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第17話

 怒りながら大根をおろすと、辛くなると言われている。いつから言われているのか誰が言い始めたのかどういった根拠があるのかは判らない、民間伝承というやつだ。また、大根は上の方が甘く、下の方が辛いとも言われている。こちらは、個人的には実体験も伴っており、なんとなく科学的な理由があるのだろうと思っている。それと同時に、旬の大根、つまりこの時期の大根は甘くなる。では、旬でない大根の上の部分と、旬の大根のしっぽの部分を、等しく冷静な状態でおろした場合どちらが辛くなるだろうか。  などとくだらないことんにぼんやりと思いを巡らせているのは、自分がさっきから大根をひたすらおろしており、その単調な作業が思考を鈍らせているからである。  つまり、大根をおろすのに飽きている。  ずいぶんおろした気がするが、まだボウル一杯に満たない。やはり日夏に任せたほうが効率的だったろう。  もっとも、丈が非効率的に大根をおろしている間にも、彼は手際よく掃除をしているに違いない。表をさっと掃くようにと頼んだだけだったが、まだ戻らないとあれば、念入りに掃除をしているか油を売っているかのどちらかだ。後者の可能性は低いと判っていても様子を見に行こうとする自分の行動こそ、油を売るというのに近い。  戸を開けるとしかし、見渡す範囲に日夏の姿がない。あるのはネオンが灯り出すにはまだ少し早いだけの、いつもの軒並みだ。目の届かない所で手を抜くような芸当ができるのならばそれも良いだろうと、揶揄の言葉を考えながら裏口へ回る。立てかけたほうきの横に、対象のピンク色の人影があった。 「日夏」  その足元から、小さな物体が飛び出し、走り出す。  さて、前にもこんなことがあった。 「……悪い」  野良猫との束の間の戯れを妨害され、日夏はきまり悪そうな顔で立ち上がった。 「すいません……」  ぶち模様の猫は、物陰へ消えて既にいない。 「猫が好きだったな」 「あ、はい」 「飼ってたのか?」 「飼ったことはないけど、子供の頃、家に外猫がいっぱい来てて」 「へえ」 「おばあちゃんが餌やってたから……」  猫を撫でていた手が急に空いて、持て余したのかもしれない。前髪を留めていたピンを外し、しきりにいじっている。 「――目立たなくなったな」 「え?」 「痣だ」  確かに少し急な指摘ではあったが。途端に、慌てて額を隠すのだから可笑しい。前髪を下ろそうが上げようが大して効果に変わりないことに、どうしても納得しないようだ。 「ここはまだだな」  丈は最も痣が目立つ、つまり最も怪我の深かった、左目の周囲に手を伸ばす。ぎゅっと目を瞑って身構える様子につい自制心が働き、強く押すという当初の目論みは捨て、軽く触れるだけにとどめる。 「痛いか?」  そろりと目を開けた日夏には、たったそれだけの質問をじっくり反芻する時間が必要だったのだろう。たっぷり沈黙してからようやく、首を横に振る。 「……ううん」 「よかったじゃねーか」 「うん」  はにかんだ表情もやはり、前髪で隠そうとする。丈はその小さな頭を小突き、掃除の行き届いた周囲を見回した。 「ありがとう。きれいになったよ」    蒸かした里芋の皮を剥く丈の傍らで、日夏が残りの大根をおろしている。暖簾を上げてすぐは客も来ず、このまま閑古鳥の鳴く一日となるのか、それともそのうちに客足が増えるのかとぼんやり考えることくらいしか、自分のような怠慢な経営者にはすることがない。  やがて戸が開き、お馴染みの、コンバットブーツを履いた金髪の男が現れた。 「うー、さっぶい」  今週に入っての来店は、今日が初めてだ。後ろ手に戸を閉めると、エディは気の抜けた顔でへらりと笑う。 「ばんはー」 「熱燗か?」 「うーん、なんかおすすめあるの?」 