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呑み処東雲2 第1話

 冬の星を少し憶えた。  夜空にたくさんの名前が散りばめられていることに、ずっと気付かなかった。今にも燃えてなくなってしまいそうなほどきらめいているのはシリウス、他の二つと合わせて冬の大三角、昔習ったオリオン座もわかるようになった。それを辿っていくと、すばるがある。頭上にはあまりにたくさんの星が輝いていて、本当に同じものを見ているのか時々自信がなくなるけれど、指差し合った先がもしも交わっていなくてもいいと思う。帰りたくないのに他に帰る場所もなくて、スニーカーのつま先をじっと見ていた自分の頭上にあったあの夜空とは、まるで違うから。  二階建ての古いアパートは、自分よりも年上なのだという。開けるたびにきいきいと軋む集合ポスト、足音を響かせすぎる鉄製の階段を上ると、二階の角部屋が夜明け前の寒さにじっと耐えている。部屋は暗く、凍るように冷たくて、でも、やがて少しずつ温かくなっていく。電気が点いて、壁掛けのエアコンが音を立てて、テレビから声が流れて、台所のコンロに火が点いて、そのうちにやかんの笛が鳴って。  大瓶を傾けて目分量で淹れるインスタントコーヒーにも、たぶん慣れた。紺のマグカップにはブラックで、熊のマグカップには砂糖と牛乳をたっぷり入れて。飲んだことがないからわからないけど、ブラックはどんな味なんだろう。  明け方のコーヒーのにおいが好きだ。  マルボロの重く燻るにおいと混じって、はじめはなんだか知らない土地の空気のように感じたけれど。今は、目を瞑れば、そのままうっとりと眠りに誘われてしまうくらいには心地いい。 「布団行け」  低くて、素っ気なくて、今は少し笑っている声。  薄目を開けてそろりと見ると、思ったより近くに横顔があって、慌ててまた閉じる。頬杖をつく精悍なラインは、まるで彫刻のよう。高い鼻梁の奥の少し落ち窪んだ目は、声よりずっと優しい。顎ひげの似合う顔立ちはどこかエキゾチックで、思わず見惚れてしまうほど。それは、目を閉じたくらいで消えるものではなくて。心臓がどきどきして、頬が熱くなる。  大きな手が頭に乗って、くしゃっと髪の毛をかき回す。 「風邪引くぞ」 「……うん」  空返事のままのぐずぐずするふりをしているのを、また喉の奥で笑って、ふーっと向こうへ煙を吐いたのがわかる。 「どうした?一緒に寝たいのか?」  こんなに離れがたいはずの炬燵から、今はすぐに出ていきたい。  焦って腰を浮かす日夏の頭を軽く小突いて、猫にでもそうするみたいに顎をくすぐるから、鼻声が出てしまった。 「んっ……」 「日夏?」 「……布団、行く」 「さっきからそう言ってる」  彼独特の、人の悪い言い方。でも、今日はこれ以上揶揄うことなく、逃がしてくれるみたい。  追いかけて来る忍び笑いから逃げた先の部屋は寒く、戸を閉めれば明かりもほとんど届かない。潜り込んだ布団も目が覚めるほど冷たいけれど、目が覚めてもまだ夢を見ているみたいだと思うことがある。目が覚めても、戸を一枚隔てた場所には変わらず丈がいて、とびきり温かいあの店がある。店には彼を慕う人達がやって来て、こんな自分にまで優しい。  だから、時々、泣きたくなるんだ。  ふっと、遠くから、煙草のにおいが漂ってくる――ああ。  どきどきする心臓と、きゅっと痛む眉間。布団を頭まで引き上げて、日夏は身体を丸めた。    この冬何度目かの大寒波は、予報通り日本列島を覆っているようだった。西向きの部屋は薄暗く、布団から這い出してカーテンを開けても、曇った窓ガラスで何も見えない。手のひらで結露を擦ってから外に目を凝らすと、ごうごうと唸りを上げそうなほどどんよりとした曇天と、灰色の景色が広がっていた。  