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第1話

 近年、「異常気象」と聞かない年はない。  季節外れの雪がちらついた春、毎日のように最高気温をたたき出しては記録を塗り替えていた夏。いつまで続くのだろうと辟易しているうちに、秋はいつ終わったのかそれとも来なかったのかだろうか、気がつけばあの猛暑は幻だったとでも言うように、深夜の冷え込み方はずいぶん冬らしくなっている。  十二月に入った途端に冷え込むのだから、四季もまた、人間と同じくカレンダーに追い立てられているのかもしれない。  もっとも、四季などという繊細な気候は必ずしもこの身体に馴染んだものではなく、異常と言われる程度に極端なくらいが肌に合うというのが本当のところだった。    午前三時を回り、店を出る。 客の入りや、いわゆる店主の気分というやつで多少早くも遅くもなるが、店を後にするのは大抵これくらいの時間になる。  鍵一本を差し込んで回すだけの、前時代的な、いや、古き良き勝手口。暗証番号が必要なわけでもなく、力任せに扱えばあっさりと外れること請け合いのドアノブだが、それでも一応は施錠後に手ごたえを確認してしまう。ただし、軽い鋼板でできたドアそのものを蹴破れば施錠の意味もなく、防犯性などゼロかそれ以下のこの勝手口がいわゆる泥棒の目に留まらないのは、どう見ても軒を連ねる店の中でこの「呑み処 東雲」が繁盛している様子ではないからという以外に理由はない。  ところどころに灯ったネオンサインが浮き上がる路地裏、ここはまさにネオン街の一角だ。  通りは居酒屋かスナックがほとんどで、空き店舗もいくつかある。場所柄こんな時間でも人影が絶えることがなく、あれはどこかの店のホステスのようだ、毛皮のコートをひっかけた女がヒールを鳴らしながら上機嫌に歩いている。  聞こえてくる鼻歌、このメロディーには聞き覚えがある。  一昔前の異国の流行歌に耳を傾けつつ、ライターのボタンを押すと、炎が風に煽られて揺らめく。  少し風が強い。  身体を丸めて風を避け、改めて煙草に火を付ける。冷たい空気と共にタールを吸い込み、吐き出すと、一日の中でもやはり仕事終わりの一本は格別なのだと小さな感動を味わうことができる。境遇はあの頃とずいぶん変わったが、この感覚は変わらないような気がする。感傷と呼ぶほど美しくはなく、アーカイブ化された記憶の一端と切り捨てられるほど無機質なものでもない、あの頃。  酔っ払ったフィリピーナの調子外れな鼻歌が、いつもより鮮明に昔を思い起こさせるのだ。  目も眩むような土煙、喉に絡みつく砂埃、火薬のにおい。時に雑音よりも耳障りで時に子守唄より心地よい、飛び交う様々な国の言語。それらをかき消す爆撃の音、常につきまとう死の恐怖と戦闘への高揚感。  どれも自分にとっての日常だった。  今はそうでないということが、いまだに不思議に思えることもある。  いくつの国の土を踏んだろう。国という枠組みを失った土も含めれば、きりがない。母国に身を落ち着けて以降も、ここが安住の地であるという事実が分不相応に感じるのはしかし、気の迷いか気のせいか、いずれにせよまやかしの類であるはずだ。  四十にして惑わず――先人の言葉がふと浮かぶ。いつの間にか、不惑の歳までもう二年しかない。世の中には未熟な大人もいるものだった。  とりとめのない思考を、かすかな物音が遮る。  店から出て最初の十字路の、進行方向右手側奥。ちょうどゴミ袋一つ分程度の影が、がさりと動いたらしい。そこはまさしく指定ゴミ捨て場であったが、ゴミ出し日は確か今日ではないし、何より可燃ゴミに人間は含まれないだろう。  打ち捨てられたような様子でそこにいるのは、人間だ。  人間がゴミ捨て場の片隅に座り込んでいる光景自体は、別段珍しくはない。泥酔してそのまま倒れこんだとか、せいぜいそんなところか。 「――ったく。寝るならもうちょっとマシな場所で寝ろよ」  毒づきながらも無視できなかったのは、それが恰好からして若い男もしくはまだ少年かもしれないからで、即座に駆け寄る理由にはならなかったのもまた、「彼」がおそらくはうら若い女などではないだろうからだ。 「おい、大丈夫か?」  小奇麗な身なりの、やはり、ごく若い男だ。この季節この時間にしてはやや薄着だったが、凍死したくてもできるような気温ではなく、このままでも風邪を引くか財布を掏られる程度――既に掏られているかもしれないが、よほど不運でない限りは生きて朝を迎えられるだろう。 「兄ちゃん、寝るなら場所変えな」  男の前にしゃがみ込み、肩を揺らす。今時の体格と言うべきか、骨っぽく、ずいぶんと痩せた男だったが、この距離でも酒の臭いがせず、酩酊状態の人間特有の呼吸でもない。酔っ払いでないとすれば――咥えたままの煙草が風に吹かれ、盛大に灰が舞う。 「おい」  もう一度、耳元で声をかける。 「……誰?」  ぼんやりした返事とともに上げたられた顔は、予想通り、血みどろだった。暗がりのせいだけでなく、人相が判別できない程度には強かに殴られている。 「おい、聞こえてるな?」  ひどく緩慢ではあったが、小さく頷いたのがわかる。 「鼓膜は平気か。意識もあるな。ちょっと服の下触るぞ」  言いながら、Tシャツの裾をめくり、脇腹を確認する。