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第13話

 自他ともに認める程度には料理のレパートリーが少ないが、その少ないレパートリーの中には一つくらい珍しいものもある。  もちろん、あくまで自分のレパートリーを比較した場合である。  ほんの少し手を加えるだけで、大半は時間が調理してくれる料理だ。  まずは無糖ヨーグルトをざるにあけて、半日から一日放っておく。  その間、何もすることはない。  ざるにあけて長時間放置したヨーグルトは分離し、水分が落ちて固くなっている。水分といってもミネラルなど多様な栄養素を含んでおり、ホエーと呼ばれるそれは飲料としてじゅうぶん活用できる。日夏に飲ませてみたところ、騙された、といった顔で突き返されたが。やや酸味を感じるものの、特殊な味はなく、無味に近いと思う。日夏によれば、無味というのもまた「まずい」の要因に含まれるらしい。味覚の相違というやつだろう。  しっかりと水分を抜いたヨーグルトに、おろした生姜とにんにく、カレー粉を混ぜる。他にも醤油、ソースやケチャップなども目分量で入れる。最初に覚えたレシピは今もうあやふやで、人づてやネットで後々上書きされた断片的な情報によって、なんとなく現在の調合になっている。  料理の主役は鶏肉だ。部位はどこでもいいのだが、今回は安売りの手羽元を買い込んだ。  ヨーグルトベースのたれを鶏肉に揉み込み、タッパーに詰めて半日から一日放っておく。  その間も、何もすることはない。  店で出すにあたって、フライパンかオーブンで火が通るまで焼けば、タンドリーチキンが完成する。  カレー粉の効いたほろほろに柔らかいタンドリーチキンは、ビールはもちろんのこと焼酎ともよく合う。辛口の冷やしたやつで流し込むのがいい。煙草との相性も抜群だ。    仕込みを終え、一服の時間を迎える。  丈はやかんをコンロにかけ、はみ出した火に煙草の先を近づけて吹かした。 「日夏」  居間を振り返り、声をかける。  しばらく隣で丈の手つきを観察していた彼だったが、何しろ簡単な料理なので手伝わせるようなこともなく、途中で追い返した。一度説明さえ聞けば誰でも(自分でも)、最低、同じ味が再現できる。おそらく彼ならば、もっとうまいタンドリーチキンを作るはずだ。店主として実に喜ばしいことだった。 「なんか飲むか?」  湯を沸かすたびにこれを尋ねるのは、多少面倒に感じる。  ただ、一人分沸かすのも二人分沸かすのも手間は変わらないと言い張る日夏がやめる様子がないので、思い出した時だけは自分もそうするようにしている。  たっぷりと煙草を吸い込むだけの間待ってみても、居間からは返事がない。  ほっそりした後ろ姿は、確かにここから見えるのだが。  近寄って覗き込むと、なるほど、パソコンの前に座ったまま、日夏はうたた寝をしていた。ずいぶん経っているのだろう、旧式のアイポッドも既に充電を完了している。開きっぱなしのページには、ヨーグルトのホエーを使ったドリンクのレシピがずらりと載っていた。牛乳や炭酸水で割って、砂糖を足せば、おいしく飲めるらしい。そのまま飲まされたのが、よほどショックだったのか。だとしたら悪いことをしたかもしれない。  それにしても、うたた寝さえ小ぢんまりしているのだなと、つい笑ってしまう。 「おい、布団行け」  肩に触れると、反応したのか反抗したのか、ぎゅっと身体を丸める。  外は白々と夜が明け、すっかり朝になっている。仕事明けの彼が眠気を催すのも頷ける時間だ。パソコンの前を陣取ってさえいなければ、このまま寝かせておいてやりたいのだが。生憎、丈にはメールのチェックやこまごましたデスクワークが残っている。  隣室の戸を開け、日夏が律儀にも毎日たたんで片隅に寄せている布団を、ざっと広げる。 「ほら、立て」  今度は頭を小突いてみても、やはり子供のようにいやいやをしてから丸まるだけだ。残された手段は実力行使しかないだろう。  咥えたばかりの煙草を、灰皿に休ませる。脇の下に腕を入れ、日夏をテーブルから引きずり出す。担ぎ上げる時、負荷を予測して重心を取ったのが馬鹿馬鹿しく感じるほどの軽さだった。 「ん……」  吐息が耳にかかる。 「起きたんなら歩け」 「うん……」  返事に反して、だらりと力の抜けた身体に変化はない。反動をつけて肩に担ぎ直し、敷居をまたいで数歩の短い距離を運ぶ。五十キロに満たないだろう軽い身体を運ぶこと自体は、ひどく容易だった。横たえるのに失敗したのは、頭の下から抜き出そうとした右手を、予想外に強く引っぱられたからだ。 「こら、放せ」 「うん……」  薄い頬がすり寄せられる。 「放せって言ったんだ」  真逆の行動には、笑うしかない。カレー粉やにんにくの臭いが染み込んだ手に、よく頬ずりできるものだと思う。 「枕じゃねーんだぞ」 「……うん」  それでなくとも、丈の手など理想的な枕とは対極の感触だろう。柔らかい髪が手の中でうねる。起きている時は緊張したり困惑したり考え込んだりと強張りがちな表情もまた、今は同じく柔らかい。色白さゆえに不穏な青痣は目立つが、実に気を許した顔で眠っているではないか。 「お前の胸と尻に脂肪がついてりゃ、申し分ないんだがなぁ」 「……ないよ」  思わぬところで会話が成立したのと同時に、右手が解放される。  さて揶揄すぎたか、と、やはり笑うしかない。寝返りを打って背を向けた日夏は、もぞもぞと布団を引き上げ、ややあってくぐもった声で言った。 「……丈さん」 「なんだ?」 「今みたいに……運んでくれたんですか?」 「ん?」  何を訊かれているのか、咄嗟にわからなかった。 「ああ……」  そういえば彼を担いで運んだのは初めてではなく、大して遠い過去の出来事でもない。呆れるほど軽い体重に実際呆れるのも、初めてではなかった。ただ、どんなふうに運んだのかと訊かれても、はっきりとは答えられないというか、思い出せないというか、気に留めていなかったというか。 「そうだったはずだな、たぶん」 「ありがと……ございます……」 「なんだ、今さら」  かようにして、大雑把な性格の自分だ。他人の心の機微に対する敏感さなど、一切持ち合わせていない。  何らかの心境に陥ったらしい日夏が、それきり黙りこくっていることと、どうやらこれ以上喋る気がないことだけは、態度から判断できる。 「明日も仕事だ。とっとと寝ちまえ」  丈は頭から布団をかぶった小さなかたまりを、軽く叩いて立ち上がる。  明日も仕事だ。とっとと寝るためにも、雑多なデスクワークを片づけることにしよう。灰皿の上では、煙草が半分ほど、文字通り灰と化していた。

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