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呑み処東雲2 第5話

「いらっしゃい」 「うっわ、なにその声」 「良い声だろ」 「別人のようにね。え……もしかして……風邪……?まさか風邪なの……?」 「そのまさかだよ」 「まじ?まさかリアルで鬼の霍乱って言うことがあるとは思わなかった」 「俺だって二度も言われるとは思わなかったよ」 「二度?」 「崇とお前」 「納得した。あっちゃんに報告せねば」 「俺が風邪引いたって?」 「いや、丈さんが風邪引くような強力なウィルスが漂ってるかもしれないから、しばらく来ない方がいいって」 「営業妨害はやめろ。もう治った」 「ひなっちゃんに優しく看病してもらったんでしょ、いいなー」 「そうだよ、羨め」 「あ、なにその勝ち誇った顔。俺だって風邪くらい引けるんだからね」 「お前、年末に引いてただろ。マスクして」  三日間の臨時休業を経て、予約の入っていた金曜には店を開けた。得意先の新年会をキャンセルせずに済み、丈はほっとしただろう。  馴染み客の多い店だから、皆、実の弟も含め、店主の鼻声には驚いていた。  病院でもらった抗生物質の効き目は明らかで、熱はじきに下がり、そうすると丈はすぐに薬を飲むのをやめようとするから、食後に薬を用意するのが自分の役目になった。袋の用法を読んで、シートから錠剤を出して、漢方薬は一回分ちぎって、湯冷ましを入れたコップを運ぶ。丈はなんとも言えない顔をしていたが、口に出すのは感謝と揶揄の言葉だけで、やめろとは言わなかった。 「ひなっちゃん、おいしいお粥作ってあげたんでしょ」 「普通のお粥ですよ」 「絶対おいしいお粥だよ。丈さんにはもったいないくらいの」  カウンター席から、エディの邪気のない笑顔が向けられる。丈は彼の冗談に冗談で返していたが、結局、自分は大して役に立てなかったと思う。自己満足に満たされていた気持ちは今もうしぼんで、妙に張り切っていたことが恥ずかしい。 「……そんなこと。俺、それしかできないから」  慰めを期待したわけではなかったのに。 「それだけできれば大したもんだろ、エディを見ろ」 「そうだよ、丈さんを見なよ」  カウンターを挟んで店主と客が睨み合い、思わず日夏が吹き出すと、二人はそれぞれこちらを見て肩を竦める。それから丈は、仕方のないやつとでも言うように喉の奥で笑って、日夏の頭を小突いた。 「ところで、その圧力鍋の中身はなに?」  コンロの上でシュンシュンと音を立てているのは、今年になって買ってもらった圧力鍋だ。なるべく安いものを選ぼうとして叱られて、高価ではないがきちんとしたメーカー品を選ばされた。使うタイミングがなかなかないまま、今日やっとデビューできたのだ。 「豚の角煮です」 「うわー、いつできるの?」 「すぐですよ」 「卵も入ってる?」 「はい、もちろん」  豚バラブロックはタコ糸で縛る手間をかけず、下茹での段階で適当な大きさに切っておいた。ゆで卵は半熟になるように注意して、砂糖、酒、醤油、生姜と一緒に圧力鍋でほんの十分ほど煮てから圧が抜けるまで放置すれば、とろとろの脂身の角煮が完成する。針生姜をのせ、ほんのり色づいたゆで卵を添えた小鉢を出すと、大げさな歓声で迎えられた。 「……やばい、箸で割れるやつだ」  言いながらエディが角煮を半分に割り、齧りつく。 「うう、おいしい」 「甘すぎませんか?」 「俺は甘いほうが好き。ねー、崇さん」  カウンターの端では、崇が無言で親指を立ててくれる。  自分の作ったものを、おいしいとか好きとか言ってもらえるのは嬉しい。自分にはこれしかできないけど、これさえできればきっと大丈夫だってずっと思ってきたから。  エプロンの裾を握り、心の中で深呼吸を一度。 「あの、エディさんさえよかったら……下茹での時にいいスープができて、何かに使いたいなって思ってたんです。えっと、ハムがあるから、それにネギ入れて。卵で綴じたお粥とか、どうですか?」 「いいに決まってるよ!」    ザリ、と独特の音を立てて、毛髪が落ちていく。  また五ミリほど短くなった前髪の向こうで、鏡の中の自分と目が合う。なんだか冴えない顔をしているな。きゅっと口角を引き延ばして、手のひらで細かい毛を落としてから、洗面台に敷いたチラシを丸める。  丈より早くに寝て、先に起きる日夏にとって、この部屋に一人でいる時間は奇妙な落ち着かなさを伴っている。隣も階下も空室だから、物音を立てるのも自分しかいないような静かな時間だ。二人分の少ない洗濯物は毎日洗う必要がなく、外置きの洗濯機を使う日が実は少し楽しみなくらいだ。前はケーシーと一緒に他の物を洗えなかったけれど、今は洗濯かごの中身を全部ひっくり返して、ボタンを押すだけでいい。機械音と水音が混じった音を聞きながら、やはり二人分の、形も大きさもばらばらの食器を洗う。  あれ以来、熊のマグカップは戸棚にしまったままになっている。  自分でも馬鹿だなと思う。  でも、たとえば今洗っている英字入りの白いマグも、風呂場のボトルと中身の違うシャンプーも、洗面台の使い捨て剃刀も、調味料ラックの賞味期限切れのパプリカも。