ねない激痛の中に快楽を見出している事に気付くと、捨てられて当然だと思えた。  なんて気持ちの悪い生き物。  勇者? これが勇者?  偉大な祖先とは似ても似つかない。  こんな自分が勇者に選ばれてしまった事が、由々しき間違いだったのだ。  だから異形の魔物の長に捕らわれ、数百年生き恥を晒そうとも、仕方のない結末だ。  汚らわしい。 『人として死ねると思うなよ、忌まわしい勇者の血を引く人間』  狂気染みた笑い声が響き渡る。  そう、確かに忌まわしい。  その忌まわしさを誰よりも知っているのは、勇者自身だった。

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