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夏休み 30

トランクを下ろすと、瑞斗は広瀬にあいさつした。「じゃあ」 空港のロビーで若山さんと保護者の代理人ということになっている父親の姉と待ち合わせをしているのだ。 東城と広瀬からはそこには行かないと言われていた。若山さんはいいが、瑞斗の噂好きの伯母には会いたくないのだろう。瑞斗も、伯母と二人を引き合わせて、あとから伯母が二人について勝手な想像をまわりにふりまいてほしくはなかった。 だから駐車場で別れを告げた。 寮のある学校にもっていけるトランクは1つだけなので、後の2つはまだ東城の家にある。来月には父親が送り先を決めて東城に連絡することになっていた。 東城は忘れ物がないか車の後部座席を確認した後、車を降りてくる。 「あ、そうだ、鍵」と言って瑞斗は貝殻のついたキーホルダーを手のひらに載せ、東城に差し出した。「返すよ、これ。忘れるところだった」 東城はしばらくその鍵を見ていた。そして、そっと瑞斗の手を押し戻した。 「これは、お前がもってていいよ」と東城は言った。 「え?」 「今度の学校がいやになったら戻ってこいとは保護者じゃないからいえないけど、学校が休みになって、気が向いたらうちにくるといい」 「いいの?」と瑞斗は東城を見た。 東城はうなずいた。 瑞斗は、じっと鍵をみて、手で握った。 目がじわっとかすんできた。鍵を握りこんだほうの手の甲で涙をぬぐった。 「俺、行きたくないよ、あんな学校」と瑞斗は言った。「どうせ、今度もうまくいかないに決まってるんだから。俺、いやだよ」 手でぬぐいきれず、涙がぽたぽた地面に落ちる。とめることができなかった。 気がついたら、広瀬に抱きしめられていた。頭をなでられ、瑞斗の顔が広瀬の肩についた。涙と鼻水が広瀬のTシャツにつく。 広瀬は何も言わなかった。ただ、頭と背中を手でやさしくなでられた。 思ったより大きな手だった。抱きしめてきた腕は細かったが力は強かった。瑞斗はしがみつくように広瀬を抱きつき、ひとしきり駄々をこねることができた。 しばらくして落ち着くと瑞斗は自分で顔をはなした。広瀬がポケットからティッシュをとりだして渡してくれる。顔をふきながら瑞斗は言った。 「こんなふうに広瀬を抱いたりしたら、俺、弘一郎に殺されちゃうよ」 広瀬は間近でふっと笑顔になった。その顔は本当にきれいできれいで、自分のものにできないのが悔しかった。 東城が横から言う。「お前ごときを広瀬が相手にするかよ」 瑞斗は東城をにらんだ。「そのうち、若い方がいいっていうかもよ」 「涙目でいわれてもなあ、瑞斗。ま、むこうの学校で彼女でもつくって童貞捨ててこいよ。話はそこからだ」と東城は言った。彼は瑞斗の頭をぽんぽんとたたくと、空港の入り口をむかせた。 「じゃあな、また、今度」と気軽に東城は言った。 振り返ると「またね」と広瀬も言った。 「じゃあ、また。それと、ありがとう」と瑞斗は二人に言った。 瑞斗はトランクをひきずって空港の入り口にむかっていった。 空港の中に入ってしばらく歩き、もういないだろうと思って振り返ると二人が車を背に立っていた。広瀬が手をふってくれた。瑞斗は手をふって前をむいた。もう振り返るのはよそうと思った。多分、瑞斗が見えなくなっても、しばらくは二人はあそこで瑞斗を見送っているのだ。振り返ってそれを確認する必要はない。 瑞斗は手に握り締めていた鍵をポケットにそっと入れて、ロビーにむかい歩きだした。

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