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呑み処東雲2 第2話
夜半に降り始めた雪は、ゴールデン街の明かりが一つずつ消え、やがて呑み処東雲が店仕舞いになっても、止むことはなかった。
表のシャッターが下りる音が、今日はとても響く。
何年ぶりに見る雪だろう。
真っ暗な空から、白い雪が音もなく落ちてくる。ずっと見上げていると、空と地面が反転して、まるで自分があの真っ暗に落下していくような気分になる。
「転ぶなよ」
ダウンのポケットの中で鍵束を鳴らしながら、丈が戻ってくる。
「……うん」
上の空の返事に彼が無言で笑ったのだと、白い息が大きく広がってわかる。日夏の髪に落ちた雪を軽く払って、フードを引き上げると、自分のフードもひょいと上げる。少し目を細めて帰り道の方向を眺めて、また、無言で笑った。
地面にも、路肩に停めた車にも、歩道の端の欄干にも、全てに雪が積もっている。一歩踏み出せば、綿菓子のようなイメージとは裏腹に靴底がぎゅっと鳴る。路地裏にはまだほとんど足跡がなく、ぎゅっ、ぎゅっ、と鳴らしながらそこに一つずつ足跡を増やしていくのは、どこか特別な気分になる作業だった。
少し遠くで、女性達のさざめき合う声が聞こえる。異国人のホステス達は一様にコートの前をかき寄せながら、これからタクシーを拾うのだろう、表通りに向かって歩いていく。すれ違いざまにこちらに気付いて気安い仕草で手を振り、丈は顔見知りの彼女達とフランクな英語で二言三言、言葉を交わす。
「気をつけて」
ポケットから出した手を軽く掲げた丈に、彼女達はめいめいに頷いて、明るい通りに消えていった。
丈にとっては、よく知った街での、よく知った女達との、よくある出来事の一つ。こういう時自分はなんとなく疎外感を覚えて、その大きな背中に隠れてしまう。ちらりとこちらを振り返った丈は、やはり無言で笑うと、またゆっくりと歩き始めた。ダウンの擦れる音がして、
「ほら」
素っ気なく言われたことがすぐには理解できなかった。数秒経ってやっと意味を知り、日夏は慌てて首を横に振る。
「いいです、へいき」
「そうか」
転ばないようにと差し出してくれた腕に、恥ずかしげもなく自分の腕を絡めることができたら、少しは可愛げがあるだろうか。あっさり頷いて、もう振り返らない丈の背中を追いかける。誰もいない、月明かりもない、ところどころで淡く光る外灯を頼りに、数歩先の大きな靴跡に自分の足跡を重ねて歩く。時々振り返ってくれる丈に、でも今夜はうまく話し掛けられる気がしなくて。前を歩く彼のダウンの裾に何度も手を伸ばしかけてはやめているうちに、古いアパートが見えてきた。
階段の前で立ち止まった丈が、人差し指を上に向けて言う。
「日夏、先行け」
「え?」
「お前の上に俺が落ちたら、ことだろ」
「丈さんが?」
想像して思わず笑った日夏に、丈も笑う。大きな手に背中を押されて、雪の積もった階段を一段、二段、慎重に上る。二階の廊下の蛍光灯が一つ切れかけていて、ちか、ちか、と空気が明滅している。日夏を抱くように真後ろに続く丈が、手すりに積もった雪を払ってくれる。現れた剥がれかけのペンキではなく、その上の冷たい手に手を重ねると、優しく握られて、日夏は耐えきれずに振り向いた。
鼻先が触れ合うほど近くに、丈の顔がある。少し驚いたように片眉が上がった。
「なんだ?」
「高さ、ちょうどいいですね」
「お前なあ」
苦笑を刻んだ丈の唇に、前触れなく唇を寄せる。かさついた表面が擦れて、それからすぐに、温かい粘膜が合わさる。軽く吸って、弱い下唇を舌先でなぞって日夏を感じさせると、今度は少し強く吸う。二人分の息が湯気のようにぼんやりと広がって、離れ際、真っ白になった。
「大胆だな」
揶揄うように笑う振動が、繋がった手から、触れた胸から伝わる。いつでもひたひたと感じていて、自分でも、いつ溢れるかわからない気持ち。
恋しいのだ。
ぎゅっと噛んだ唇は、かすかに煙草の味がする。
「おい、日夏」
無言で抱きついたくらいで、よろめく人ではない。
力強く抱き返して、とん、とん、背中をあやしてくれるリズムが好きだ。もう一度目を上げると、いつもならずっと高い所にある視線と真正面で絡んで、もう一度唇が近づいたけれど。急に日夏を引きはがして、そっぽを向いた丈が大きなくしゃみを一回、少しして、もう一回。
「……あの、ごめんなさい」
「なんでお前が謝るんだよ」
「だって」
「まあいい、早く入ろう」
鼻を啜った丈に促されて、残りの階段を上る。無人の部屋は外と変わらないくらい冷え切っていたが、それでも、毎日、帰り着くたびに、飽きもせず家のにおいにほっとする。
「あの、丈さん」
「ん?」
「出かけるんですか?」
丈はまだスニーカーを脱がない。玄関の隅をごそごそと探して再びドアノブを握るので、追いかけるように日夏も玄関に降りたのだが、肩を押し返されてしまう。
「いや、階段の雪かきだ」