丈と暮らしていた自分ではない誰かの物だったのじゃないかと勘繰っては、眉間がじんと疼いて、胸がしくりと痛むのだ――本当に馬鹿だな。  俺は何人目ですか、なんて、聞けないくせに。  あの日、ゴミ捨て場で出会う瞬間まで、交わることのなかった人生なのだ。一度でも交わったことが、こんなにも幸運なことなのに。この部屋で恋人と暮らすのは始めてだと慰めてくれた丈に傷ついたふりを見せて、これ以上同情を欲しがるなんて、意地汚いってわかっている。  コホ、と、戸の奥から空咳が聞こえる。  次第に苦しそうになる咳が、聞いているこちらの肺まで軋ませるようで、日夏は堪らずに戸を開けた。  カーテン越しの日差しに満ちた、薄明るい居間。布団の中で少し身体を丸めるようにして、丈が咳き込んでいる。最後に咳だけ残ってしまったようで、寝ている間が特に苦しそうだった。 「丈さん」 「……悪い」  苦笑して、また咳き込む。 「平気ですか?」 「身体があったまると、咳が出るんだよな」 「咳止めとか、もらってきたほうが」 「病院なんて、一回行きゃいい」  心底嫌そうに言うから、思わず笑ってしまった。 「もう」  広い背中をゆっくりさすると、丈は心地よさそうに目を細めて言う。 「役得だな」 「そんなこと」 「役得だが、まあ、いい加減、物足りなくもある」  丈は寝返りを打ってこちらへ向くと、逞しい腕を伸ばして日夏を引き寄せた。高い鼻筋が近づき、落ち窪んだ目蓋の奥の目が光る。この瞳から自分は目を逸らすのが下手で、じっと見惚れていると、先に吹き出したのは丈だった。 「なんだ、目、瞑ってくれないのか」 「うつしてくれるの?」 「もう治ったって」 「……まだ寝てる時間ですよ」 「覚めちまったよ」  いつもより低くて鼻にかかった声に、神経ごとざらりと舐められたような気分になる。そっと目を閉じると、かさついた唇が軽く目蓋に触れた。  大きな手が日夏の手に重なり、 「お前の手は、いつも冷たいな」  揶揄うように、労わるように撫でたあと、力強く握ってくれる。ふわりと宙に浮いたと思ったはずなのに背中には布団の感触があって、指が絡み、夢心地のまま数日ぶりのキスが叶った。髪の毛一本まで、触れ合った全ての部分がじわりと温かく、でも、こんなに安心するのに、遠くで疼いている。  耳鳴りがするほど静かで、鼓膜が破れそうなほど心臓が鳴っている。 「ん……」  甘ったるい鼻息が抜けたのに恥じ入る暇もなく、悦い角度を探す丈の唇を追いかける。誘われて開いた隙間に、ゆっくりと舌先が忍び込む。息がかかるだけで、無精ひげが頬をかすめるだけで、ぞわぞわと鳥肌が立つ。ぴったり押し当てて、強く吸って、音を立てて、また吸って、音を立てる。時折許される息継ぎは一瞬で、日夏を大きく喘がせると、丈はまたすぐに深く息を奪うのだ。離されまいと丈の首にかじりついた腕が、いつか痺れはじめる。  丈とのキスの音は、猫をじゃらす時の舌の音に少し似ている。なんて言ったらまた呆れられてしまうだろうか。こんなに――こんなに、感じているくせに、変なことを考えているって。  そのうちに唇は境界がわからなくなるほど柔らかく蕩けて、ふと失笑した丈が唾液を啜ってくれるまで、自分の口の端から泡立って垂れていることにさえ気づけなくなっていた。  男らしい目元に、今は深く笑い皺を刻んでいて――あれ、いつからこうやって、ぼうっと丈を見つめているんだっけ。 「日夏?」  高い頬に、通った鼻筋に、手を伸ばす。  丈はくすぐったそうにまた笑って、指先にキスをしてくれて、それから頬にも音を立てる。そのまま耳たぶをくすぐり、滑らかな感触がゆっくり首筋を這った。 「……ん」  白んでゆく頭の中で、やはりその唇を追いかけることしかできない。  太腿を撫でていた手が、パーカーの裾を潜る。あばらをひとつずつ確かめるように脇腹を撫で、硬い指先がほんの少し胸をかすめた時だった。  一瞬のパニックに息が止まり、声が出なかった。  力いっぱい押し返した丈の両肩はびくともしなかったが、彼は躊躇わずに日夏を放した。 「悪い」  苦笑しながら、日夏を愛撫した手で今は額を覆っている。 「ごめんなさい、ちがう、あの、おれ、ちがうの」  違う、と繰り返すだけでは言い訳にもならない。  それなのに、探しても探しても言葉が見つからず、ただぱくぱくと口を開くだけの日夏を、丈は怒らなかった。 「いいよ」  声が、体温が、遠ざかる。 「泣かせたいわけじゃない」  目元を拭われてやっと、みっともなくべそなんかかいていることに気づかされる。 「これもそそるけどな」  茶化して言った丈は、ぐちゃぐちゃになった日夏の髪を指で梳いて、宥めるように頬を撫でると、さて、と立ち上がって居間を出て行った。    天井ボードの模様が、垂れ下ちた蛍光灯の紐が、ぼやけて歪む。  ほのかに火の灯った身体が、生焼けてくすぶるのは自分のせいだ。  顔の上で両腕を交差して、目を瞑る。込み上げる自己嫌悪が過ぎ去っていくのを、じっと待つしかない。  チチチ、コンロの音。台所から、重たい煙草のにおいが漂ってきた。

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