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呑み処東雲2 第3話

 足跡だらけの雪の上で、何回か足を滑らせた。道行く人は皆平気そうな顔をしていたけれど、きっと同じように内心ではひやひやしていたと思う。ドラッグストアからスーパーに寄って帰るルートは少し遠回りで、やっとの思いで帰り着いたアパートの、鉄板が剥き出しになった階段を感謝しながら上る。丈が夜のうちに雪を除いてくれなければ、両手に荷物を提げた自分がほっと安心するのはもう少し先になったろう。 「丈さん、薬……」  奥の寝室へ呼びかけてみても返事がなく、ささやかな冒険譚を聞かせたい相手はすっかり眠っていた。  宝探しの後のような気分で取り残されたまま、丈の枕元に膝をつく。寝顔を覗き込むと、影が落ちてぐっと彫刻じみた印象になる。高い額から鼻筋のラインは苦しそうではないけど、きっと顔には出ないタイプだ。伸ばしかけた手を握って、戻す。こんなふうに寝息を立ててぐっすり眠る丈を、日夏はほとんど見たことがない。それもそうだろう。丈は茶化していたけど、今もまだ、別々の部屋で寝ているのだから。  だって。と、閉じた薄い目蓋を見つめる。  だって。本当に好きになってしまったのだ。  こうやって寝顔を見ているだけで胸が苦しいのに、キスをするだけで蕩けてしまいそうなのに、もっと近づいたらどうしようもなくなると思う。嫌がることはしないなんて、まるで箱入りの初心な少女でも相手にするようなことを言うから。自分の身体がきれいなままのように錯覚してしまうけど、本当はそんなこと、全然ないんだ。驚かれるかもしれないし、呆れられるかもしれないし、嫌われるかもしれない。一つも明るい想像ができなくて、丈に甘えてずっとはぐらかしている。  引っ込めた手をもう一度伸ばして、指先で頬にこっそり触れる。  追いかけて来る鼓動から逃げるように、日夏は寝室を出た。    日の当たらない台所は、まだ息が白くなりそうなほど寒い。  テーブルの上に荷物を置いて、中身を取り出していく。丈が起きたらすぐに作れるように、準備だけしておこう。  チチチ……ガスコンロの音で心が落ち着くのは、ひょっとして職業病なんだろうか。丈はそんなこと微塵も感じないと笑っていた。  鍋に水を入れて、ネギの頭と、厚く剥いた生姜の皮、酒を少しと塩、ざっと筋を取った鶏のささ身を入れて茹でる。鍋の縁からゆっくり立ち昇る湯気に乗って、ネギと生姜の効いた鶏出汁のいいにおいが鼻をくすぐる。丁寧に灰汁を取って、あまり茹ですぎずに火を止めれば、あとは蓋をして余熱を通しながらじっくり冷ますだけだ。  チチチ、次に、隣りのコンロで小鍋を火にかける。自分用のミルクティーは、水と牛乳を半々入れて温め、ティーバッグを沸騰させないように煮出して作る。今度は牛乳の少しもたついたにおいと紅茶のよい香りが漂い始めて、嗅覚が混乱しそうだなと日夏は一人で笑った。  この部屋にあって不似合いな物ナンバースリーに入るだろう熊のマグカップにミルクティーを注いで、砂糖をたっぷり溶かして、さっきついでに買ってしまったビスケットと一緒に居間へ戻る。  いつもなら隣りには丈がいて、外国語だらけの資料を片手に翻訳作業をしていたり、パソコンで英語のニュース番組を見ていたり、時々は本を読んだりもしている。日夏はその横か向かいに座ってテレビのワイドショーやバラエティを見たり、音だけ聞きながら洗濯機をかけたり掃除をしたりしている。  雪は止んだけれど今日もぐずついた曇り空だから、洗濯物は干せない。掃除機の音はうるさいし、眠気はとっくにどこかへ行ってしまった。ぽつんと一人でいる自分に気付いて、ふと寄せてくるのはたぶん、不安だ。このアパートでは――丈に会ってからずっと、彼と彼の生活を中心に過ごしていたから、突然一人になるとどうしたらいいかわからなくなる。ずっとそうだった。誰かに頼っていないと、何もできない自分。役に立てるような気持ちになるから、丈が風邪を引いてくれて本当は少し嬉しい、なんて、馬鹿だな。  炬燵のスイッチを入れて、テレビは消音にして映像だけ流す。  触っていいと言われていても、家探しする理由はない。ぐるりと居間を見回してから、日夏は本棚へ手を伸ばした。  本棚はその人を表すとよく言うけれど、なんだか気恥ずかしさもあって丈の本棚をあまりじっくり見たことがない。一部が小物置場になっていて、煙草や使い捨てライターのストック、ペットボトルのおまけなんかが置いてあるのは知っている。ずらりと並んだ難しそうな背表紙の一つに指を引っかけると、この間読んでいた英語の本が出てくる。文字ばかりで写真や絵もなくて、諦めてすぐに戻して、また引っ張り出しては戻すのを何度か続けているうちに、暗い青色の分厚い本にたどり着く。タイトルには日本語で「二十億光年の孤独」とあり、ぱらぱらとページをめくると、どうやら詩集のようだった。  熊のマグカップ、ミルクティー、ビスケットと詩集、そして自分。どれもこれもこの部屋には不似合いだと少しおかしく思いながら、日夏は炬燵に潜り込んだ。    昼をずいぶん回った頃に、寝室側の戸が開く。  詩集に夢中になっていた日夏を黙って見下ろしていたらしく、ほんの少しそれを恨みがましく思いながら、慌てて顔を上げる。 「丈さん。具合どうですか?」 