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第10話
勝手口の鍵を閉め、取っ手を捻って施錠の感触を確かめる。
振り返った先は、いつものように夜霧とも朝靄ともつかない白い影にかすみ、いつものようにまばらにネオンサインが灯っている。
そのいつもの風景の中、側溝の蓋の隙間から立ち上る湯気に紛れて、日夏が佇んでいる。ジャケットにすっぽりと包まれた後ろ姿は、ファー付きのこんもりしたフードがやけに重たそうで、どこか人形めいてファニーに見える。元々、崇が持て余していたジャケットだ、あつらえたように似合っていると到底言えないのは仕方ないが、これが丈のサイズなら不恰好というレベルでは済まなかったろう。
酔っ払いの集団が横切るのを眺めていたらしい、彼らの姿が路地の向こうへ消えるにつれて右から左へゆっくりと動いていた頭が、やがて止まる。
無人の横断歩道を見つめたまましばらく動かなかった日夏は、かといって放心していたわけではなかったようで、丈が声をかけるより先にこちらを振り向いた
手招きのために上げかけた右手を、ポケットに戻す。
小走りに近寄ってくる日夏を横目に、丈は煙草を咥えた。
火を付け、深く吸い込む。単なる中毒症状ではあるが、同時に、仕事終わりの儀式でもある。
吐き出した煙が広がり、漂う。
「煙いか?」
白く曇った視界の中で、日夏は小さく笑った。
「なんでそんなに聞くんですか?」
「ん?」
「前にも一度、聞かれましたよ」
「ああ……そうだったか」
笑われた理由がわかり、それに対して自嘲的な笑いが生まれる。歳のせいだろうか、だとしたら情けなくも抗い難いが、無意識に同じことを聞いていたらしい。
「で、お前さんはなんて答えたんだっけ?」
聞いたことはおろか、答えもろくにおぼえていない。こんなところばかり年齢相応に衰えなくてもいいというのに。
「平気、って」
「そうか」
おそらくどうせ、前回の自分も聞くだけ聞いて大して答えを気にもせず、こんなふうにまた煙を吐いたのだと思う。
「今度はちゃんと覚えとく」
「うん」
うわべだけの言葉は、短い相槌にあしらわれ、丈は今度こそはっきりと苦笑いを浮かべることになった。
見下ろした日夏の表情は、俯きがちで読み取れない。大きなフードが揺れるたび、その上に取って付けたように小さな頭がころりと落ちるのではないかと、やはり奇妙なスリルがある。
「そういえば」
「あ、はい」
ぱっと丈を振り仰いだ拍子に転がり落ちる、などということはもちろんなかった。
「ここいらの人間なのか?」
「え?」
「そこに転がってたろ」
頭のことではない。店から出て最初の十字路の、進行方向右手側奥。その指定ゴミ捨て場が、血まみれの彼が打ち捨てられるように倒れていた場所だと、通りがかるたび言及しようと思っていたのだ。今、偶然日夏の横顔の向こうに見えなければ、今回もまた忘れたままだったろう。
「……すごく遠くはないけど、地元ってほどじゃないです」
やや考え込むような間の後、日夏は曖昧な答えを寄越した。つまり、答えたくない、というのが答えだ。
「そういう丈さんはどうなんですか?地元?」
そう聞き返されて少し考え込まざるを得なかったのは、別段そこに秘密があるわけではなく、簡潔に伝えるのが難しいというだけのことだった。
「いや、生まれ育ったのは別の土地だ。実家はもうないがな。海外の仕事が長くてね……戻るにあたって、どうせなら崇のいる町にしよう思ったってのはあるな」
「崇さん?」
「ああ」
お互いもはや一人暮らしのほうが長く、いい歳でもある。一緒に住むなどとは考えなかったが、それでもなんとなくこの町に住むのが自然に思えたのだ。
「……崇さんって、不思議な人ですね」
あの男の人となりを表すには、その一言に尽きるだろう。
「苦手か?」
「や、そうゆうんじゃなくて……なんか、不思議としか」
「大して気難しいってわけでもないんだがな。何しろあの調子だから、付き合い難いのは確かだよ。人を選ぶのは仕方ねーな」
「仲良いんですね」
「まあ……そうだな」
「なんか、特別なんですね」
「まあ、なぁ……」
「いいな。そういう人がいて」
「お前さんにはいないのか?」
「い……ない、のかな」
日夏が嘆く必要はどこにもないだろう。望んで得られるものでもなく、大抵の場合は、望まなくして存在するものだ。
「一人っ子か」
「え?」
「まあ、兄弟ってのも悪くないぞ。そう良いもんでもないがな」
