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呑み処東雲2 第4話

 背の高い女だった。目線の位置は自分より上で、ヒールを履いた雪絵よりも高いと思う。すらりと痩せた身体つきは、声と同様にどこか少年のようだ。ゆっくりと瞬いた化粧気のない目蓋の奥から、こんな季節の、寒い冬の朝のような冷たい色の目が覗く。日夏の顔とその奥の部屋をわずかに行き来させて、驚きから回復したのだろう、彼女はごく落ち着いた声で言った。 「丈は、ここには?」 「えと、あの」  意味もなく口ごもってしまった自分に、頬が熱くなるのがわかる。無意識に前髪を引っ張っていたことに気づいて手を引っ込め、日夏は今し方の簡単な出来事をしどろもどろに伝えた。 「あの、さっき、出かけたばっかりなんです」 「そっか。帰りは遅くなりそうかな」 「えっと、混んでなければすぐに帰ってくると思います」  訝しげな目線に、それでも言葉が足りないのだと気づく。 「あ、病院に行ったんで」 「病院?丈が?」 「はい。風邪で……」 「ほんとに?今年は異常気象だって言うけど」  あまりの言い方に思わず笑ってしまったが、目の前の女はにこりともしていない。疑いようはないが、きっと丈をよく知る人物の一人なのだろう。メモを残そうとしていたと言っていたっけ、開きかけの鞄を閉じる動作に伴って、顎ほどまであるボブの髪がゆっくりと落ちる。再びすぐに顔を上げてそれを耳にかける億劫な仕草が、なんだか人をどきりとさせる人だった。 「じゃあ、しばらく時間を潰してから出直してもいいかな。こっちの都合で申し訳ないんだけど」 「俺は全然……時間潰すって、どこでですか?」 「駅まで戻れば、どこかしら開いてるところあると思うから」  あっさり言って立ち去ろうとするのを、慌てて呼び止める。 「あの」  駅ビルのコーヒーショップなら、確かにこの時間もう開いているだろう。ただ、口ぶりからして今来たばかりの道を引き返させるのは、追い返すようであまりに気が引けた。 「よかったら、ここで待っていてください」  また驚いたように彼女の目が見開かれる。まるで自分の部屋であるかのような言い方を責められたみたいだなんて、場違いな自意識過剰だ。 「あ、俺が言うのは変なんですけど。俺、今丈さんにお世話になってて、あの、居候で」 「そっか。私もそうだった」  不意に、冬の朝の瞳が、日が差したように優しくなる。その温度の名前を探せば、たぶん、懐かしさというのが一番近いのだろうとなんとなく直観した。    玄関先に彼女を待たせ、急いで居間を片付ける。窓をほんの少し開けて換気し、布団を隣室に避難させ、寄せていた炬燵テーブルを引っ張り出し、寝巻のままの自分に今さら気づいてパーカーを被りながら、やかんを火にかける。  彼女は炬燵に入って黙って居間を見回していたが、日夏がテーブルにマグカップを置くと、控えめにふっと笑った。 「そのマグ、まだあったんだ」 「え?」 「私よりずっと似合ってる」  一瞬の混乱のあと、お互いの手元を見比べて焦る。趣味ではないと丈が苦笑していたのは、彼女へ差し出した白いマグではなく、この熊のマグだ。 「あの、これって」 「いいの、使ってあげて――ええと、名前聞いても?」 「日夏です」 「私はセリナ」  しばらく鞄を漁って彼女が出したのは、一枚の名刺だった。 「辞めちゃったけど、ここの司書だったんだ。もしかしたら一度くらい会ってるかも」  白い名刺には黒いインクで大きく市立図書館の名前と、その下に少し小さく「サービス係 前田芹菜」とある。図書館には無縁なのだと告白しそびれたまま、芹菜はいただきますと口の中で唱え、ブラックのインスタントコーヒーを一口、二口と飲んだ。