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第6話

「いい場所ですね」  振り向いた日夏の言葉は、およそ理解し難いものだった。 「……そうか?」  飲み屋や風俗店が立ち並ぶというよりひしめき合っている、雑然とした碁盤目状の裏通りには、人の心を平穏にさせるような要素はない。訝しがる丈の顔色を読んだのだろう、日夏は小首を傾げて微笑した。 「あ、立地が」 「ああ、そういうことなら……確かに恵まれてるな」  駅の真裏に当たり、表通りにはオフィスが多く、さらには丈の住むアパートも含む住宅地にも近い。法律も厳しくなり、郊外の飲食店での酒の売れ行きは厳しいと聞く。酒が売れなければ商売にならない居酒屋にとって、ここは好条件の土地だった。 「あの、まだ新しいんですか?」  流し台の縁を撫でる手が、どこか慈しむように見えるのは、彼が本職の料理人だという先入観からだろうか。 「三年になるかな。居抜き物件なんだが、ずいぶん内装も新しくしてくれてね……俺はいいと言ったんだが」  開店の経緯を思い出すといつも、懐かしく、そして少し苦い気持ちになる。丈の苦笑する理由が日夏に伝わらないのは、当然だった。 「いや、なにも隠すことじゃないんだ。この店は、人からもらったもんでな」 「……もらった、って」 「そのままの意味だ。昔から世話になってる人がいてな……その人が、この店を土地ごと買ってくれて、ふらふらしてないで店でもやれって俺の尻ひっぱたいてくれたんだよ」 「……ほんとですか?」 「物好きな人もいるもんでね……そのあとすぐ、一回顔見せに来ただけで亡くなったよ。俺にしてみりゃ、身内でもないのに早めの遺産をもらっちまった気分だ」  最大にして最高のスポンサーは、かなりの老齢ではあったが、とにかく、かくしゃくとした人物だった。現役を退いてからの丈にもなお目をかけ続けた、度を越えて物好きな人物だ。  感傷的にはなりたくない。丈は肩をすくめ、神妙な顔の日夏に笑いかけた。 「開店資金を回収する必要がないぶん、なんつーかまあ、気楽な商売でね。どんぶり勘定でもなんとかなってる。お前さんにしてみりゃ、呆れることも多いだろうと思う」 「そんなことないですよ」 「だといいんだが。さて、準備するか」 「はい」  ガスの元栓を開け、鍋を火にかける。日夏の作った大根おでんを、アパートからここまで運び込んだのだ。その後スーパーに買い出しに行き、戻って来たところで、ようやく準備が始まる。 「シャッター開けてくるわ」 「あ、俺やります」 「じゃあ頼む」  鍵束を渡すと、日夏は駆け出すように勝手口から出て行った。  なんとなく想像はしていたが、彼はこの町の住人ではないようだ。駅前にファーストフード店とコーヒー店、それに書店があることは知っていたが、表通りにはない、いわゆる地域の商店などは知らないらしい。ではなぜ路地裏に行き倒れていたのか。それについては、丈がこの店や自分について追々話すつもりでいるのと同じく、そのうちに聞くこともあるだろう。 「……あの、丈さん」  そろりと開いた勝手口の隙間から、日夏の顔が見える。 「鍵、わからなかったか?」  渡した鍵束には、シャッターのほかにこの勝手口、入口、レジ、金庫と、全部の鍵が付いている。先に言ってやるべきだったろう、一つ一つ試すよりは聞いたほうが早い。 「や、あの」 「違うのか?」 「あの、お客さんが……」  おずおずと扉を開ける日夏の後ろに、無表情な男が立っていた。昨日と同じ、いつもの防水パーカーにジーンズ姿だ。 「これ」  片手に持った大きな紙袋を目の位置まで上げて、それだけ言う。 「ああ、助かる。日夏、シャッター開けてきてくれ。鍵わかるか?」 「あ、はい」  再び小走りに去る日夏を、崇が眠そうな目で見送った。 「あの子?」 「ああ。まあ、とりあえず座れ。呑んでくんだろ?」 「ん」  崇をカウンター側から席へ通し、その後に続いてカウンターから出る。入口の鍵を開けてしばらく待つとシャッターが開いたので、表から日夏を招き入れ、戸惑った顔の彼を崇のほうへ少し押した。 