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第15話
テキーラを皮切りに、日本酒、ラム酒、ウィスキーと、酔っ払い達は節操なくボトルを空けていった。半端に残っていた酒がきれいに片付くことにはなったが、それはあくまで結果を肯定的に捉えた場合であって、事実は、在庫セールののぼりを立てた覚えもないのに片っ端から荒らされたといったところだ。
最初に、とはいえじゅうぶんに深い時間だったろうが、雪絵が席を立つ。酔ってもなお、テキーラに限るという制約を憶えていたらしい、崇との間で実に日本人的な押し引きを行った後、礼と謝罪を述べつつ財布をしまう。崇などに支払うより、彼女はそれをタクシー代に充てるべきだというのが満場一致の意見だった。
その後も静かに呑み続けていた崇が、まずは、静かに潰れる。
酔いと口数の関係がグラフで表すところの放物線状であるエディは、頂点を通過すると、いつもの饒舌が失速していく。朝倉は心得たもので、途中からグラスの中身をウーロン茶に変えて付き合っていた。
エディが朝倉に、崇はカウンターにもたれて動かなくなったところで、今宵の宴はお開きになる。呑み処東雲も店仕舞いだ。
ぐにゃりとうつ伏せた崇は、半ば寝息を立てている。締め切りが明けるたびに酩酊するまで呑むなど、締め切りの頻度の少ない、崇のような寡作の作家でなければできないだろう。
「ろくに寝てないのに呑むからだ、馬鹿」
「……馬鹿は兄譲りなんで」
「口答えはできるらしいな」
ただし、一度しかできないらしい。
「ここで寝てくつもりか?」
そのこと自体は別段構わないのだが、呑み屋のカウンターで一晩明かすほど不毛なこともない。揺り起こされて不機嫌そうに唸る崇にも、判っているはずだ。
「……帰る」
「歩けんのか」
「……ん」
「無理だな」
歩くどころか、上体を起こすのもままならない。
「しょうがねーな。うちで寝てくか?」
「いいなー、お泊まり」
「お前らは帰れよ」
朝倉の支えなしでは立ち上がれもしないくせに、ずいぶんと耳ざといものだ。睨んだ先のエディはへらりと笑い、片手を横に振った。
「だいじょぶ、俺ら二人は一緒の布団でいいから」
「ですな」
「何がいいんだよ」
「俺は帰る……」
「崇さんだいじょぶー?」
「ん、帰る……」
「じゃあやっぱり、俺らが代わりに丈さんちに行かないとー」
「――わかった。全員家に帰れ」
「なんでー?俺はあっちゃんと寝るから、丈さんはひなっちゃんと一緒に寝ればいいじゃん」
素面でさえ理解に苦しむ発言をするエディに、今、質したり窘めたりするのは無駄だ。
よろめく崇を支えながら、丈は呆れて言った。
「まあ、他の組み合わせよりはいいが……」
「でしょー」
「お前らと一緒じゃ、狭っ苦しいにもほどがある」
エディも朝倉も、そして自分も、日本人では長身の部類に入る。痩身、標準と体格に多少違いはあれど、どちらか一方と一つの布団で寝なければならないなどと、想像するだけで狭苦しい。その点では、小柄な日夏ならば彼らよりは幅を取らない。
「ひなっちゃん聞いた?非売品のかっこいいおじさんを、さわさわするチャンスだよー?」
「なんだそりゃ」
「ほらほら、ひなっちゃん、立候補立候補」
これがいわゆる、絡む、という行為だ。しつこくエディに水を向けられ、テーブルを拭いていた日夏が、返事に窮するといった顔で苦笑する。
「ごめんこうむるとさ」
「そんなことないよ!」
「だからなんでお前が力説するんだよ」
食ってかかる勢いのエディを、ようやく朝倉が宥める。
「まあまあ、落ち着けエディ」
ある程度事態を混乱させてからでないと収束に協力しないのは、エディの相方たるこの男の、一種サディスティックな部分のような気がしている。簡単に言うと、止めるなら早く止めてほしい、ということだ。
「ところで、復活したなら自分で歩いてくれるかな?」
「やだー」
肩にしなだれかかるエディをしかし無下にはせず、朝倉は二人分の上着を手に、軽く頭を下げた。
「じゃあ、俺らは帰りますよ」
「ああ。気をつけてな」
面倒な――もとい、重要な見送りは日夏に任せることにする。
できた店員は、戻って来る時に暖簾を外すのを忘れなかった。
「あいつらちゃんと歩いてたか?」
「はい、でも入口の側溝に」
「つまづいたか」
「エディさんが」
「あいつは素面でも、あそこでよくつまづくんだよ」
「直せないんですね」
「役所の管轄だからな。まあ、また電話してみるが」
くい、と片手が引っ張られる。
「丈……タクシー……」
そう、面倒もとい重要なことが、まだ残っていた。
「わかってるよ。お前んちでいいんだな?」
