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第11話

 スカーフの内側で息がこもる。やけに熱い。  むしり取るようにくつろげても、さわやかな風などなく、喉の渇きは癒されない。かすむ視界と思考を必死に制御しようとする丈の神経を、背後で流れるラジオ音声が逆撫でしてやまない。  うんざりする。  リバティとフリーダムを、短い演説の中で彼はいったい何度使ったろう。 「そういえば、日本人が誘拐されたらしいな」 「日本人以外も誘拐されてるだろ」 「冷たいな。同国人だろ?」  相手は苦笑したかもしれないし、眉をひそめたかもしれない。表情が見えないのはお互い様だ。  気になるとしたらむしろ、先日会ったフリーランスの記者二人組のことだった。目的地に到達する前に誘拐されたという噂を聞いてから、まる一日経っても何の要求声明も出ていない。単なる噂であったのなら、と、いくら彼らが助言を無視して付け届けを用意せず出発したのだとしても、願ってやらずにはいられない。金こそ持たなかったが、いや、持たないからこそ、強引で無茶な連中だった。金で買える命なら買うべきだと彼らが知るのが、彼らの人生が終わった後でなければいいと思う。オーストラリア人とフランス人の二人組だった。交わした杯の中身は安酒だったが、見ず知らずの同国人より彼らが気がかりなのは、やはり自分が冷たいからなのだろうか。  背中からまた、フリーダム、と聞こえる。  さて、誰の自由のために、誰かの自由のために、自分はここにいるのか。    はっと目を開ける。  古いブラウン管の中では、スーツを着た肌の黒い男がなお熱弁をふるっている。  そうだ、この訛りのない英語と、一文を短く区切る明快な話術は、ブッシュのものではない。南部訛りを揶揄された英語は、今はもう、少なくとも大統領演説として聞くことはないのだった。  画面の隅に、CNNの文字が浮かんでいる。  テレビをつけたまま、うたた寝をしていたらしい。それ自体は珍しいことではなかったが、夢見の悪さはこのよくできた演説に加えて、エアコンから噴き出る温風と、いつの間に被っていた布団が原因だろう。砂漠と錯覚するにはあまりに大げさだったにせよ、暑苦しいことに変わりはない。  それにしても、うたた寝に際して布団まで用意するような周到さが自分にあったろうか。  考えるまでもない。日夏は気が利く。 「よ……と」  無意識に、ちょっとした動作に伴って声が出るようになった。少なくとも自分の場合、年齢と明らかに比例している。  まずはエアコンを消し、テレビのチャンネルを適当に切り替えながら隣室を覗く。  安アパートなどどこも似たような構造だろうが、玄関を入るとすぐに台所があり、その正面に居間と、戸を隔てた隣に寝室がある。居間も寝室にも廊下に面した戸があるのだが、寝室の入口はほとんど使わずに閉めきりにしている。居間にいることが多く、玄関から台所、居間を通って奥の寝室へ行くルートを主な生活動線としている丈に遠慮してか、日夏はよく丈を回避し、直接廊下から寝室へ入っているらしい。  彼はよく、気付かぬうちに寝室にいるのだ。  それも、一番奥の角、つまり隅っこに丸まっている。  趣味なら止めないと揶揄ったこともあった。棲息という表現を使いたくなる、ここ数日ですっかり見慣れた感のある姿がしかし今はない。  もっとも特に用があったわけではないので、乾いた喉を潤すことを優先する。コップに注いだ水道水を飲み干していると、鉄骨を打つ固い音が下から響き始める。もしかしたら日夏かもしれない。ゆっくりと階段を上っていた靴音が途切れ、ややあって玄関が開いた。 「出かけてたのか」 「うん、コンビニ」  手にしたビニール袋を掲げて、日夏が小さく笑う。 「今日も晴れてますよ」 「そうか」  西向きの部屋には日差しこそ届かないが、ベランダの外は今朝も穏やかに晴れている。 「あ。煙草頼むんだったな」 「あ……勝手かと思ったけど」  ごそごそとビニール袋をあさった彼の手には、赤と白のパッケージがあった。 「お前さんはほんとに気が利くなぁ」 「いや、そんなこと……」  しみじみ称賛する丈に、日夏は当惑げに小首を傾げた。  ビニール袋の中からは他に、シュークリーム、プリン、チョコレートのかかった菓子パンなどが出てくる。 「朝ごはんにと思って。よかったら」 「ああ……」  こちらが当惑する番だった。朝食とシュークリームが脳内で結びつくまで、少しの時間を要する。 「そうだ、煙草。いくらだっけか……」 「や、いいです、そんなの」 「そんなのってことはないだろ、金もないくせに」 「それは……」 「あ、そうだそうだ、金といえば思い出した」 「はい?」 「給料。払おうと思ってたんだよ」  彼と雇用関係を結んで、今日で一週間になる。無一文ではないにせよ、大した現金を持ち合わせていなかった日夏だ。ひとまず一週間分の給料をまとめて支払うつもりだったのを、当日になってすっかり忘れていたのだ。決して故意ではない。 「……あ、ほんとに?」  またしても当惑げに返されて、今度は苦笑するしかなかった。  さて、思った以上に信用されていなかったのか、思った以上に彼が犠牲的な人間なのか。 「ただ働きさせてるとでも思ってたのか。