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第14話

 オーブンの中のタンドリーチキンがもうすぐ焼きあがるという、計ったようなタイミングで戸が開く。 「ばんわー」  顔を上げるまでもないとすら思ってしまう、丈の知る限り、これほど間延びした挨拶を寄越すのは日瑞ハーフの男しかいない。 「土曜だってのに珍しいじゃねーか」  エディに向けて言ったつもりが、目が合ったのは彼の後ろに立つ朝倉だった。 「こんばんは」 「こんばんはー」  さらにそのすぐ後ろには、雪絵の姿まである。 「また……珍しい三人組みだな」  仕事帰りに顔を出すのが常の彼らだが、休日、開店早々に揃ってやって来るなどということもあるらしい。雪絵は普段のOL姿ではなく、丈の長いダウンジャケットとジーンズというラフな格好だし、朝倉もまた普段の堅いサラリーマン姿と違い、学生のようなダッフルコートを着ている。相も変わらないのはエディだけだ。  彼は明るく笑いながら、ミリタリーコートのポケットから出した手で背後を示す。 「いやいや、三人じゃなくて四人だから」  最後尾だと思っていた雪絵の後ろから、崇が現れた。 「ども」  隊列は三名ではなく、四名で編成されていたのだ。 「なんだ、揃いも揃って」 「俺ら三人は、お誘い合わせの上のご来店だけど。そしたら表で崇さんに会ってさ」  指差された崇は、軽く顎を引いて頷いた。 「そういうこと」 「メールも返信ないから、どうしちゃったのかと思ってたよ」 「悪いね、電源落ちてて」 「俺とエディの間で、死亡説が流れましたよ。お忙しかったんですか?」 「ん、死ぬほど」 「っていうかエディって、崇さんのメアド知ってるの?崇さんがどんな感じのメールするか、想像できないかも」 「結構ファンシーだよね」 「わー、気になる。私ともメアド交換してくださいよ」  好き勝手口々に言いながら、彼らは面白いほど自然に、各々の定位置に着いた。   「やだー、日夏くん前髪上げてる。可愛い」 「や、邪魔なんで……」 「あ、私のクリップつけてみない?スワロ付きよ」 「いやあのいいです。雪絵さん、お絞り」 「ありがとー」  日夏はお絞りを差し出すことで、バッグの中を探し始めた雪絵を辛くも阻止することに成功したようだ。隣からは、エディが落ち着きなく厨房を覗き込んでくる。 「ねえねえ丈さん、あれってタンドリーチキンだよね?」 「ああ、もう焼ける」 「やった。じゃ、とりあえず俺とあっちゃんはタンドリーチキンとー」 「ビール」 「二つ。で、よろしく」 「お願いします」  妙なコンビネーションを発揮して注文を完了すると、二人ほぼ同時にお絞りを広げる。 「雪絵ちゃんは」 「どうしようかなぁ……せっかくの東雲なんだから、好きなもの呑みたいな」 「なんだそりゃ」 「説明しよう。雪絵ちゃんは気の進まない合コンで溜まった憂さを晴らすために、ここにいるのだ」  エディに水を向けられた雪絵は、長い髪を揺らして悪戯っぽく笑った。 「えへへ、そうなんです。実は昨日、とある呑み会に誘われて行ったんですけど。カシスオレンジとかカルーアミルクとかちびちび呑みながら愛想笑いして、もう疲れちゃって」 「うちにはそんなもんないからな」 「今日、エディが朝倉さんと東雲に行くって言うから、ついてきちゃいました」 「珍しく休みの日に来たかと思えば、そういう理由か」  ザル、のんべえ、酒豪――色々な言い方があるが、女らしい外見に反して彼女がそれらの部類の人間であることは確かだろう。本来自分のペース(それも速い)で酒を傾けるのが性に合うだろうことも、この店に好んで来ているという事実だけでじゅうぶん理解できる。 「やだ、東雲はほんとに私の充電スポットなんですよ。元気をチャージしに来てるんです」 「嘘でも嬉しいね」  大げさなお世辞も媚を売っているように感じさせない、愛嬌と要領の良さも雪絵の魅力だと思う。ただそこが少しもったいないところでもある、などという丈の私見など、彼女にとって大きなお世話でしかないが。  突然、がた、とカウンターの端が鳴る。 「丈」 「なんだ?」  丈だけでなく、全員の視線が崇に集まる。両手をカウンターについて身を乗り出した崇は、力強くこう言った。 