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呑み処東雲2 第13話

 もうさっきからずっと、小説の文字は視界を滑るただの形でしかなく、ボリュームを抑えた外国語のニュースを遠くにぼうっと聞いている。カチっとライターが鳴り、ジ……とかすかに燻ると、真新しいマルボロのにおいがコーヒーの残り香を覆って広がる。炬燵の中、身じろぐと膝が触れる距離に丈がいて、そっと薄目を開けると硬く彫刻じみた顔がある。カーテン越しにわかるくらい外はまだ暗く、しんと寒くて、しかし部屋は暖かくて心地いいから、まだ寝てしまうのは惜しい。この空気をいつまでも感じていたくてぐずぐずしているのも、それに気づいている丈がいつか見かねて自分を叱るのも、毎日のように繰り返している明け方のできごとだった。 「いい加減、布団行け」  大きな手のひらに頭を小突かれ、もごもごと口の中で曖昧に返事をする。 「湯冷めするぞ」 「うん」 「日夏」 「……うん」 「ったく、なにが「うん」なんだよ。そんなに一緒に寝たいのか?」  丈はふーっと明後日へ煙草の煙を吐いてから、いつもの意地悪を耳に吹き込むけど。 「…………うん」 「ん?」  日夏はもぞもぞと丈へ擦り寄って、体重の半分と、躊躇っていたせりふを預ける。 「……一緒に寝たい、です」  くくく、喉の奥の愉快そうな忍び笑いが、彼の答えだった。  元々は家主が寝室として使っていた部屋を、彼の親切で間借りしていただけのことだ。今も戸を隔てて寝ているほうが他人行儀だなんて、まるで他人じゃないみたいな言い方は恥ずかしいし、さんざん逃げておいて勝手だと自分でも思う。二組の布団を一度は少し離して並べたものの、結局はぴったりとくっつけて、片方へ潜り込む。冷たい布団の中でじっと風呂場の水音を聞いていたが、温まってくるにつれてまたうとうととし始め、次にふっと目が覚めたのは隣に丈の気配を感じた時だった。いつの間にか天井の電気も常夜灯に変わっていて、寝返りを打つと、布団に入ろうとする丈がこちらを見る。 「起こしちまったか」 「ううん……あの、丈さん」 「なんだ」 「そっち行ってもいい?」 「――ああ、いいよ」  ふっと苦笑しつつも、布団をめくり上げて招いてくれる。  そのスペースへ収まり逞しい腕に頭を乗せると、力強く引き寄せてくれるから、彼の胸にしがみつく。頬に当たる寝巻の生地の感触とか硬い胸板の心強さとか、嗅ぎ慣れたボディーソープのにおいとか湯上りの少しむっとした温かさとか、全部に安堵して、日夏はうっとりと目を瞑った。 「……丈さん」 「なんだ」 「俺、ここにいてもいい?」  日夏の肩を抱く腕に力がこもる。 「ああ、いろ」 「……俺、もっと知りたいです、丈さんのこと」  本当は、知りたいことばかりじゃない。以前、彼が悠生に向けた言葉をおぼえている。生涯ただ一人と思える相手は、何人も候補がいたって。あの時は悠生との関係にがんじがらめになっていた自分を救う言葉だったけど、今は少し意味が違って思える。芹菜のことだけでなく、それ以外にもたくさんあるだろう彼の人生について、自分はまだ知らないことばかりだから。 「俺も、もっと話すから」  本当は、話したいことなんてほとんどない。それでも、彼の傍にいるためなら、彼を知るためなら、話さなきゃいけないと思う。かくんと頭が傾いて、額が触れるほど近くから丈が覗き込んでくる。 「なんて顔してんだよ」  どこか怒ったように寄せられた眉に、きっとまた情けない顔をしてしまっているのだと悟らされ、鼻の奥がつうんと痛んだ。丈の寝巻に顔を押しつけて、呟く。 「ごめんなさい」 「聞きたいことだけ聞けばいいし、話したいことだけ話せばいい」 「けど」 「楽しいもんばっかじゃないからな、お前の話も」 「……ごめんなさい」 「いや、俺の心が狭いだけだ」 「そんなの」 「自分でも驚いてるよ」  丈はなんでもないふうに笑うけど。マグカップの時もそうだった、彼が何気なく口にする冗談とも本気ともわからない嫉妬が、日夏をこんなに幸福にする。 「俺もお前もここにいるし、時間はいくらでもある」 「……うん」 「俺はここで、もっとお前を抱くぞ」 「…………うん」  そうして、こんなに飾り気のない言葉が、たまらなく甘く響く。 「ただ。今は隣が空室だからいいけどな、このアパートは壁が薄いんだ」  暗に揶揄われていることの意味がわからないほど純情じゃないし、その自覚もある。