ふう、と息をつくと、暗い青色の表紙の分厚い本に手を乗せる。 「私の忘れ物はこれ」  テーブルの上に出したままの、昨日出会ったばかりの詩集だった。 「……すいません、俺、勝手に開いちゃいました」 「ううん、どうだった?」 「まだ全然途中までだけど……よかったです」  芹菜はわずかに表情をほころばせ、顎を軽く引いた。それから顔を上げて、壁際の本棚を見る。 「それと、一冊だけ料理の本あったでしょ?」 「あ。はい」  本棚には確かに、料理の入門書が一冊だけある。今も続く国営放送の料理番組のバックナンバーは、自分が生まれるより前の発行で、古ぼけた色の写真の古ぼけ本だった。丈の蔵書に一冊でも料理に関連するものがあるのに驚いたし、この部屋で最初に目についた本を日夏は時々めくっていたから、今も振り返ればどこにあるかわかる。彼女はやおら立ち上がると、本棚を前に指先をしばらく彷徨わせ、その料理本を抜き出した。 「挨拶なんて口実で、本を取りに来たようなものかも。二冊ともいきさつがあってもらった物だから、やっぱり手放したくなくて。ごめんなさい」 「そんな」  いい子ぶったことは全然言えないから。首を横へ振りながら感じているのが、マグカップの持ち主が彼女だった驚きとか、詩集を取り上げられてしまった落胆とか、そういうのを全部含めた、以前に丈と暮らしていた人への動揺とかではないなんて嘘はつけない。丈に助けられて最初に渡されたのは女物のティーシャツだったし、台所の赤いやかんも、熊のマグカップも、自分の知らない誰かの物なのだと、予感なんて遠いものではなく理解していたはずなのに。 「文庫にもなってるから、興味があったら読んでみて……なんて、妙な気分。丈はたぶん、一度も開かなかったんじゃないかな」  芹菜は再び炬燵に入り、小さく笑って暗い青色の表紙を撫でた。 「そうかも、です」  目を落としたマグカップの中、湯気を立てるカフェオレに天井の蛍光灯が映り込んで、きらきらと揺れる。手のひらで包むとまだ熱いくらいのそれを、日夏はただじっと見ていた。向かいの芹菜が灰皿を引き寄せ、細い煙草を咥える。 「――煙草、平気?」  頷く日夏に頷き返して、火をつけた。  パッケージはケントのメンソール。煙を明後日の方向に吐くのが丈と同じだ。  彼女は日夏のことを何も聞かなかったし、日夏も彼女のことを殊更には聞けなかった。日夏が今は呑み処東雲で働いていること、崇を初め常連客の中には彼女と面識のある人もいたこと、そんなことをぽつりぽつりと話しながら、やはり彼女は時折懐かしそうな目をした。その度、そこに映る過去が見えるような気がして、日夏の胸は少しだけしくりと痛んだ。    西向きの窓の色が少しずつ明るくなってきた頃、玄関のドアが音を立てる。ガラリと戸を開けた丈が、果たして驚いたような顔をしたかどうかはわからない。 「芹菜」 「マスク、似合わないね」  芹菜がくすりとも笑わず指摘したように、目深に被ったニット帽に加えて、今は顔のほとんどをマスクで覆っている。 「俺だってそう思う。向こうで渡されたんだよ」  マスクの下から聞こえるくぐもった声も、ごく真面目くさったトーンだ。 「急にごめん」 「いや、構わんが。どうしたんだ?」 「本を取りに来たの」 「ああ」 「それと、最後に会っておきたくて」  芹菜はゆっくりと立ち上がって、丈に向き直る。そうして見てもやはり背が高く、落ち着いた低い声や素っ気ない態度も、どこか似た雰囲気の二人だった。 「街を出るんだ」 「そうか」 「うん、元気で」 「お前も」  丈の差し出した手を彼女が握り返し、握手はあっさりと解けた。   「いいんですか?」 「何が」 「えと……もっと話さなくて」  怖々と見上げた先の丈が、短く笑ったのがわかる。 「いいんだよ。