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第9話
「わー、おいしそう」
一年を通して安価なイメージのあるきのこ類だが、今年は夏の猛暑を受けてかなりの豊作だというニュースを聞いた。しいたけ、しめじ、えのき、エリンギ、まいたけを、酒とほんの少しの塩で蒸し焼きにしたものを、日夏がきれいに盛り付けている。
「味付けはお好みを聞いて、って思ってたんですけど……」
「ひなっちゃん的には何がおすすめ?」
「さっぱり系ならポン酢、こってり系ならバター醤油とか」
「う、どっちも捨てがたいわ」
「雪絵ちゃん、わけっこしようよ」
「賛成。両方食べたいものね」
「――カレー粉もあるぞ」
相伴に与ったビールに口をつけながら、ふと思い出して提案する。他意はない、単に厨房にある調味料の一つを思い出しただけだというのに、見る間にエディが白けた表情になった。
「丈さんはー、だいたい醤油で、時々カレー味だよね」
「なんだよ、悪いか」
「カレー粉は悪くないけど」
「俺は悪いのか」
「あ、私はワイルドで好きですよ」
「雪絵ちゃんそれ、カレーじゃなくて丈さんが、でしょ?」
「いいじゃねーか、カレー粉。かければ大概のもんは食えるようになるぞ?」
確かに自分は、カレー粉の万能性を信用している。しかしそれは根拠のない信用ではなく、経験上のことである。どんなに悲惨な味の食材でも、カレー粉ならば打ち消すことが可能なのだ。
「すぐそれだよー」
「事実なもんはしょうがねーだろ」
「や、でも」
半ばお約束の掛け合いに、おずおずとではあったが、割り込む声が上がる。三人六対の視線を集めたことでたじろいだらしい、日夏は焦ったように、無意味なジェスチャーを始めた。
「あの、カレー粉もうまいと思いますよ」
「え?」
「カレー粉だけだとあっさりめなんで、マヨネーズも混ぜたりとか。冷やしてもうまそうですね」
エディと雪絵は数秒顔を見合わせ、それから、同時に日夏のほうを向いた。
「じゃ」
「カレーマヨも」
丈の顔を見ようとしなかった、といったほうがより正確だろうか。ちびちびとビールを減らしながら、二人の横顔を諦観の念を抱きつつ眺める。
盛り付けの基本は、大皿でも小鉢でも、高く盛ることだそうだ。しかし丈にはそれだけとは思えないほど、日夏が盛り付けると途端に見栄えが良くなる。
「大根おいしい、染みてる。日夏くんってお料理上手なのね」
「仕事なんで――あの、悪い意味じゃなくて」
口下手というのも少し違う気がする。わざわざ付け足さなければ、そんなふうに彼の言葉を捉える可能性にさえ気づかなかったろう。
「意外と職人肌なんだ。ところで丈さん、俺の大根、雪絵ちゃんのに比べて明らかに形が悪いんだけど」
「そっちは俺が剥いたからな」
「威張らないでくれる?」
「安心しろ、味付けは日夏だから」
「日夏くんは、出汁も本格的に取ったりしてるの?」
「昆布は使いましたけど、あとはだしの素です」
「そうなんだぁ」
頷いて、また一口、雪絵が大根を頬張る。
「丈さんが基本的に出汁とか凝らないから、材料がなかっただけじゃない?」
エディはといえば、箸で細かく大根を割るだけで、まだ食べようとしない。日夏は曖昧に小首を傾げ、小さく笑った。
「変に出汁取るより正しいですよ。うまいもまずいも、つきつめれば一つ一つ元素に還るわけだから」
「おー、なんかかっこいい」
「やだー、可愛い上にかっこいいなんて。ねえ、日夏くんは彼女いるの?年上はお好き?」
「……や、いないです、けど」
「いないけど、肉食女子はちょっと、って感じ?」
「誰が肉食よ」
「いや、そうゆうんじゃなくて」
「あら、じゃ、どういうの~?」
日夏にからかい甲斐を感じるのは、やはり自分だけではないようだ。外見からは想像しにくい純情さで、口説き文句のうちに入らないような言葉にも当惑している。丈は苦笑しながら、日夏の頭を小突いた。
「そういう時は、あなたのような人は俺にはもったいない、って言っときゃいいんだよ。雪絵ちゃん、グラス空いてるぞ」
「あ、ありがとうございますう」
