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呑み処東雲2 第12話
カレンダーのマス目を一つずつ進む今日が、二月十四日で止まる日。クリスマスほど大きなイベントではないし、誕生日のように個人的な祝い事でもないのに、なんとなくそわそわした気持ちでいる。すれ違った見知らぬ人やテレビの向こうのお天気キャスターさえこんな気持ちなんだろうか、なんて、少し浮かれすぎだけど。誰かの気持ちが伝染して、そんな自分の気持ちがもしかしてまた別の誰かに伝染して広がっていく、こんな感覚は子供の頃に置いてきてしまったと思っていた。
「ねえねえ、今日はバレンタインデーだねー」
大根をよそう日夏の手元を覗き込んでいたエディが、ぱっと顔を上げる。
「崇さんは、やっぱりキャラ宛てにチョコ来たりするの?」
勢いよく見やった先、崇は熱燗を最後の一滴まで注ぎきると、ことりと徳利を置き無感動なトーンで答えた。
「……まあ、ゼロではないけど、そもそも女性読者少ないし」
「じゃあ崇さん本人には?」
「そもそも女性読者が少ないって言ってるよね」
「ないの?」
「毎年、空コズのイラストレーターから義理チョコと言うか遅い年賀をもらうのが、冬の風物詩」
「いいなー羨ましいなー」
「……聞いてた?」
「聞いてた。いいなー」
「エディのほうがよっぽどもらうでしょ、どう考えても」
瞬きするだけでキラキラ効果音がしそうな金髪碧眼の王子様は、やおら屈み込むと、足元からガサガサと量販店の小さな袋を取り出す。
「数はね。数は多いよ。ただ、なんていうか――賽銭箱じゃないんだからそんなにチロルチョコばっかり投げ込まれてもご利益ないよ、としか言えない状況だよね」
ほら、と大きく口を開けた袋の中には、個包装の小さなチョコレート菓子がたくさん入っている。投げ込まれるという表現が確かにぴったりの、いかにも無造作な様子だ。
「嬉しいよ?好きだよ?チロルチョコもカントリーマアムも。でもバレンタインってさ、もっとこう、好きな人に気持ちを込めてチョコを贈るイベントだって聞いたことあるよ?」
「だから余計お前に贈る理由がないってことだろ」
黙ってお湯割りを作っていた店主が、にこりともせず言ったのはその時だった。流れるような口上を遮られ、エディが一瞬黙り込む。
「……泣くよ?」
「バレンタインで一喜一憂できるお前がすごい」
「なにその勝者の余裕」
「なんだ、勝者って」
「どうせもらったんでしょー」
「もらうかよ」
「そうやってすぐモテないおじさんみたいなこと言うけどさあ。確かに丈さんは、作る料理は茶色いしお湯割りの濃さは適当だけど」
「ついでにこき下ろすな」
遠慮のない言い合いもこの店の名物のようなものだ。自分はいつも、それを聞きながら笑いを堪えるのに苦労して、結局、苦労の甲斐なく丈に頭を小突かれる。軽い感触の去った後ろ頭を撫で、なんとなくそのまま手を退けられないでいると、ガラリと戸が開いて明るい女性の声が店内に響いた。
「こんばんはー」
ヒールの快活な音、颯爽と揺れるスカートの裾、いつもなら残業帰りに立ち寄ることの多い雪絵が、今日はいくぶん早い来店だ。
「いらっしゃい」
雪絵はまっすぐカウンターへ進むと、肩にかけたバッグを下ろして姿勢を正した。
「先日はご迷惑をおかけしました」
「心当たりがないけどな」
「もう」
「とりあえず座ってくれ。何にする?」
「その前に」
手にした紙袋の中からきれいに包装された箱を取り出た彼女が、それを日夏へ差し出す。
「はい、日夏くん。ほんのお礼」
既に聞かされていたとはいえ、改めて受け取るのは少し気恥ずかしい。自分にとっては、彼女の力になれたことが何より誇らしかったのだから。
「あ――ありがとうございます」
「ありがとうって言うのはこっちよ」
「でも、嬉しいです」
「もー、かわいいんだから」
雪絵はすっかりいつもの調子であははと笑い、次に、もう一つ取り出した箱を丈に渡す。
「丈さんも、いつもありがとうございます」
「こちらこそ、いつもご贔屓にどうも。俺にまで気を遣わなくていいのに。そこで腐ってるやつにでもやってくれれば」
人の悪い言い方で茶化されたエディは、まだお湯割りを一口含んだだけだというのに、やけに据わった目で雪絵を見るのだった。
「雪絵ちゃんも俺のチョコ見る?」
「見なくても知ってます。エディにも用意したのよ。あ、もちろん崇さんにも」
ぱっとエディの顔が輝く。包装紙にリボンのかかった箱を両手に取って無邪気に喜ぶ様子は、気後れするほど麗しい外見とあまりにギャップがあると思う。
「わーい、箱に入ってるやつ!ありがとう雪絵ちゃん」
「ん、ありがと」
「えへへ、日頃の感謝の気持ちですぅ」
「あ、そこは誤解なきようにと」
「当たり前でしょ。朝倉さんの分も用意したんだけど、今日は来る?」
「どうかなー。聞いてみるよ」
満悦そうに携帯電話を触り始めたエディの隣に、ようやく雪絵が腰を落ち着ける。彼女へ熱いおしぼりを渡しながら、日夏は少し声を潜めて訊ねた。
「浩輔さんとは会えましたか?」
「うん」
「どんな顔してました?」
「すごく驚いてた。あと、喜んでくれた」
「よかったですね」