相手させちまって悪かったな」  芹菜の姿はもうドアの向こうで、階段を響かせる硬い足音も聞こえなくなった。  だらりと垂れていた丈の手に堪らずに触れると、かじかんだ指が握り返してくれる。安心した途端にごまかしていた緊張感と疲労感に襲われた気がして、日夏は着ぶくれたダウンの腕に頭を寄せた。息を吸い込むと、消毒臭いような、嗅ぎ慣れない病院のにおいがする。 「どうした?」 「ううん」  大きな手が頭を日夏の頭を軽く揺する。 「なんだ、言え」 「お医者さん、なんて?」 「何も。ただ三日分の薬をもらってきただけだ。うがい薬に解熱剤に胃薬に、漢方薬まであるぜ」 「インフルエンザじゃなかった?」 「ああ。検査までさせられて、余計な金が飛んだ」 「よかったじゃないですか」 「そうか?」 「うん。あの、丈さん」 「なんだよ」 「前に、匿ってたって……俺と、おんなじような人を」 「ああ」 「芹菜さんのこと?」  直接聞けなかったことをこんなふうに聞くなんて、ずるいと思うけど。勇気を振り絞った質問の答えは、平然としたものだった。 「いや、それはまた別の話だ」 「別?」 「あれは人助けみたいなもんだな。芹菜はその後に、しばらくここに住んでた」 「恋人?」 「そんな大したもんじゃない」  見上げた顔はマスクに覆われているが、かすかな身じろぎと目元に浮かんだ皺から、呆れたように、もしかしたら愉快そうに、笑っているのだとわかる。  ダウンの生地に頬を押し当てると、くしゃ、軽い衣擦れの音がした。 「じゃあ……俺は?」 「うん?」  慌てて丈の腕から離れる。 「ごめんなさい」  自分に、まるで彼女達より価値があるみたいな言い方をした。傍に置いてくれるだけでいいと縋ったのは自分のくせに、口から出たのは強欲な本音だ。恥ずかしくなって項垂れた頭を今度は小突くように強く撫でて、丈は少し乱暴に日夏を抱き寄せた。 「悪かったな」 「……ううん、ごめんなさい」 「なんでお前が謝るんだよ」 「だって」  ぎゅっと、さらに腕に力が込められる。丈は日夏の顔を覗き込み、手首にぶら下げたビニール袋をがさがさと揺らしながらマスクを顎まで下げた。少し充血して潤んだ目。まだ熱だってあるのだろう、息も熱い。 「聞きたいならなんでも話す。ただ、お前の言う恋人と一緒に住むっていうのは、この部屋ではこれが最初だ」  うん、と答えたかった。  でも、一言でも喋ってしまったら、たぶんぎりぎりで堪えている涙が引っ込まなくなると思う。こく、こく、と大げさに頭を振って頷く日夏を宥めるように両腕で抱きしめると、丈は浅く咳き込んだ。 「こんな有り様じゃ、恰好つかねーわ」  はっと顔を上げた日夏を制するように頬を撫でて、にやりと口の端で笑う。 「いつまでもお前に面倒見てもらいたい気もするが、薬ももらったことだし早く治すよ。昨日の粥、まだ残ってるか?」 「終わっちゃったから、新しいの作ります。できるまで寝ててください」    冷え切ったカフェオレを流しにこぼし、マグカップを二つ洗う。  時間をかけたくないので、ホタテ缶を汁ごと使って、白菜を淹れたあっさり味のお粥にしよう。念のため丈に使用許可を仰ぐと、ホタテ缶の存在すら忘れていたらしい、好きにしろと笑われる。  ふつふつと鍋の縁が泡立ち始める音を聞きながら、うっすらと重なった波紋の消えない心の中を見つめる。  嬉しかった。  嬉しかったし、驚いたし――やっぱりショックだったのだと思う。  パーカーの袖を目に押し当てて、深呼吸をしてから離す。小さな水溜りの模様がいびつにスタンプされていた。あれだけ泣かなかった自分が、丈に会ってから、すっかり栓が緩んでしまったみたいだ。

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