「日夏っていう。お日様の日に夏で、日夏――で、こいつは崇。山の下に宗の崇だ。しょっちゅう来るから、嫌でも覚えるぞ」 「どうも」 「あ、はじめまして、相沢日夏です」  ぺこりとお辞儀をする日夏に、崇は軽く手を上げて応える。丈はカウンターの上に置かれた紙袋を、日夏へ差し出した。 「これな、とりあえず着替えに使ってくれ」 「え、あの」 「崇の古着だ。ないよりはいいだろ」 「……あ、あの、ありがとうございます」 「ん」  見るからに恐縮しきった日夏が恐る恐るといった仕草で紙袋を覗き込み、それから、はっと顔を上げた。深刻な顔だ。 「でも、ほとんど新品……」  隣から覗き込むと、確かに、ビニール袋に入ったままの服や、タグの付いた服が見える。 「なんだ、わざわざ買ったのか?」 「いや、通販で失敗したやつとか、ライブTシャツとか、テンションに任せて買ってはみたけど着なかったやつとかが主。どうせ俺は着ない服だから、気にせず着るなり捨てるなりしてね」  腕を組みながら、崇がちらりと笑う。普段無表情なのはこの男が特別に気難しい性格だからではなく、単にぼんやりしているからで、時には笑うことがあるのもまた単なる偶然だ。ただし、貴重な表情ではあり、初対面でそれを目撃した日夏はなかなか運が良いかもしれない。 「だそうだ。着替えたらどうだ?上は女物だし、そういや下はゴミ捨て場に転がってた時のだろ」 「あ、すいません」 「ん?」 「店に……てかずっと、こんな汚いかっこで」 「それしかなかったんだから、しょうがねーな」 「あの、じゃあ、トイレ借りてもいいですか?」 「ああ」  紙袋を胸に抱き、日夏はトイレに消えた。  やはり眠そうな目でそれを追っていた崇が、ぽつりと呟く。 「女子のようだ……」 「俺とお前しかこの場にいねーのにな」 「まあ、俺と丈がいればじゅうぶん着替えづらいよ」 「そうか?」    黒地に蛍光の水色、黄色、ピンク、黄緑の大きなロゴがプリントされたTシャツと、股下のだぶついたベージュのズボン。確かに崇の普段の服装とは程遠い。 「若いやつは何でも似合うな……」  思わず胸中を口に出してしまう程度には、似合っている。百七十センチに届かない崇より背が低く、さらに痩せ型に分類される崇よりも華奢であるから、丈の服以上にサイズが合わないということはないだろうとは思っていたが。やたらにスタイルがいいのは、世代的な特徴というやつだろうか。  それでも前掛けを巻けば、丈よりよほど板に付いて見えるから不思議だ。 「あの、崇さん、ほんとにありがとうございます」 「いやいや」 「絆創膏、やっぱり貼っといたほうがよかったですかね」 「何がだ?」 「俺の顔……やっぱり変に目立つかなって」  腫れあがった上に青く変色した左目周辺は、おそらく一番に人目を引くだろう。しかしそこに絆創膏を貼ったところで、視覚的な変化は大してない。 「貼ってあったらあったで目立つだろ。箔がついていいんじゃねーか?」  それでも不安そうに、左にかかる前髪を撫で下ろしているのが可笑しかった。 「崇、何呑む?キリンは大瓶しかねーぞ」 「……それより、その鍋は?」 「大根おでん。日夏が煮たんだが、うまいぞ」 「じゃあ、とりあえずそれちょうだい」 「あ、あの、俺がやってもいいですか?」 「ああ」  慌てたようにカウンターをくぐった日夏が、コンロの火を強め、スーパーの袋を漁る。 「この布巾、使っても」 「まずかったら俺から言うから、好きに使ってくれ」 「あ、すいません」  水で洗い、固く絞った布巾を調理台に敷き、その上にすすいだまな板を置く。スーパーの袋から取り出したのは、ゆずだったらしい。いつの間にそんな物を入れていたのか。危なげない手つきで皮を剥き、千切りにするまで三十秒とかからなかったと思う。 「皿は、どれ使いますか?」 「いつもはそのへんの……ああ、それとか」 「わかりました」  お玉ですくった大根の上に、千切りのゆずをほんの少し添える。 「……その発想は、丈にはない」 「え?」 