あんまり我慢できないから、もしかして呆れられているかもしれない。 「…………気をつけ、ます」 「いいよ、そのままで」  くくく、愉快そうに胸板を震わせ、丈は日夏の頭をくしゃくしゃに撫でた。 「そのままでいいし、時間はいくらでもあるが……今日はもう寝るぞ」 「……うん」  丈の欠伸につられて、小さな欠伸が出る。 「あの、丈さん」 「……なんだよ、寝ろ」 「うん……あの、今度の休みに、行きたいとこ、てか、欲しい物があって」 「なんだ、それが狙いか?」 「……狙い?」 「冗談だ。欲しい物って?あんまり高いもんは買ってやれねーぞ」 「ううん、自分で買う。あの、許してもらえるかなって、思って」 「なんだよ」 「携帯……持ってもいい?」 「なんで俺に聞くんだ」 「丈さん持ってないから……嫌いなのかなって」 「ああ……俺はただの無精だ。好きにしろ」 「……よかった」 「不便だったろ。悪かったな」 「そんなの……俺が自分で捨てたんだもん」  パソコンは使いこなすのに携帯電話を持たないところが、奇妙に彼らしくて似合っていた。逃亡生活が落ち着き始めた今、自分にとっては取り返したいものの一つだから、彼のように潔くは生きられないのだと思う。ネットもメールもゲームも、誰かと繋がっている感覚も、自分で捨てたくせに、やっぱり未練があるのだ。きっと上手くごまかしてあるのだろうが、母親が心配しているというのも気になっていた。大して仲の良い親子ではないが、それでも、祖母が亡くなってからはたった一人の肉親だった。 「一応、親とは連絡つくようにしたいし……俺、全然、良い息子じゃないけど」 「そんなもん、俺に比べりゃましだ」 「そうかな」 「そうだよ。長いこと、生きてるのか死んでるのかもわからなかったような息子だぜ」 「……ましかも」 「だろ。ほら、もう寝るぞ」 「うん」 「おやすみ」 「……おやすみなさい」  当たり前に交わした挨拶の余韻を、口に含んで味わう。  しかしそれもすぐに、ふわ、と、欠伸になって抜けてしまった。    携帯電話は、以前に使っていた二世代前の機種から、最新の機種に変わった。  アパートと店の電話番号、そして実家の電話番号を登録し、ずいぶん久しぶりにSNSにログインした。電話の向こうの母親の口調も、画面の向こうの知り合いの生活も、何が変わっているわけでもなく彼らには彼らの日常が続いていて、それだけのことがしかし、置いてきぼりを食らっていたような気持ちをずいぶん慰めてくれた。  東雲の常連客――自分にとってそれだけでない彼らとも、一人ずつアドレスを交換した。  崇は現実より文字のほうが口数が多く、結構冗談も飛ばす。エディと朝倉の掛け合いのスピードに追いつけないのはどこでも同じで、トークルームは色とりどりのスタンプで埋め尽くされている。空コズの公式スタンプなんてものもあって、もちろん日夏も購入済みだ。雪絵にはつい昨日、手料理の相談をされた。彼女が酔って送ってくるメッセージは、いつもとイメージが違って可愛らしい。浩輔とはアドレスを知らせた時の一度きりしかやり取りはないが、彼らしいと勝手に思っている。  癖なのだろう、いつものように大根おでんを箸で細かく割りながら、その夜エディが言い出したのは突拍子もないことだった。 「ねえ丈さん、たこ焼き器いらない?」 「お前はなんで、わかりきったことを聞くんだ」  店主の反応は冷静というより冷徹で、日夏は横目で二人の様子を窺いつつ、てんぷら鍋の磯部揚げからも目を離せないでいる。 「実は手に入れまして」 「いらねーぞ」 「忘年会でカタログギフトが当たってさ。昨日うちに届いたんだよね、たこ焼き器」 「なんでよりによって、そんなもん選んだんだよ。他にいくらでも、いいもんあったろ」 「だってたこ焼き食べたくない?みんなで食べたくない?」 「知らん」 「ねーねー、ひなっちゃんは?食べたくない?」 「えっと」 「日夏、業務外だ。断れ」  極上の笑顔と不機嫌な渋面を向けられ、曖昧に笑い返した時には、もう計画は進み始めていたらしい。勝手口に吊るした上着の中には、エディがまだ店にいる時間に既に招待が届いていた。  グループ名「タコパの会」  日夏に課せられたミッションは、会場所有者の説得、ただ一つだった。

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