隣室からは物音がしない。いつも日夏よりずいぶん後に眠る丈は、まだ寝ている時間だ。丈の傍を通り抜けるのはやめて、廊下に面したほうの戸から出る。冷たい床をそろそろとつま先立ちで歩いて、冷蔵庫を開ける。思い出したのだけど、こんな寒い日には食べたくなるものがあるのだ。  冷蔵庫から、数日前の残りご飯と牛乳を取り出す。果物の買い置きはないので、シンプルなやつになりそう。片手鍋に水と牛乳とご飯を入れて、チチチ、火にかける。その内にじわじわと鍋の縁が泡立ち始め、ふわりと牛乳のにおいが鼻をくすぐる。この立ち昇る白い湯気は、ずっと見ていられると思う。焦げないように注意しながら、一度上着を羽織りに戻って、ご飯が柔らかくなるまでじっくり煮る。砂糖を入れてもいいけど、焼きりんごに使ったシナモンとフレンチトーストに使ったメープルシロップがあるから、それをたっぷりかけることにする。  スプーンで掬って、よく息を吹きかけてから一口。じんわり甘くて温かい粥が、喉を伝って胃の中へ落ちた。  ガラリ、遠慮なく開く戸の音と、大きな人影。 「あ。おはようございます」  丈は少し億劫そうに目を瞬いて、口の端でほろりと笑った。 「何作ったんだ?」 「えと、ミルク粥です」 「甘いのか?」 「あ、うん」  甘党には程遠い彼はちらりと片眉を上げるだけで、それ以上コメントをする気はないらしい。なんだか恥ずかしくなって、ミルク粥の椀をコンロの脇へ隠すように置く。 「丈さん、コーヒー飲みますか?」 「ああ」  やかんを火にかける日夏の横で、丈が長身を折るように屈み込む。咥え煙草を火に近づけて軽く吹かし、換気扇に向かってゆっくりと吐ききったあと、ぼやくように言う。 「今日はまた、えらく寒いな」 「うん……雪、降るかな」 「予報は?」 「ところにより、って」  言いながら見上げると、こちらを見下ろす丈と目が合う。丈の視線は何も強要しないのに、見えない手に促されるみたいに顎が上がる。前髪を払われて、鼻筋が触れ合って、重なった唇は温かく……熱いくらいで。表面を押し付けて少し吸うと、かすかにえぐい苦味がある。 「ん……」  煙草の味は、口移しでしか知らない。舌を痺れさせるような苦味をずっと苦手だと思っていたけど、マルボロは好きだと思う。堪らず丈の寝巻の袖を引っ張ると、もう片方の腕に腰を力強く抱き上げられ、踵が浮いた。    この冬最大の寒波は、またしても記録を塗り替えたとニュースで言っていた。  夕方には、どんより暗く重い曇天から、とうとう雨が降り出す。  暖簾を出そうと店先に出たところで、すっかり顔馴染みの人物と鉢合わせる。見慣れた防水パーカーに防水リュック。眼鏡の奥の眠たそうな目をゆっくり瞬いて、彼がフードを下ろしながら来た方角を振り返ると、はあ、白い息が広がる。 「降ってきたね」 「そうですね」  答えた自分の息もまた、白く広がった。  開店早々、時には開店前にやって来て、黙ってカウンターの一番端に座る人物。折り畳みキーボードの小さな機械を開いて、黙って何時間も作業をする。自由な振る舞いに丈は特に何も言わず、特別扱いは明らかで、言葉がなくても通じているような空気がとても羨ましかった。いや、今だって羨ましい。 「お前、この天気の中よく来たな」 「このままじゃ商売上がったりでしょ」 「たくさん頼んでけよ」 「ん。大根ある?」 「はい」  崇は丈の、たった一人の弟だ。  それに今では、自分は彼のファンでもある。彼の書く小説「空のコズミックイマジン」に魅了された一人なのだ。彼の手元の小さな機械には、今も小説の続きが秒ごとに綴られている。  火を入れ直した大根をよそい、ゆずの皮を少し散らしてから崇の手元に置く。 