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第2話
昼過ぎから夕方にかけて、部屋はゆっくりと明るく暖かくなる。エコロジストを気取るつもりも資格もないが、天然の暖房効果は決して心地の悪いものではなく、冬の初めは特に、午後のまどろみに適している。
今日も穏やかな午後だ。
正体不明の怪我人を拾い、寝かせてある、という状況を除いては。
食事や風呂、それからテレビの音にも反応せず眠り続けていた彼も、ようやく目が覚めたらしい。
うっすらと気配を感じながらも、手枕に頭を預けて寝たふりを決め込んでいる。
彼にとってもおそらくは、顔を合わせずに出ていくほうが気楽だろう。小さくうめきながら身体を起こし、まずは丈の存在に驚いたように息を呑み、しばらく室内を見回していたが、今はぴくりとも動かず固まっている。
「……あの」
沈黙を破るには及ばない、せいぜい押し開ける程度の恐々した声音だった。
「……すいません」
丈を無視して姿を消すという選択肢を、彼は取らなかった。ごく弱くはあったが肩を揺すられては、寝たふりにも限界がある。
目を開けると、丈にとっては既に見知らぬと言いきるには見慣れすぎた、傷だらけの顔があった。中でも左目の瞼を深く切っており、絆創膏のガーゼには血が染みている。
丈が身体を起こしたことで近づいた分だけ、彼が後ずさって離れる。今になって警戒されていることが少しおかしくもあるが、彼の表情は真剣だった。
「すいません、俺、昨日のこと憶えてなくて、その」
「そうか。気分はどうだ?」
「……じゃあやっぱり、手当とか」
「ただの応急処置だ。ちゃんと病院へ行くことをお勧めする」
混乱しているのだろう、口を開けたまま絶句するさまに、思わず苦笑してしまう。丈は口元を手で隠しつつ、立ち上がった。彼の思考がまとまるまで、なにも向かい合って付き合う必要はない。やかんに水を入れ、コンロにかけるついでに、煙草に火を付ける。
「コーヒー飲めるか?」
「……あ。は、い」
「飲めないならそう言え」
「や、砂糖があれば」
「砂糖くらいある。牛乳は?」
「できれば……」
「できるよ」
ずいぶんはっきりしない言い方をするものだと、やはり苦笑が浮かぶ。それだけ遠慮しているということなのか、性格的なものなのか、それとも世代的な特徴というやつなのか。何しろ、平成生まれと喋るのは人生初だと気付いたのだ。
「ああ、そうだ。お前さんの持ってた物、そこに置いてあるから確認してくれ――というか、財布しかなかったんだが」
「……あ、財布だけです」
「中も確認してくれ」
「……あ、はい」
「免許証だけ見させてもらった。他は何もしてねーぞ」
潔白は証明しておきたい、と振り返ると、彼と目が合う。笑った――のだろうか、力なく首をかしげて、すぐに顔をしかめる。傷が痛んだのだろう。
一分ほどして、水蒸気の漏れる音に続き、やかんの笛が鳴る。
もらい物というか、置き土産というか、自分ではまず買うことのない真っ赤なホーローのやかんである。二つのカップに目分量でインスタントコーヒーを入れ、熱湯を注ぐ。片方には、砂糖と牛乳をたっぷり入れて。
テーブルの上に置いたマグカップを見て、もう一度彼は笑ったかもしれない。
「俺の趣味じゃない」
「すいません……」
こちらも置き土産の、前面に熊の顔がプリントされたマグカップだ。握りしめていた財布を離し、いただきますと小声で囁いてから、彼はカップを手に取った。
息を吹きかけ、慎重に一口飲み、上目遣いに丈を見る。
「なんで……その、助けてくれたっていうか」
「助けてって言われたから、助けたんだが?それも憶えてないのか?」
「や、それは」
世知辛い世の中などというと急に冗談めいてしまうが、事実、できすぎた模範解答のような返答では訝しがられても仕方ない。丈はシンクに腰かけ、コーヒーを一口啜った。
「大した理由はない。あそこからここまで大した距離じゃないし、万一お前さんに襲いかかられたとしても、反撃する自信があっただけだ」
「そんな体力……最初からないけど」
「だろうな」
鍛えた様子のまったくない、華奢な体つきだ。比喩ではなく、片手一本で押さえつけることもできるだろう。自分が標準から外れていることを差し引いても、およそ「喧嘩」に強いタイプではなさそうだった。
「見たところ、一方的に殴られたって感じだな」