空のグラスにビールを注ぐと、雪絵はそれをうまそうにあおった。
「こんばんは」
落ち着き払った低い声に、エディがくるりと入口を振り返る。
「あ、あっちゃん来た」
「呼ばれたからね?」
「朝倉さん、お久しぶりでーす」
「久しぶり。月末忙しかった?」
「死ぬほど忙しかったですよー」
「あっちゃん、座って座って。ほらほら、これがひなっちゃん」
「お。これが噂の、謎の居酒屋店主に拾われた謎の青年キャラか」
暗い色のコートを脱ぎながら、朝倉はエディの隣に腰かけ、柔らかく笑った。
「どうも、朝倉です。南ちゃんじゃないほうのあさくらです」
「え?」
「あっちゃん、通じてないよ、相手は平成生まれだよ」
「まじで?えーと、浅いほうじゃなくて、朝昼晩の朝の、朝倉です」
「あ、はい、日夏です」
「これが俺の相方です」
「です。丈さん、俺もビールお願いします」
「はいよ」
月曜から、ずいぶんと個性的な常連客が顔を揃えてしまったものだ。
「なんか、カレーのいいにおいがするんだけど」
「そう言うと思って残しといたよー。きのこのカレーマヨ味。と、ポン酢味と、バター醤油」
「ありがたいけど、皿を分けるか、せめてちょっとずつ離して残しといてほしかったな」
「大丈夫、つきつめれば元素に還るから」
「あー。それなんのアニメだっけ」
今の日夏の心境は、大体理解できる。この二人の会話には、口を出さないほうが賢明だ。口を出せない、に近いのだろうが、結果的に日夏の態度は賢明だった。
「はいよ、ビール」
「どうもです。あとホッケと……エディが大根に感動したそうですが」
「私も感動しました。おいしいですよ」
「大根お願いします」
「はいよ」
大根をよそう日夏の後ろをすり抜け、冷凍庫を開ける。ホッケのストックはまだじゅうぶんだ。
エディを挟んで座る雪絵と朝倉が、彼の後ろで乾杯している。
「お疲れさまでーす」
「お疲れさま」
「はー。素敵な男性と乾杯すると、疲労回復します」
「相変わらず、月末は地獄だったんだ」
「はい。月末が終わったと思ったら、年末……どっちみち十二月は破滅的に忙しいんですよねえ」
「年末乗り切ったら年度末だしね」
「……朝倉さん、それ言わないでくれます?」
「ていうか雪絵ちゃん、今日は特に俺の扱い酷くない?」
「おいしいポジションだエディ」
「それはそうだけど」
「それだけ、エディは気の置けない存在ってことよ」
「フランクさだけなら上級者クラスなのにねー、雪絵ちゃん」
「ごめんなさーい、万年初心者クラスで。丈さん、英語上達のコツってなんですか?」
「俺に聞かなくても、エディがよく知ってるだろ」
「何か新しい発見があるかもしれないじゃないですか」
「上達つってもなぁ……まあ、真剣なら真剣に、片手間なら片手間に勉強してれば、それに伴った成果が上がるんじゃないか?」
「あれ、丈さんなら、習うより慣れよだ!現地に身一つで飛び込んで来い!とか言うのかと思った」
「そりゃ理想だがな。とりあえずそのイメージ改めといてくれ」
目の端で、華奢な肩が震えている。
「日夏。笑うなら、わかるように笑え」
「……すいません」
いわゆる、ツボに入ったという状況だろう。日夏は浮かべた涙を、Tシャツの袖で必死に拭っている。
「やだー、可愛い」
「可愛いねー」
「そうだね」
「……すいません」
寄ってたかって泣かせているように見えなくもない。真相を知らなければ、おそらく、いや間違いなくそう見えるだろう。などと、内心にやつきながら思っている自分も共犯者ではある。
空になったグラスに少しの間目を落としていた雪絵が、顔を上げる。
「やっぱり物足りないな。もうちょっと強いの呑みたいかも」
彼女のピッチが速いのはいつものことで、その上非常に酒に強いのも、いつものことだ。
「何にする?」
「おすすめあります?」
「今日入ってきたラム酒があるぞ」
隅に積んだまま、まだ段ボールから出してもいない。一番上の段ボールを下ろし、二番目を開ける。クッション代わりに詰め込まれた新聞紙の間から、一本、瓶を取り出す。後ろから覗き込んでいた日夏が、丈の手にした瓶をしげしげと見つめて言った。
「どこの酒ですか?」