「テキーラ」  眼鏡の奥の、通常なら眠たそうに落ちている瞼が、今ははっきりと開いている。 「崇さん?」 「今日は奢ろう。テキーラに限り」  まるで重大発表でもするかのような芝居がかった調子で、崇は一堂を見渡した。 「仕事が片付いたのか」 「ん。年内最大の修羅場が終わった」  おー、と歓声とともに、拍手が起こる。 「おめでとー。てかさ、東雲にテキーラあるの?」 「だいたいのもんはある」 「そんな気はするけど。初めて知ったよ、テキーラの存在は」 「そこに並べてないからな。で、お前らはどうする?」 「呑む呑む。祝☆崇さん脱稿だもん」 「俺もです」 「じゃあ私もいただきたいでーす」 「ということで、テキーラ四つ」 「ストレートでいいか?」 「ん」  振り返ると、予想通り、日夏が途方に暮れた顔をしている。いつもとあまりに違う崇の言動と、周囲がそれに大して驚かない現実の、両方に困惑していることだろう。 「ああ。こいつ、作家の端くれでね」 「あ、はい、聞きました」 「大きな仕事の後は、たまにこんな具合になるんだよ。寝てないのと、頭の使いすぎのせいで、ナチュラルハイになる」 「そうなんですか」 「まあ、嫌でもそのうち慣れる」  テキーラは飾り棚ではなく、流し台の下に置いてある。日本ではまだ輸入販売されていない、現地のスーパーに置いてあるような銘柄だ。この最後の一本は、今夜で空になる運命らしかった。 「日夏」 「はい」 「オーブンの様子見て、焼きあがってるようなら出してやってくれ」 「はい」  パチパチと脂の爆ぜる音とともに、スパイスの強烈な匂いが広がる。 「うまそうですね」  料理人からお褒めの言葉を頂戴するのは、そう悪い気のするものではなかった。  ショットグラスにテキーラを注ぎ、皿に盛ったくし切りのレモンと一緒に出す。 「じゃ、崇さんの脱稿を祝して」  音頭を取るのはエディだ。 「かんぱーい」  グラスのぶつかり合う音を聞くのは、いつでも心地いい。  ストレートで口をつけるのは朝倉、果汁を絞り落としてから呑むのが雪絵、残り二人は果肉にそのまま齧りつき、テキーラを流し込む。酒の呑み方に正解などないが、ショットグラスの底に一センチほど相伴を預かった丈もまた、テキーラはレモンの果肉に齧りついてから呑むのが好きだった。 「あ、タンドリーチキンきた」 「やーん、おいしそう」  こんがりと焼けた手羽元が、大皿に盛られて登場する。確かにタンドリーチキンは大皿から掴み取って食べるのがうまいだろう。しかし、錫の大皿などよく見つけたものだ。鈍い銀色の光沢のある皿は、異国料理に合っているが、元々店にあるということは紛れもない和食器だろう。店の出資者であり皿の提供者でもある故人は、半ば資産家の道楽だったろうが、和食器の収集家でもあった。 「あっつ」  一口齧ったエディが、小さく飛び上がる。 「当たり前だろうが」 「あっついけどおいしい。丈さんのタンドリーチキンってうまいよね。これがカレー粉効果?」 「それはあるだろうな」 「……そこはつっこんでよー」 「何がだ?」 「何がって――あっつ」 「学習しろ」  焼きたては高温の脂が染み出すので、注意して食べたほうがいい。などとわざわざ言わなくても、一目瞭然だろうに。 「私、丈さんのタンドリーチキン久しぶりですぅ」 「俺も久しぶりに作ったよ」 「んー、やっぱりおいしい」 「そりゃどうも。他には?何かつまむ?」 「あ。だし巻きがすっごくおいしいって聞いたんですけど、今日はあります?」 「日夏次第だな」  顔を上げてちらりと笑った日夏は、それから不安そうに首を傾げた。 「よければ作りますけど……テキーラに合いますか?」  酒の呑めない日夏は、自分の作る料理が酒肴にふさわしいかわからないことを、時々気にする。 「ほとんど味のない蒸留酒だからな、何にでも合うだろ」 「長ネギのマリネは?」  割って入ったのは崇だ。大根おでんに続いて、長ネギのマリネもずいぶん気に入ったようである。 「あ、リクエストいただいてたんで、作ってあります」    カウンターには長ネギのマリネ、だし巻き卵、きのこのチーズリゾットが追加される。今年は冬野菜の代名詞である白菜の値段が高騰していることもあり、安く手に入るきのこ類の出番が多くなりそうだ。