殴り返したのなら、多少でも拳に異常が出ていそうなものだが、彼の両手は実にきれいなままだ。などと、思いつくまま余計なことを口にしてしまったことにはすぐに気付く。
「――いや、悪い。詮索する気はない」
丈の謝罪をよそに、彼の反応は薄かった。
「見たままです。一方的に殴られただけ」
「……まあ、あれだ、俺も警察沙汰は面倒だったんでね」
半ばごまかすようにコーヒーを啜ると、彼もまた、つられたようにカップに口を付けた。そして、はっとしたようにそのカップを戻す。
「てか、ありがとうございました、ほんと」
頭を下げるのに従って、長い前髪がさらりと落ちる。一瞬、虚を突かれた思いがした。
「ああ……気にすんな」
恩を売る気など毛頭なかった。成り行きで拾った厄介そうな怪我人が、案外礼儀正しかったというだけで、じゅうぶん奇跡的ではないか。
「ひなつ、って読むのか?お前さんの下の名前」
「あ、うん、ひなつ……」
「洒落た名前だな、今の子は」
「……そうかな」
「俺なんか、丈だからな。頑丈の丈……ま、名は体を表すってことか」
日夏は今度こそ、丈につられてコーヒーを啜り始めた。
ベランダの向こうから、夕方の時報が聞こえてくる。
本来、子供の帰宅を促すものだが、すっかり出勤の合図変わりになっているメロディーだ。
「そろそろ出ないといけないんだが……」
飲みきれなかった分の冷めたコーヒーを捨て、日夏に問いかける。
「行くところはあるのか?」
「探します」
つまり、答えは「ない」ということだ。
「大した金持ってねーだろ」
見たのは免許証だけだと言ったが、それを探す時に現金も目にしている。取り出して数えてこそいないものの、数千円か、あるいは一万円程度、とにかく大した額でないことは明白だった。
「何日かはやり過ごせるし、なんとかします」
「なんとか、ね」
「いよいよヤバくなったら、内臓でも売るしかないけど。半分なくても、生きていけるって……」
自虐的な呟きに呆れ、身支度の手が止まる。
「昔、インドで腎臓を売って金に変えた男に会ったよ」
「え?」
「インドっつっても広いが、まあ、所変われば臓器売買なんて当たり前のように行われてる。臓器売買のマーケットは世界中に張り巡らされてるからな、一つのビッグ・ビジネスってやつだ。そいつは簡単な手術で腎臓を摘出したあと、結局は後遺症が残って、仕事ひとつできないでいた。一度はまとまった金を手に入れたが、その後の人生は保障されていなかったんだ。そいつが腎臓を売ったのは、もっと広い家に家族で住むためだった。さて、お前さんはどう感じる?」
話し終るより先に、着替えが終わる。飛び出したTシャツのタグを直しながら、丈は日夏を見やった。
「アフターケアに優れたブローカーもいるらしいぞ。取り持ってやろうか?」
傷口が邪魔をしなければ、両目を見開いていることろだったろう。
「……冗談、だったん、ですけど」
「俺もだ」
日夏は小さく息を吐き出し、吸った。
「つか、その、何者?」
「居酒屋のおっさんだ」
「……ほんとに?」
「本当に――つーわけで、おじさんはこれから仕事に行くわけだが」
ダウンを羽織り、煙草と財布をポケットに突っ込む。
「行くところがないなら、いても構わない」
スニーカーを履きながら、丈は日夏を振り返った。
「もちろん出て行っても構わない。鍵はここにあるから、出る時かけて、ポストに入れといてくれ」
靴箱の上のトレイに、小銭や使い捨てライターとごちゃ混ぜになって置いてある合鍵を、つまみ上げて振る。日夏はしばらくそれを凝視していたが、ややあって、気の抜けた声を上げた。
「こんな人もいるんだ……」
こんな人、とは、お人好しという意味だろう。今までいくつの国を訪れたかわからなくとも、おそらく、すべての言語でそう言われてきた。
「実は悪人かもしれないぞ?」
「だとしても、俺の運が悪いだけだよ……」
その考え方は、なかなかに丈の好みだ。日夏を見くびったことで災難が訪れたとしても、自分の運が悪かっただけ、と言い換えることもできる。
「部屋の物は好きに使っていい。そうだ、いるなら大根の皮でも剥いといてくれ」
「大根?」
「そこの新聞紙で包んであるやつな、二本ある。包丁くらい使えるだろ?」
「まあ……一応は」
握ったドアノブが冷たい。天気予報では、昨夜より冷え込みが増すらしい。
「そろそろ、おでんが売れる時期になるんでね」
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