「ボジョレーが入った」 「うわ、すごいね」 「うちだって、それくらい買える」 「違うよ。解禁日には見向きもしなかったくせに、今頃、ちょっと忘れてたなーって頃に出すってそれなんてツンデレ」 「意味がわからん。座れ」 「はーい」  カウンター席に腰かけ、日夏からお絞りを受け取ると、早速口説き始める。 「ひなっちゃん、可愛い服着てるねー」 「そうなんです、どうしても欲しくて。大事なお給料なんですけど、使っちゃいました」 「うんうん、似合ってるよ」  先日買ったTシャツのことだ。鮮やかなピンク色の上にゼブラ柄という、丈ごときの感性では理解しづらいデザインだった。 「若いやつは何でも似合うのかね」 「いやー、たとえ丈さんが若かったとしても、似合わなかったと俺は思うよ?」 「俺も思うよ」  年齢だけが理由ではなく、このTシャツが着る者を選ぶデザインであり、日夏が選ばれた者であるというのも確かなようだ。 「ひなっちゃんが可愛い、という事実があってこそだね」  エディの総括に、おそらく間違いはないだろう。 「で、何呑むんだよ」 「どうしよっかな」 「あの、エディさん。ワイン呑まれるなら、食べてみてもらいたいのがあるんですけど」 「ん?」 「チーズの味噌漬けです。たぶんワインに合うんじゃないかなって」 「味噌漬け?」 「はい、赤だしで、クリームチーズとモッツァレラチーズを漬けてみたんですけど……試食してもらえたら嬉しいです」 「するする。じゃ、ワインで」  日夏は本当に勤勉な料理人だ。ワインに合うチーズ料理を、と何の気なく注文すると、数日後にはそれが叶えられている。単なるチーズの盛り合わせより洒落た印象で、もちろん味もいい。癖のないチーズに、赤味噌の塩気がよく効いている。個人的には、しこしこした歯ごたえのあるモッツァレラチーズのほうを特に気に入った。赤ワインに合うのは言うまでもない。 「おいしー」 「ほんとですか?」 「ほんとほんと!」  赤ワインを飲み干したエディは、上機嫌のまま熱燗を所望する。 「熱燗用にも、何かおつまみ作ってほしいなー」 「図々しいやつだな」 「丈さん何にもしてないじゃん」 「その里芋を煮付けたのは俺だ」 「だよね。いつもの味しかしないもん」 「どういう意味だ」 「――あ、あの。大根餅なんてどうですか?」 「だいこんもち……ってなんだっけ」 「大根おろしと片栗粉を混ぜて焼いた、お餅みたいなやつなんですけど。もしよかったら」 「えー、いいに決まってるじゃん」 「大根おろすの、丈さんが手伝ってくれたんです」 「丈さん……」 「なんだよ」 「ひなっちゃんにこんなフォローさせて、大人気ないと思わないの?」 「どういう意味だ」  いよいよ日夏が困り切った表情を浮かべる。  軽口の叩き合いを終わらせたのは、丈でもエディでも、もちろん日夏でもなく、ガラリと開いた戸、新たな来客の存在だった。 「いらっしゃい」  一人客らしい。東雲には珍しくない。  スニーカーにジーンズ、青いダウンに身を包んだ、中背の男である。  丈の表情を不思議に思ったのだろう。エディが上体を捻って、戸口を振り返る。 「あ」  一人客自体は珍しくなくとも、予想外の来客ではある。  正確に言うと、予想より早い。 「ずいぶん順調なフライトだったな」  ソマリア北からのメールを受け取ったのは、つい先週ではなかったか。 「ええ。ただ今戻りました」  この懐っこい笑顔を見るも久しぶりだ。 「変わりませんね」 「そうそう変わってたまるか。お前も変わりはないな」 「はい」  髪は少し伸びたかもしれないが、変化といえばその程度。 「呑んでくんだろ?」 「もちろん」  旧知の男の名は、浩輔(こうすけ)という。

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