「こいつはコスタリカ産だな」
「コスタリカって……」
「ニカラグアとパナマの間つっても、わかんねーか」
反論がなかったことが、答えだろう。
カウンターから文字通り首を突っ込んでくるのはエディだ。
「そこ英語通じる?」
「スペイン語圏だ」
「じゃ、俺は無理かー」
「英語でお願いします、の言い方だけ覚えるんだな。雪絵ちゃん、ロックでいいか?」
「度数いくつです?」
「三十度ちょっとの軽いやつだ。コーラで割る呑み方が有名だが、ロックもいける」
「じゃ、ロックで」
コーラで割ると、キューバ・リバーという名前のカクテルになる。その名前に聞き覚えがある者も多いかもしれない。地理的に近いメキシコにはテキーラがあるが、テキーラよりずっと癖がなく、ラム酒ならばオンザロックで呑むのが自分は好きだ。
グラスに氷を入れ、ラム酒を注ぎ、レモンを絞る。それだけで完成だ。
「私、その、半分に切ったレモンにフォーク刺してぎゅっと絞る手つき大好き」
「そりゃどうも」
満面の笑顔で褒められても、それくらいしか返す言葉がない。雪絵はラム酒のロックを、ためらいなくぐびりと呑んだ。
「ん、おいしい」
じゅうぶん知っているものの、実に呑みっぷりの良い女だ。そんな彼女だから、この店に通ってくるのだろう。
「あの、雪絵さんって」
「わー、やだー、名前呼ばれちゃった」
「え、あ、すいません」
「いいのよ。なになに?」
「お仕事帰りに、英会話習ってるんですか?」
「そうよー、デキは悪いけど」
「そんな……なんか、すごいなって思って。仕事して、趣味も充実してるってゆうか」
「そこが問題なのよ。仕事が充実しすぎて地味に貯金が溜まって、使い道もないから習い事でもしようかなって英会話始めたら、そっちも充実し始めて」
「ひなっちゃん、雪絵ちゃんの愚痴スイッチ入れたね」
「え」
「もっぱら仕事と英会話の繰り返しで、出会いがないのー。そこに突如現れた可愛い男子が日夏くん!」
「や、その」
「なーんて。ま、着付けとかお花とか習わなかったのが、我ながら自分らしいと思ってるのよ。海外旅行とかでちょっと英語喋れたらいいじゃない。でも海外ドラマを吹き替えに頼らず見るのが、目下の目標かな」
ぐびり、と、またラム酒を一口。
「それ旅行よりよっぽどレベル高いから」
「そうなの?」
「そうだよー。俺だって、ドラマ見てて何言ってるかよくわかんない時あるもん」
「流行のスラングなんかは、そこで生活してないとわかんねーからな」
「へえ……」
異口同音に日夏と雪絵が頷く。
「丈」
それまで存在感を消していた崇が急に口を開き、日夏がびくりと身じろぐ。慣れないうちは、幽霊にでも会った気分になるだろう。
「帰る」
「おう、じゃあな」
「ん」
崇は一堂に軽く片手で挨拶し、ふらりと店を出て行った。
ラム酒のロックをもう一杯呑み干したところで、雪絵が席を立つ。くれぐれもタクシーを使うようにといつも言うのだが、上機嫌のまま歩いて帰ることもある彼女を、日夏に頼んで大通りでタクシーに押し込んでもらう。
それからもう一盛り上がり、という具合でエディと朝倉のオタク談義を聞かされ、うんざりしてきた頃に、彼らも帰り支度を始める。最後の客は入口まで見送り、ついでに暖簾を外すのが習慣になっている。
ごく普通のサラリーマン姿の朝倉と、ミリタリーのコスプレをした外国人のようなエディが連れ立つと、そのアンバランスさにあいまって、どちらも長身なだけに下手に目立つ。
「あ、ひなっちゃん、大根おいしかったよ」
寄りかかる相方を支えながら朝倉が笑うと、エディもへらりと笑った。
「きのこもねー」
「ありがとうございます」
こちらからは後姿しか見えないが、声と同じく嬉しそうな顔をしているのだろう。
「ほんじゃ、また来まーす」
「毎度あり。気をつけて帰れよ」
しばらく二人を見送っていた日夏が、こちらを振り向く。やはり少し、嬉しそうな顔をしていた。
「――しかし、寒ぃな」
「寒いですね」
「とっとと中入ろう」
「はい」
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