「……うん」
頬をチークより赤らめて、目元を細めて雪絵が笑う。ずっと、こういう、幸せそうな誰かの笑顔を恨めしい気持ちで見ていた。自分のことを幸せだと無理やり思い込もうとしていたけど、そうじゃないってことを嫌でも気づかされて辛かった。でも今は違う。
よかった、と、もう一度胸の中で呟く。
ふわっと頭を撫でられる。
「よかったな」
自分に向けられた言葉なのか、雪絵へ向けたものなのかは、丈を見上げることができなかったからわからない。なんだかまた急に胸がいっぱいになってしまって、上手くごまかせそうになかったのだ。
ややあって朝倉が召喚され(本人談)、常連客のほとんどが揃う夜になった。
冷凍だが大粒の帆立が手に入ったので、今夜のホイル焼きの主役に選んだ。きのこと一緒にバターをのせて包んで、食べる前に好みで醤油を垂らしてもらうことにする。雪絵のリクエストの白菜のクリーム煮は、鶏肉がなかったのでベーコンで作った。居酒屋の厨房で働いているのに、全く酒が呑めないし酒に合う料理なんてピンとこないのが少し後ろめたいのだが、お湯割り、熱燗、ビール、さらにラム酒と自由に呑む彼らはそんなこと気にも留めない。大らかな店主そのもののようなこの店の空気が好きだなと、毎日のように感じているのにまだ飽きない。
やがて崇が店を辞し、しばらくして雪絵を送り出す。それからほろ酔いというには深酒をしたように見えるエディを、ほろ酔いの朝倉が支えて席を立つ。ちなみに、朝倉も本人談によると職場の義理チョコを数個持っていたが、どれもきちんと包装されたパッケージだったのが、彼の親友とは対照的で少しおかしかった。
「あの、これ、今日のお客さんへ配ってるんですけど」
さんざんぼやいていたエディを見たあとでは気が引けたのだが、会計を終えた二人へ大袋入りのチョコレート菓子の個包装を一つずつ差し出す。
「おお」
「エディは見飽きたんじゃない?俺がもらっとこうか?」
「なに言ってんの、渡さないよ」
「ですよね――ありがとうひなっちゃん、大事にするよ」
「や、食べてください」
「はは、ひなっちゃんにつっこまれた」
上機嫌に笑った朝倉が、ダッフルコートのポケットへチョコレート菓子を捻じ込んで言った。
「なんだかいい日になったよ」
「俺もです」
二人を表まで見送り、戻りながら暖簾を下ろす。
一年で一番寒いのは二月だというのが本当かどうかは知らないけど、信じたくなるくらいにはここ数日また冷え込んでいる。はあ、と吐いた白い息が頭上へ大きく広がって、星空を霞ませる。
よく晴れた、いい夜だった。
しんと冷たく停止していた家が、主人の通った傍から静かに動き出す。台所、居間、と電気を点け、エアコンのスイッチを入れ、洗面台の明かりも点けて、蛇口を捻る。丈の次に手を洗い、うがいをして、居間には入らず台所でやかんを火にかける。
テレビをつけたみたいだ。ボリュームを抑えた音が漏れ聞こえてくる。
マグカップを探す手が彷徨って、思わず引っ込め、きゅっと握る。
まだ全然見慣れなくて、でも、見れば嬉しくなる。
見つけたのは買い出し帰り、駅前の商店街だった。あることさえ知らなかった瀬戸物屋の店先に、たくさんの食器と一緒に並んでいたそれは、手書きのポップに「特価」の文字とその下に小さく美濃焼と添えられていた。色違いで買った飾り気のないマグカップは、一つがデニムのような浅い紺色で、もう一つは朝靄のように曇った白だ。色も形も大きさも、一目で気に入ってしまった。ねだるのは安物ばかりだと、丈には揶揄われたけれど。
二つのマグカップにコーヒーを淹れて、居間へ運ぶ。
「悪いな」
翻訳の依頼だろうか、パソコンのキーボードを叩いていた丈が顔を上げ、口の端でちらりと笑う。
「お前も休め」
「うん。あと、あの……」
「なんだ?」
日夏は台所へ引き返して、皿を手に取る。
シンク下の棚に隠しておいた、渡しそびれたままのマフィン。バレンタインに本命なんて渡したことがなかったから、いざとなったら勇気が出せなかった。自分だけで食べてしまおうとも思ったのだが、恥ずかしいとか怖いとか理由をつけても、こうやって残しておいたのがやっぱり自分の本心だと思うから。
「あの、これ」
「うん?」
「土曜日に、雪絵さんと作ったやつなんですけど……」
「へえ、そういうやつなのか」
「うん。一緒に食べようと思って。あの、バレンタインの……日付変わっちゃったけど。でも甘いし、俺お菓子得意じゃないし、好きじゃなかったら全然、食べなくても」
あとから口をつく言い訳を、丈の失笑が遮る。
「日夏」
「……はい」
「一緒に食おう」
「……うん」
「嬉しいよ」
「…………うん」
新しく揃えたマグカップで飲むコーヒーは、なんだかくすぐったかった。初めて作ったマフィンは、レモンの風味はほとんどしなかったけど、バターとバニラエッセンスが効いていて悪くなかったのじゃないかな。
「うまいよ」
浅い紺色のマグカップを口に運んで、丈が言う。たぶん無理をしているんだと思う。それでも残さず全部食べてくれる彼を見ているだけで、味なんてほとんどわからなかった。
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