「うん……朝イチで担当から電話あるから」
「携帯充電して、電話線もちゃんと挿しとけよ」
携帯電話を死没させるだけでなく、固定電話も元から断ってあるだろうことは、日頃の行動パターンから予想できる。
反動をつけ、崇を担ぎ上げる。拍子抜けするほど軽い日夏に比べれば少しは重みがあると思うのだが、痩せすぎなことに変わりはない。
「ちょっと表まで行ってくるわ」
「あ、はい」
「片づけを続けてくれ。ぼちぼちでいい」
「はい」
戸を開けると、外はよく冷え込んでいた。
大通りから聞こえる車の音はまばらだ。タクシーはすぐに捕まるだろうか。
千鳥足の崇が、ぼんやりと口を開く。
「久しぶりの娑婆の空気だ……」
「うまいか?」
「寒い……」
白い息が広がる。
「そりゃそうだろ」
「丈は?」
「何がだ?」
「空気。うまい?」
「……うまくもまずくもねーな」
「ふうん」
「なんだよ」
「なんでも。丈がいいなら、いい」
自己完結しがちな弟との会話にも、三十年あれば慣れる。理解できる、というのとは違う。それに自覚的でさえあればいい、というだけのことだ。
通りには、運よく客待ちのタクシーが停まっていた。
崇を後部座席に押し込み、行き先を告げる。
タクシーが発進するのを確認し、丈は踵を返した。ぼちぼちでいいと言い置いたものの、戻ったら片づけが終わっている可能性もある。何より、薄着でいるのは堪える寒さだ。早く温かい場所に戻りたかった。
日夏は段取り良く皿を洗うので、閉店後に汚れた食器が積まれていることがない。洗い桶に残っていたわずかな皿やグラスを手早く洗うと、シンクを掃除し始める。ここ一週間で磨き上げられた調理場は、いかに自分が杜撰な店主であるかを教えてくれる。
空いた酒瓶をビールケースに入れて、外へ出す。
あとは、レジを締めるだけだ。
現金を数え、レシートの売り上げと比較して帳簿につけるだけの作業は、せいぜい十五分で終わる。なにしろどんぶり勘定につき、百円の誤差を追究するような厳格さは必要ないのだ。
入力の履歴が印字された精算用のレシートは、三十センチ程度の長さになった。
「先に帰っていいぞ」
小銭を数えながら、そろそろ手持無沙汰だろう日夏に声をかける。
「いるならいても構わない」
「はい」
どちらの勧めに対する承諾だったのかは、しばらくして、熱い湯呑が出されたことで判明する。「上がり」用の番茶が、香ばしいにおいと湯気を立てていた。
「ああ、ありがとう」
「いえ」
日夏も湯呑を手に、レジから一番離れた椅子に腰かける。終わるまで待っているつもりのようだ。
「レジ締めもできるんだっけ?」
「他の店では、やってましたけど」
「じゃあ、その内やってもらうか」
返事は無言の微苦笑だった。冗談だと思ったのかもしれない。熱い番茶を一口啜ると、におい同様、香ばしい味がする。
湯気を顎にあてていた日夏が、やおらぽつりと呟いた。
「崇さん、無事に帰れましたかね」
「まあ、スラムに住んでるわけでもない。今まで無事だったんだ、今日も無事だろ」
今度の彼は明るく微笑し、予期せぬことを口にした。
「羨ましいです」
「ん?」
「崇さんも、エディさんも……朝倉さんも、雪絵さんも」
ぽつりぽつり、と、さっきまでカウンターで呑んでいた連中の名前が挙がる。
「でもやっぱり、崇さんが羨ましい、かな」
「どうしてそう思う」
「丈さんみたいな人の、特別で」
「俺みたいなやつってのは?」
ふと俯き、日夏は湯呑に向かってやはり、ぽつりと呟いた。
「優しくて……」
「どこがだ」
「俺なんかにも、こんな、優しいとことか……」
「自虐的なやつだな」
「そうかも」
大事そうに湯呑を握っているが、熱くはないのだろうか。およそ無骨さとはかけ離れた、白く細い手だ。他人事とはいえ、洗濯物を干せば冷たくはないのかと気になり、湯呑を持てば熱くはないのかと気になる。
「あと……皆に慕われてて」
「皆って、あいつらのことか?そんな大層なもんじゃねーな」
「そんなふうに言えるような関係とかも、羨ましいです」
ゆっくりとテーブルに湯呑を置き、日夏はまた、微笑したのだろう。
「欲張りなのかな……」
彼にはおよそ似合わない言葉だと思った。
「本当に欲深いやつは、んなこと言わないだろ」
深く考えずに言ったことをすぐさま後悔する程度には、あまりにありきたりな論法だった。
「――と、思うがね。よくわからん」
しかし他に、適当な言葉が浮かぶわけでもない。番茶を啜りながら見やった日夏は、静かに頷いた。
「俺もです」
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