「良くはなってないな」 「朝よりしんどそうです」  無精ひげを撫でてほろりと笑う仕草は、やはり億劫そうだ。 「俺、薬買ってきました」 「なんだ……悪かったな」 「全然。あの、待ってて、あ、でも何か食べないと。食べられますか?」 「忘れたのか?」 「ううん」  憶えていてくれた。ひどいかもしれないけど、たぶん今、笑ってしまっていると思う。 「すぐ用意しますね」  気に入ってもらえるように考えたのだ。  下ごしらえは終わっている。ささ身の茹で汁に和風だしの素と冷やご飯を入れて、火にかける。千切りのネギと生姜、手でほぐしてたささ身を混ぜて、醤油をたらして最後に卵で綴じた、具だくさんの卵粥をお椀によそって運ぶ。 「うまそうだな」 「味、濃すぎたかも……あと、生姜も効きすぎかも」  スプーンで掬って口元に運ぶのを思わずじっと見ていたら、横目で苦笑された。 「うまいよ」 「……よかった。さらさらのお粥より、これくらいのほうが俺は好きなんですけど」 「そうなのか」 「うん」 「そう見られると食べにくいんだがな」 「あ、ごめんなさい」  はふ、と、丈が少し熱そうに啜ると、うっすら白い湯気が漏れる。 「……店は、休みにしとくか」 「はい」 「それとも、お前だけ出るか?俺はいてもいなくても同じだが、お前の料理を食いたい客はいるだろうから」 「そんなの」  そうやってすぐ冗談にするけど、あの店の客は皆、丈に会いに来ているのだ。それに―― 「だって」 「うん?」 「だって俺は、丈さんに食べてほしい、し」  勇気を出して放った本音は、驚いたような沈黙の後の破顔と、頬を撫でる熱いくらいの手のひらで報われた。 「そうか」  楽しそうに笑う振動が伝わってきて、思わず目を閉じる。  今度ははっきり、丈が失笑するのがわかった。 「煽るなよ」 「え?」 「お前にうつしたくなる」  キスの時には目を瞑るようにと、時々揶揄い混じりに諭されることを思い出す。まるでねだるようなことをしたのだと気付いた時にはもう顔が熱くて、前髪を引っ張ってそれを隠す。 「薬、持ってきますね……」  日夏は少しよろけながら、くつくつと追いかけて来る忍び笑いから逃げ出した。    ドラッグストアでは、風邪薬とその隣にあった葛根湯のドリンクを買った。薬を飲んですぐに寝てしまった丈は、夜に一度起きて、同じようにお椀一杯のお粥を食べて薬を飲むと、またすぐに寝てしまった。風邪を治すには薬を飲んで寝るに限るという丈の方針に、反対意見はまったくない。  胸騒ぎなんて直観的なものではなく、ただ心配で、何度も隣りの部屋を覗いてしまった。夜中になるとずいぶん熱が上がったらしくて、それにまたはらはらして、結局全然眠れなくて。  明け方近くになってようやくうとうとし始めて、玄関の元音に気付いた瞬間、文字通り飛び起きたと思う。  二人で暮らしている部屋なのだ、中から鍵を開ける音がしたのなら、それは自分でなければ丈しかいない。慌てて開いた戸の端に、強かに足をぶつける。声も出せずに苦悶すると、かすかな失笑の気配がした。 「なにやってんだ」 「……丈さん、どこ行くんですか?」 「病院。どうも治りが悪い。年だな」 「俺も行きます」 「いいよ」 「だって」  いつものダウンにジーンズ、今はニット帽を深く被っている。足元は既にスニーカーで、ドアノブを捻ればもう出ていってしまうのだろう。ダウンの裾を引っ張って引き留めると、丈は眉をしかめて笑ってみせた。 「いいおっさんだぞ。子供じゃあるまいし」 「でも」 「留守番しててくれ、お前まで風邪引かれたら敵わん。金曜には予約が入ってたろ」 「あ、うん」 「それまでには治さなねーと、俺もお前も食いっぱぐれるからな」 「……うん」  不承不承頷く日夏の頭を、大きな手が一度、二度、三度、と撫でる。 「お前の寝癖は、いつも勢いがいいな」  はっとして隠そうとしても、余計に笑わせるだけ。 「中から鍵閉めとけ」 「うん……行ってらっしゃい」  ドアから身体を半分出して、丈を見送る。今朝はようやく晴れたようで、空は明るく、階下の道路も雪はすっかり溶けて、ところどころ泥混じりの水たまりができている。  日夏は言いつけどおり鍵を閉めて、ひとまず洗面所に向かった。中は少しむっとするように温かく、石鹸のにおいもする。この間買ってもらった白い洗濯かごの中には、脱いだ寝巻も入っていて、日夏は水音にも気付かずに寝ていたらしい。  白く曇った鏡を手のひらでこすると、ぼやけた向こう側には、確かに髪の毛があちこち跳ねた自分が映っている。最近ではもう、どこに痣があったか思い出せないくらいに跡も消えて、鏡を見るのが嫌ではなくなった。顔を洗った手で寝癖を直して、前髪をつまむ。時々、台所鋏で五ミリくらい切っているのだけど、やっぱり邪魔なままだな。  ピンポーン。  突然のチャイムに、びくりと肩が震える。  忘れ物だろうか。財布?保険証?  訝しみながらも急いで玄関に戻り、鍵を開ける。ドアの隙間から、低い声が聞こえた。 「なんだ、起きてたの」  声変わり寸前の少年のような声。 「チャイム鳴らしといてなんだけど、今、書き置きだけ残しとこうかなって――」  目の前には、すらりと背の高い、見知らぬ女が立っていた。  鞄を探っていたその人はふと目を上げると、息を呑んでから、ゆっくりと睫毛を瞬かせた。 「――ごめんなさい」

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