「今?」
「今やっとかないと、朝には凍っちまうからな」
「俺も手伝います」
「大した作業じゃない、一人でいいよ」
「でも」
雪に慣れない自分には、この瞬間まで雪かきという概念がなかった。ニュースでは良く見るけど、どこか異世界の出来事のようで。ほんの数センチ積もったくらいでも、必要なんだろうか。丈が言うなら、きっと必要なんだろう。
「風呂沸かしといてくれ。こんな日は、あったまってから寝たい」
「……うん」
頷く日夏の頭を軽く撫でて、ほうきを片手に出ていく。
感触が去った頭をたまらずに自分で撫でてから、日夏は真っ暗な部屋を振り返った。まず台所と居間の電気を点けて、エアコンのスイッチを入れる。引き返して、廊下の奥へ進み、風呂場の戸を開ける。とびきり冷たい空気に身震いしながら浴室へ入り、氷のようなタイルにつま先を恐る恐る下ろす。古いアパートの、古い浴室だ。一面に薄い青のタイルが敷かれていて、浴槽の横にはガス給湯器がくっついている。カチカチッと給湯器の取っ手を回すと、小さな窓の中で、ボッと炎が上がる。蛇口を捻って湯を出して、十数分後、ちょうどいい頃合いに止めに来ないといけない。子供の頃、祖母の家の風呂場に同じような給湯器があったのを、いつも懐かしく思い出してしまう。
言いつけはすぐに終わり、ぽつん、とした気分になる。テレビを点けよう。それから、そうだ、やかんを火にかけておこう。きっとコーヒーが飲みたくなるから。
ドサリ、大きな物が降ってきたような音で、目が覚める。
部屋は薄暗い。頭まで被っていた布団からそっと顔を出すと、まだ朝と言える時間だ。ひどく静かな朝。起きるには早すぎると思ったものの、音の正体が気になってすぐには目を閉じる気になれない。思い切って布団から出て窓を開けると、すぐに隣室の戸がガラリと開いた。
「あ。ごめんなさい、うるさくして」
「お前のせいじゃない。外の音だろ?」
「うん」
「屋根から雪が落ちたんだろうな」
「あ、そっか。雪……」
ぼんやり呟いて柵から首を伸ばすと、外の世界は真っ白で、きらきら光っていた。
「すごい……」
「遊んできてもいいぞ」
よほど嬉しそうな顔をしてしまったんだ。きっと揶揄の表情で笑っているのだろうと顔を上げると、でも、見下ろす視線は予想と少し違った。
「丈さん」
「ん?」
ほら、やっぱり。
丈の額に手を伸ばすと、彼は心地よさそうに、赤い目を細めた。
「どうした?」
「熱いです」
「ああ、うん」
「熱計りました?」
「いいよ、とりあえず寝とくから」
「だめです。あ、病院、かかりつけとかありますか?」
「大げさだな」
「だって」
はっとして、窓を閉める。雪かきのせいだろうか。いや、その前にくしゃみをしていたし、もっと前、寝起きにキスをした時にはもう熱かったかもしれない。
見上げる日夏の頭を、丈が軽く小突く。
「珍しく雪降ったら風邪引くとか、年だな、年」
「そんなの」
「とりあえず、寝る場所交換してくれ。お前は居間使え」
「あ、うん」
「元々、こっちが寝室だったんだが」
「……ごめんなさい」
「いいよ。まあ、別れて寝る理由もなくなったけどな」
なんでもない調子で言うから、息が止まりそうになる。
「いや、今は大ありだった」
それからすぐに前言撤回して、のそりと居間に戻ってしまう。彼の布団を抱え上げてこちらに運び、日夏の布団を同じように抱え上げ、向こうへ運ぶ。
「一応言っておくが、居間の……というか家のもんは全部好きに使っていいぞ。触られたくないもんなんてないからな、変な気は遣うなよ」
「……うん」
「お前ももう少し寝ろ」
「でも」
見た目よりずっと辛いのだろう。億劫そうに布団に潜り込むと、短い髪を掻き上げて、ため息を吐き、少し潤んだ赤い目をこちらに向ける。丈は呆れたように笑っていた。
「ほら、いいから寝ろ。まだ早いだろ」
追い出そうとする丈をどうやって説得しようか考えていると、目の前を大きな影が落ちていく。ドサッ……ドサリ。続けざまに雪が滑り落ちたのだ。今度は、天井が少し揺れるくらいの勢いだった。
枕の上で首を動かした丈は、もう一度深くため息を吐いた。
「安いだけが取り柄の古いアパートだからな。耐震基準も満たしてないし、夏は暑いし冬は寒いし、おっさんには辛いってことか。考え時かもなあ……そうだ、日夏」
「はい」
「起きたら、何か作ってくれ」
「……うん」
「病人食を食えるなんて、滅多にないチャンスだからな」
悪戯っぽく言って、三度目の退室の要請は手振りだけ。
ずっと大人の彼に、敵うはずなんかない。目を瞑ってしまった丈の顔をそれでもしばらくじっと見て、静かに部屋を出る。もうすぐドラッグストアが開くから、まずは薬を買って、それからスーパーに寄ろう。卵粥にしようか、それとも野菜のおじやにしようか。
後ろめたいけれど、なんだか少し、楽しい。
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