右、左ともに異常はない。 「あばらはやってねーな」  命に係わる怪我ではなさそうだ。派手にやられているのは顔だけらしく、だとすれば見せしめ的な意味があるのかもしれないが、詮索しても仕方ない。 「立てるか?交番までなら連れてってやる」  そう、自分は警察などではないのだから。煙と一緒に吐き出したため息には、安堵より後悔の成分のほうが多かったかもしれない。警察沙汰に巻き込まれるのは、正直面倒だった。酔っ払いのほうが扱いやすかったなと思いつつ、見捨てるわけにもいかず、男の脇に腕を差し込む。少し力を入れれば、担ぎ上げることも可能だろう。 「こーばん……」  かすかに、血の臭いが鼻をつく。 「表にあんだろ、信号渡ったとこに、交番が」 「こーばんって、けーさつ……?」 「ああ、警察だ」 「……警察は、勘弁」  意見が合ってなにより、というわけにはいかない。 「こっちこそ勘弁してくれ。その面じゃタクシーにも乗れないし、病院行ったってどうせ通報されるぞ」  がくり、と、転がり落ちそうな勢いで首が折れ、慌てて支えなおす。 「おい、聞いてんのか」  返事はない。  今度のため息は、完全なる後悔のため息である。 「知らねーぞ。交番連れてくからな?」 「……ねがい」  絞り出したのだろう、擦れた声はしかし衣擦れの音よりひ弱だ。  それから、ダウンジャケットの背中を強く掴むのは、縋りつく手そのものだった。 「お願い……助けて……」    店からほど近い、アパートの一室を借りている。  築二十数年、建てられたのは昭和という物件だ。外装、内装ともに時代に合わせて何度も紆余曲折しているらしく、一見しただけではそう古い建物に見えない。自分が入居した時にはもう畳が取り払われフローリングになっていたが、取り残された鴨居や、砂壁を隠すような塗装は実にシュールだと思う。  一階の角部屋は長い間空室で、先月からは隣も空室であるが、どちらもいずれ新しい入居者があるだろう。先月まで隣に住んでいたタイ人のホステスとは、生活サイクルが似通っていたせいかよく顔を合わせていた。彼女にもし今の姿を見られたら、痛くもない腹を隅々まで探られた上、ひとしきりからかわれたに違いない。  行き倒れの若い男を自宅まで担いで帰ってきた、この姿を見られたら、だ。  それでなくとも、彼女からのあからさまなアプローチになびかなかったことで、いわれのない疑惑を受けていた身である。金持ちな男が好きなのだろうと皮肉ってやったら、ルックスだけの男よりはね、と言い返された。だから、気の強すぎる女が苦手なだけなのだ。  ドアを開け、靴を脱ぎ、暗い部屋を奥へ進む。  途中、落ちていたダイレクトメールか何かに足を滑らせ、ようやく、文字通り「肩の荷」を布団に下ろすことができる。 電気を点けた程度では覚醒しない、失神からそのまま深い眠りへ入ったのだろう。血で汚れ、腫れた顔は、わずかながら苦しそうだ。応急処置をしようにも救急箱などこの部屋になく、コンビニへ行く前に、血を拭いて炎症部分を冷やすことを優先する。その合間に身元のわかりそうな物を探したのだが、彼が持っていたのは小ぶりの財布だけだった。カード入れから免許証を抜き出す。 「おいおい、平成生まれかよ……」  生年月日の平成元年という文字に、思わず呆れてしまった。  華奢な身体は下手な女よりも軽く、未成熟な少年のようでもあるが、成人はしているようだ。免許証を見つけなければ、年齢を誤解したままだったかもしれない。とはいえ、若いことに変わりはない。平成生まれは既に成人しているのか……。  この状態では判然としないが、証明写真の彼は端正な顔をしており、今より髪の色が明るい。 「相沢……なつ……ひなつ、か?」  氏名の欄には、相沢日夏、と書かれている。  珍しい名前だ。  ただし、名前の珍妙さについて他人をとやかく言える立場ではない。  先ほど足を滑らせた元凶の、封書を拾い上げる。正体はクレジット会社からの決済通知で、昨日届いたまま開けていなかったものだ。  宛名には「東雲丈 様」と印刷されている。  東雲丈(しののめ・じょう)、これが自分の名前だ。  難読漢字として却って有名な部類の苗字ではある。一転してごく簡単な名前には、複数の音訓があり、結果的に正しくフルネームを読まれることは滅多にない。  夜明けの空、あけぼのを表す、東雲。  時刻は夜明けにはまだ早く、西向きのこの部屋に明るい朝日が差し込むことはないのだが。 「……さて」  早いところ、コンビニへ行っておこう。  消毒液と、絆創膏……では不十分か。あればガーゼ。ついでに煙草も買い足そう。先月税金が上がってから、減らそうとかやめようとか考えないこともなかったが、おそらく一生縁を切ることはできないと思う。  部屋の電気を消し、サンダルに片足を突っ込む。  出る前に、エアコンを入れておいてやったほうがいいだろうか。 「――ったく」  ピ。と小さな音を立てて、壁掛けのエアコンが静かに動き出す。  こんなに成り行き任せの性格だったろうか――残念ながら否定はできない。それにしても、厄介な拾い物をしたものだ。  今宵何度目かのため息を吐き、丈は再び深夜の路地を歩きだした。

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