契約書、ちゃんと読んだんだろうな」 「読みましたけど……その、ここに置いてもらってるし、そうゆうので相殺かなって」  どうにも後者のような気がしてならないのが、むしろ不安なくらいだ。 「おっさんの話し相手したり、気ぃ遣って煙草買いに行かされる分だけ、上乗せさせてもいいくらいじゃねーか」 「そんなこと」  慌てたように顔を上げた日夏だったが、幸い冗談が冗談として通じたらしく、遅れて口元をほころばせた。  丈にはコーヒー、日夏にはミルクティーを淹れて(もちろん日夏が)、甘味の朝食を摂ることにする。栄養学的にはむしろ合理的かもしれないが、自分ではまず朝食にプリンを選ばないだろう。最近、自ら進んでは食べないものをよく食べていると、スプーンを口に運びながらふと思う。主に、日夏が買ったり作ったりしたものだ。 「日夏は甘いもんが好きなのか?」 「あ、うん、好き」 「だよな」  うまそうにシュークリームを齧る彼を眺めつつ、甘ったるいカラメルをコーヒーで流し込む。 「あの、丈さんは、嫌いでしたか」 「普段はあんまり食わない」 「……すいません」 「嫌いとは言ってないだろ。食えないもんがないのが、俺の唯一の自慢でね」 「ないんですか?」 「ねーな。まあ、舌が馬鹿なだけだが。日夏はなんか嫌いなもんは?」 「……えっと。パクチーは嫌いです」 「パクチー?」 「うん。でも普段食べる料理に入ってることは、まずないから」 「タイ料理は食えねーな」 「うん、ベトナム料理もあんまり」  そう言ってまた、うまそうにシュークリームに齧りつく。丈のプリンは、既に空になっている。  もくもくと咀嚼して飲み込み、また齧りつき、もくもくと咀嚼する――食事の様子を観察されていることに、どうやらようやく気付いたらしい。日夏が恥ずかしそうにこちらを見返してくる。 「あの……」 「いや。不思議なもんだと思ってな」  夢と現実のどちらがより自分にとって非日常を感じる光景なのかと、ぼんやり考えていたのだ。丈は煙草のフィルムを剥き、真新しい一本を取り出した。 「どう生きたかではなくどう死ぬかで人間の価値が決まる、と言っていたやつがいた。その逆のことを言うやつもいたが、どっちの言い分も昔はなんとなくわかる気がしてたんだよ。それが今こうしてると、どっちにも大して共感できない、と思ってな」 「どうしたんですか、急に」  とりとめもなく馳せていた思いのほぼ中心にいるのは日夏だったが、同時に彼の反応は至極当然なものだった。 「悪い。さっき妙な夢を見たせいだ」 「怖い夢ですか?」 「……怖くはねーな。たぶん」  子供じみた表現に、思わず失笑させられる。  目の前で平成生まれの若者が、小動物じみた仕草で幸せそうにシュークリームを齧っているのが現実だ。かつて隣り合わせにあった死の恐怖など霞がかってどこまでも遠く、また生の特別な喜びも同じように遠い。過去を不必要に美化するつもりはない、ただ、本当に不思議なものだと思う。 「俺は」  日夏へ視線を戻すと、彼の手元のマグカップの熊と目が合った。いつでもきょろりと目を剥いて、おどけた表情の熊だ。 「怖い夢を見た日とか……嫌なことがあった時は、煮込むんです」 「何をだ?」 「肉でも野菜でも米でも。とにかくじっくり煮込んで、食べるんです。浄化できるような気がして」 「なるほど……料理人ならではかもな」  少し目を細めて笑う。熊ではなく、日夏が、だ。  丈は指の間で弄んでいた煙草に、ゆっくりと火を付けた。    大事に使うもよし、ぱっと使うもよし、と言って手渡した給料だったが。  日夏の使い道は、そのどちらにも当てはまらなかった。  その日「呑み処東雲」の厨房に、だし巻き卵用の長方形のフライパンと、胡椒を挽く道具――ミルというらしい――が新たに加わることになった。  駅ビルの中にある、生活雑貨を扱う店で買ったそうだ。いや、何も話だけ聞いたわけではなく、案内がてら丈も同行していた。ただ、洒落た雰囲気の漂う明るい店内を早々に引き上げ、コーヒーショップで時間を潰していたので、実際に買うところは見ていない。購入代を支払おうにも意固地に拒否されているので、何かしら別の方法で報酬を与えなければならなかった。  洗面所に数分こもっていた日夏が、静かに扉を開けて出てくる。 「やっぱ目立ちますよね……」 「いや。よく似合ってるぞ」  顔色を窺うようにこちらを見た彼だったが、丈の揶揄を受けて、さっと額を隠す。やや長すぎるきらいのある前髪を、本人も邪魔だと感じていたらしい。ヘアピンで留めたことで、額がすっきりと露わになっている。 「そういう髪型が可愛く見えるやつも、いるもんだな」  困惑する表情もはっきり見えるというものだ。 「違います、これだとやっぱ、痣が目立つなって」 「絆創膏で隠したって、同じくらい目立つって言ったろ。このまま色が引けばもう治るんだ、よかったじゃねーか」 「そうだけど……」  目の周りの痣は、いよいよ青黒く濃くなっている。丈の見立てでは、もう一週間あればきれいに消えるだろう。若いからこその回復力だ。日夏はなおも痣を気にしているようだったが、丈がそれ以上何も言わないでいると、諦めたのか冷蔵庫から食材を出し始めた。 「日夏、卵焼き作るんだろ?」 「うん。だし巻き。しょっぱいやつにしますね」

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