「どうぞ」 「ありがと」  箸で大根を割りながら、崇がふと目を上げて首を傾げる。手元をじっと見ていたことに、気付かれたらしい。 「なに?」 「あの、少し柔らかくなりすぎちゃったから、大丈夫かなって」 「大丈夫、おいしいよ」  食べる前に言われても、と、内心で拍子抜けする。さして感情のこもらないトーンだけど、彼は終始こんな感じ。  大根はその水分によって仕上がりが変わるので、煮込む時間を調整しないといけない。ある程度は切った時にわかるものの、思ったより水分が多くて、時間が経つうちにほろほろになりすぎてしまったのだ。  自分の失敗と明らかにわかることに、まったく非難がないのは落ち着かない。  横合いの丈を見上げると、口の端でにやりと笑われる。 「言ったろ」 「でも」 「諦めろ」  そう言っただけで、また燗をつける作業を再開してしまう。ヘアピンを留めなおすふりをしながら、少しふて腐れた気持ちで頬をふくらませていると、横目の丈とばっちり目が合う。厨房にはどこにも逃げ場などなく、混乱の末自分が取った行動は、前掛けで顔を隠すなんていうひどいもので。揶揄われても、もうこれ以上真っ赤になれないくらい顔が熱い。  くくく、喉の奥で笑う声。大きな手に、頭を撫でられた。   「うー、さっぶい!」  勢いよく戸が開いて、悲鳴じみた声が上がる。 「外、みぞれ、みぞれになってきた!」  しきりに外を指さして言うのは、金髪碧眼の美男子で、その長身をミリタリーコートに包んだ、まるで映画の登場人物のような外見の人物。 「うるせーな、はやく閉めろ」  しかし、常連客に対する店主の態度は冷静なものだ。  ガラガラと後ろ手に戸を閉めて、白い頬を寒さで真っ赤にしたエディがいつもの席に着く。 「何にする」 「熱燗」 「はいよ。相方は?」 「来れたら来るって。ひなっちゃん、今日の一品は何?」  にこにことこちらに身を乗り出して、日夏の手元を覗き込むので、あとは仕上げるだけの鍋の蓋を開けて見せる。 「白菜と鶏肉のクリーム煮です」 「わお、おいしそう」 「こういう日って、クリーム系食べたくなりません?」 「なるなる、わかるー」  嬉しそうに頷いてくれるので、こっちまで嬉しくなる。彼は、底抜けに明るくて優しい。出会ってまだほんの一ヶ月くらいしか経っていないのに、何度もそれに救われている。  丈はあまり凝ったものを好まないが、それでも日夏の好きに料理をさせてくれる。自分としても高い食材を使ったり、三つしかないコンロをずっと塞いでしまうのは気が引けるので、なるべくさっと作れるものを考えるようにしている。白菜と鶏肉のクリーム煮も、手順は簡単だ。白菜の他に、今日は玉ねぎとにんじん、しめじを使った。鶏はもも肉で、余計な脂身を少し落としておく。最初に鍋で鶏肉を炒めて、次に白菜以外の野菜も一緒に炒める。それから白菜と、コンソメキューブ、少々の水を入れて十分程度蒸し煮する。あっさり仕上げたかったので、ホワイトソース仕立てではなく、牛乳と水溶き片栗粉、風味づけにバターをひと欠片落として、とろとろのクリーム煮を作ってみた。渋い黒の器によそって、こしょうを挽いて出すと、エディは大げさなくらい感嘆してくれた。    途中、暖を求めて駆け込んできた二組の客は、それぞれ軽く引っかける程度で帰っていく。朝倉からエディに不参加の連絡が入り、しばらく彼の噂話に興じていると、また戸が開く。エナメルのレインブーツに、ふわりと揺れるスカートの裾と、長い髪。  鼻の頭を真っ赤にした美女は、どこか嬉しそうに、やはり外を指さすのだった。 「こんばんはー、雪になりましたよお!」

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