「うるせーな、日夏、気にするな」 「あ、はい、どうぞ、お待ち遠さまでした」    酒の種類や置き場所を教えたり、料理を仕込んだりしているうちに、開店時間が過ぎる。今夜は客の多い金曜だ。やって来る客にいちいち日夏の紹介をしているだけでも、どんどん時間が過ぎていく。  ひと波去ったあたりで、今夜もまた、騒々しい男がやって来た。 「うー、今日もさっぶい!」  昨日とは違う紺色のジャケットは、ドイツ海軍のアンティークだろう。毎回のことレプリカではなさそうだ。後ろ手にガラリと戸を閉めたエディは、丈を見ると――正確には丈の隣を見ると、素っ頓狂な声を上げた。 「うわー、丈さん、その子どこで拾ってきたの?」 「そこのゴミ捨て場」 「あはははは、マジで?」  明るく笑いながら、カウンターの定位置に腰かけ、頬杖をついて日夏を見上げる。 「はじめまして、福来エディです。エディって呼んでね。あ、俺こう見えても日本語が一番得意だから安心して。ちなみにスウェーデン人とのハーフね」 「スウェーデン語は喋れないけどな」 「人聞き悪いな。ちょっとは喋れるよ、ちょっとは」 「へえ」 「こんにちは、僕スウェーデン語は少ししかわかりません、できれば英語でお願いします――これでだいたい乗り越えられるよ?」 「万国共通語は英語ってな」 「いやー、実際、うちの両親お互いが留学先のアメリカで出会ってて、そこで結婚したからさ。コミュニケーション言語が英語なんだよね。母親はそれなりに日本語も使うんだけど、英語ほどは喋れないし、父親なんていまだにほとんどスウェーデン語わかんないんだわ。結果、家庭内でも英語と日本語がせいぜい半々でさ。俺が子供の頃はスウェーデン語を仕込んでたらしいんだけど、今となっては旅行者以下だね。完全にトライリンガルになり損ねたってかんじ。丈さんのほうが、よっぽどマルチリンガルじゃない?」 「それには程遠いな。知ってる単語並べるレベルだよ」 「でも英語とフラ語はペラペラなんでしょ?」 「……そうなんですか?」 「そうなんだよー、すごくない?」 「必要だったからな」 「ひゅー、かっこいー。で、そろそろ聞いていいかな?きみはなにくん?」  挨拶がわりに弾丸トークを浴びせ、にっこりと笑う。黙っていれば良い男なのだが、残念なことに彼にはそれがほぼ不可能なのだ。 「名乗ってやれ」 「……あ、日夏です」 「どういう字書くの?」 「日曜日の日に、夏で」 「うんうん、じゃあ、ひなっちゃんね。よろしくー」  日夏が助けを求めるように丈を見るのも、仕方ない。 「エディはこういうやつだから、気圧されるなよ。ほっときゃ喋ってるから大丈夫だ」 「ねー、ひなっちゃん、ひどくない?接客の態度じゃないよね」 「相方がいると、これの二倍うるせーぞ。それと、気付いてるとは思うが、あいつもほっときゃ黙ってるから大丈夫だ」  携帯端末から顔を上げずに、カウンターの端から崇が片手を上げて応えた。よほど気に入ったらしく、冷酒一本で大根ばかり食べている。 「で、何呑む?」 「熱燗」 「はいよ。日夏、なんか出してやってくれ」 「はい」  日夏は冷蔵庫から作り置きのサラダを出す。サラダ油と酢と塩と砂糖、それにゆずの絞り汁でドレッシングを手作りしたという一品だ。 「え……」  エディが目を見開いて、絶句する。次に何を言われるのかはわかっている。 「東雲に……茶色くない料理がある……」  レタス、キュウリ、トマト、の三種類を和えたものだったが、ついぞこの店では出したことのない料理なのは事実だ。 「お前の分だけ醤油で煮込むぞ」 「やだよやめてよ。わー、すごいね、ひなっちゃんが作ったんだよね?」 「や、あ、はい」 「いただいていい?」 「どうぞ」 「――おいしい。おいしいよ、丈さん」 「知ってるよ、俺も食ったよ」 「何が違うんだろうね」 「まったくだ。大根もあるぞ、日夏が作ったやつが」 「いただくいただく」   我慢の限界だったのだろう、鍋の蓋で顔を隠しながら、日夏が盛大に吹き出した。

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