注文は和風の雑炊か洋風のリゾットかで意見が分かれていたのだが、日夏が粉チーズの賞味期限を確認してしまったことにより、店主権限でリゾットになった。日夏が厨房に立つようになってから、思わぬ食材が揃ったり不足したりする。  また、この店の厨房に立つ人間は、手の空いた様子を見せるとすぐにグラスを持たされる。日夏も、ジンジャーエールと、ほどよく冷めたタンドリーチキンを勧められる。肉の部分より、ぱりぱりに焼けた皮のほうが好きという、彼はなんとも金のかからない味覚の持ち主だった。 「日夏くんって、お酒呑めないのよね。未成年じゃないんだっけ」 「……すいません」 「ひなっちゃん、いくつだっけ」 「え……あの、二十三、です」 「そっかぁ、まさかの平成生まれかぁ」 「まさかのね。そんな雪絵ちゃんは、いくつなんだっけ?」 「にじゅうー……はちです」 「今、なんか間がなかった?」 「エディ、それ以上は……雪絵ちゃんにだって事情が」 「ちょっと二人とも、無実の罪着せないでよ。まだ二十八です二十八、悪うございましたね」  雪絵は酔い始めているのかもしれない。エディと朝倉に向けて舌を出す仕草は、大人の女(そんなものが実在するかはともかく)のそれには程遠く、そうでなくとも丈からしたらじゅうぶんに年若い。 「俺より十歳近く若いのか」 「やだ、若くなんてないですぅ」 「――グラス空いてるぞ」 「あ、ありがとうございます」  雪絵のグラスに、瓶に残ったテキーラを全て注ぐ。長い髪を手で片方に流しながら、彼女がじっと見ているのは日夏の顔だ。 「そっかぁ、そうだよね。どうりでつやつやなはずだわ、日夏くんのお肌」 「や、全然」  ほろ酔いの雪絵以上に頬を染めて、日夏は隠れるように丈の後ろへ退いた。  堪えきれず笑ってしまったせいで、煙草に火を付けるのを失敗する。改めてライターのボタンを押し、吸い込んでいると、エディが空のグラスを掲げた。 「テキーラは終わっちまったぞ」 「じゃ、日本酒。冷で。あ、徳利でちょうだい。お猪口は二つね」  冷やしてあった日本酒のうち、一番辛口のやつを徳利に注ぐ。一つめのお猪口はエディへ、二つめは朝倉の手元に置く。 「丈さんはー、煙草やめないの?」  やや灰がかった青い目にも、陽気な酔いの気配が見える。 「まあ無理だな」 「セラピー本とか読んだら、意外とやめられるかもよ?」 「お前じゃあるまいし」 「世の中から禁煙セラピーの本が絶えないのには、理由があるんだって。それ読んでやめる人間が、絶えず世の中にはいるんだって」 「お前は理想的な読者だったな」 「まあね」 「褒めてねーぞ」 「ですよね――ん?なになに?ひなっちゃん」  日夏がようやく、丈の背後から出てきたらしい。 「エディさんって、煙草吸ってたんですか?」 「うん、昔はね。あっちゃんにセラピー本をプレゼントされて、それ読んでやめた」 「ほんとですか?」 「ほんとほんと。それをきっかけに俺たちは付き合い始めたんだよ。ねー」 「そうだね」 「へ……え……?」 「あはは。冗談だって」  涼しい顔で相槌を打ち、混乱させておいて面白がる。朝倉は間違いなくエディの類友だった。 「あ、冗談……」 「ほんとは、ある日本屋で偶然同じ禁煙セラピー本を取ろうとして、エディと俺の手が触れ合ったのがきっかけ」 「……ほんとに?」 「あはははは」  二人は同時に笑いだし、顔を見合わせる。 「ひなっちゃんはー、天然だ」 「だな」 「マジ天使だ」 「ですな」  謎のフレーズで急に盛り上がる二人に、そのことを追及するような愚を犯してはいけない。黙って煙草を吸いつつ、聞き流すのが賢明だ。 「まったく、お前はこいつらのいいネタだな」 「すいません……」  力なく言いながらも、こちらを見上げる顔は笑っている。 「あ、日夏くん!」  今度は雪絵に呼ばれる。絶えず指名される人気ぶりだ。料金でもとってやろうかと、くだらない冗談が頭をよぎる。 「えくぼできるのね」 「えと、片方だけ」  はにかんで笑うと、言われてみれば確かに、片方だけ小さなえくぼができるではないか。 「かーわいーー」  複数の揶揄が飛び交う。再び恥ずかしそうに頬を染め、日夏は丈の後ろに隠れようとするのだった。

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