三十数年付き合って出た答えは、せいぜいその程度なのだから。
「兄弟?」
「ああ」
「誰の?」
「誰のって、お前の」
「じゃなくて。崇さんって、丈さんの」
「弟だが」
日夏は、目と口を開けたまま固まった。
「言ってなかったっけ?」
この事実を知った者は、大抵似たような反応をする――するというか、しなくなるというか。たっぷりと絶句したあと、思い出したように息を吸った彼は、ため息とともに呟いたのだった。
「――似てないですね」
「よく言われる」
丈もまた思い出し、煙を吸い込む。惰性で吸っている最中にふと意識するだけで、単純なことに同じ煙でもうまさが違って感じる。
「兄弟とか、どんな感じか想像できないです」
「日夏は一人っ子か」
「うん……丈さんみたいなお兄ちゃんだったら、ほしかったかも」
さて、冗談にしろ追従にしろ、あまり出来すぎたことは言うものではない。
「そりゃおすすめできねーわ」
思わず失笑し噴き出した煙が、曇天の夜空をさらにぼんやりと濁らせた。
早い段階で判明した事実として、日夏は紅茶党である。かくいう自分はコーヒー党、それもかなりの極信者だ。なにもその二派で世界が成り立っているわけではないが、冬の寒い夜に帰宅して一番に飲みたいと思わせるものを、個人に関与する要素として軽視するべきでもないだろう。もっとも、やかんで沸かした湯をインスタントコーヒーに注ぐだけのものだし、日夏の場合はそれがティーバッグに変わるだけだ。
今までならそうだった。
なぜか今、日夏は小鍋を火にかけている。隣で既に湯を沸かしているというのに、他に用意するものがあるらしい。
「何か作るのか?」
「ミルクティー、飲みたくなって」
「いつも飲んでるだろ」
「えと、そうなんだけど。ちゃんとしたやつを……」
ティーバッグに湯を注ぎ、砂糖と牛乳を足したものを、彼はいつも飲んでいる。インスタントコーヒーに湯を注げば即座に完成するブラックコーヒーに比べ、じゅうぶん手間がかかっていると思うのだが。鍋の中には白い液体が入っており、どうやら「ちゃんとした」ミルクティーを作るには必要な行程のようだ。
「牛乳あっためてんのか?」
「うん。水と牛乳を合わせたやつ」
「へえ」
「牛乳だけだとちょっと癖が強いから。水と半々くらいがおいしいと、俺は思います」
弱火にかけた鍋を、ゆっくりとスプーンでかき混ぜている。
「煮立ったらどうするんだ?」
「煮立てたら、牛乳が膜張っちゃうから。その手前でキープしながら、ティーバッグを入れてしばらく煮出すって感じで」
「……そりゃ大変だな」
「だから、ちゃんとしたやつ。リーフだったらもっといいんだけど」
「なるほど」
鍋をかき混ぜる手を止めず、日夏が顔を上げて微笑んだ。
「コーヒー淹れときますよ」
湯が沸くまでの手持無沙汰に話しかけているのだと、気付かれている。丈は寄りかかっていたシンクから離れ、居間に戻ることにした。
「……いや、コーヒーはいい」
「え?」
「俺にもミルクティー淹れてくれ」
腕を伸ばし、日夏の背中越しにコンロの火を止める。ややあって、やかんの音が静かに消えた。
まだテレビでは早朝のニュースも始まらない。パソコンを起動し、テレビより重宝しているニュースサイトにアクセスする。動画の読み込みを待ちつつメーラーを立ち上げると、いくつかの英字タイトルの中に珍しい単語を見つけた。旧知の男の名前だ。ざっと目を通すと、ソマリア北の都市から送信していること、そこから近々帰国する旨が書かれている。トラブルさえなければ、今年のうちに帰国できるだろう。
「丈さん」
「うん?」
「ミルクティーなんだけど」
「ああ、ありがとう」
言いながら日夏を見上げたものの、彼の手にはカップがない。
「あの、砂糖、何杯入れますか?」
何気なく聞いたのだろうとはわかる。ただ、一瞬、とんでもない難問を突き付けられたような気分になったのも事実だ。
「――最低一杯は入れるものなのか?」
お互いにしげしげと顔を見合わせていると、やがて、日夏が気恥ずかしそうに瞬いた。
「あ、すいません」
「いや」
忍び笑う丈に背を向け、台所に引っ込む。
「日夏」
無人の戸口に呼びかけると、足音が止む。
「やっぱり一杯入れてくれ。軽くでいい」
「はい」
とだけ言うために再び顔を出すのだから、律儀な性格だ。
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