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第18話
「浩輔さん久しぶりー」
「ようエディ。お前も相変わらずだな」
「まあね。いつ帰ってきたの?」
「今日」
「マジで?今日?で、今ここ?さっすがー」
エディの反応は、今に限ってはそう大げさでない。丈もまた、行動の迅速さに驚くより、落ち着きのなさに呆れている。
「どうせしばらくいるんだろ?」
「の、予定ですけどね」
「オフくらいゆっくりすりゃいい」
帰国早々、わざわざ来るほどの店ではないだろう。特別に歓待する方法があるわけでもなく、できるのはせいぜい、冷えたキリンビールを出すことくらいだというのに。
「ここに来ないと、帰ってきたって気がしないんで」
グラスを受け取った浩輔は、にっと笑って言う。
思えばこの男との付き合いも長くなってきた。異国で出会った同国人、また崇と同年代だったこともあって、何となく目を掛けていた男だ。ずいぶん懐かれたものだが、現役を退いた今でも慕ってくる後輩がいるというのは、幸いなことだった。
「昔の後輩でね」
ビールを注ぐ片手間に簡単に紹介すると、わかっているのかいないのか、日夏が曖昧に頷く。彼の不安げな視線の先にあるのは、もちろん浩輔だ。というよりも、浩輔の視線が日夏を不安げな顔にさせているのだろう。この後輩について長い付き合いで判っていることの一つに、素直な性格である、というのがある。例えば、不審に思った相手に対して、その不信感を隠そうとしないというような、だ。
「こいつは日夏だ。今うちで働いてる」
「へえ。いつから?」
「最近だな。今月に入ってからだ」
「信用できるやつなんですか、そいつ」
「そいつじゃなくて、ひなっちゃんだよ。お日様の日に、夏。ほらほら、浩輔さん泡なくなっちゃうよー」
手ずからビールを注いでいたエディが、執り成すように乾杯を要求する。それに応じてグラスを合わせた後、一口ビールを呑み、浩輔はまた日夏に目を向けた。
「その怪我、まだ新しいな」
「あ……はい」
「穏やかじゃねーな、殴られた傷だろ」
「……はい」
とにかく、良くも悪くも素直な性格の男なのだ。思ったことがすぐ口に出る。順調に回復しているとはいえ、日夏の顔に青痣があるのは事実だし、それが挫創に伴っていることも一見して確かだった。
「あの俺……」
日夏はもじもじと言いながら、前髪のピンをいじり始める。やはり、困った時の癖なのだろう。
「こいつは料理人だ」
「どこで見つけたんです?」
「そこのゴミ捨て場で、だな」
「あんたって人は、すぐそれだ」
ぐびりとビールをもう一口あおった浩輔は、今度は丈を睨みつけてくる。
「俺は丈さんの、そういうとこが心配なんですよ」
「ああ、ありがたいね」
昔の後輩がこうやって慕ってくれることは、実に幸いでありがたくも、迷惑なものだ。
「そうやって笑いますけど」
どうやら顔に出ていたらしく、また睨まれる。
「たとえばあんたは今、知らずに犯罪の片棒を担いでいるかもしれないんですよ。匿っただけで、あんたまでしょっ引かれるような、だ」
「まあ、考えなかったわけじゃないが」
明け方の路上に、血だらけで転がっていた。理由は不明。警察沙汰は嫌だと、そういえば、日夏も朦朧と言っていた。確かに物騒な推理はいくらでもできる。
「だったら」
「だがまあ、こいつだって俺の素性を大して知らないからな。リスクはお互い様だろう」
「論点をずらさないでくれ。俺は、あんたのリスクについてだけ話してる」
「だったら話は早い。俺は腕のいい料理人を見つけた。よく働くし客の覚えもいい、助かってるよ。反論は受け付けない。以上だ」
ただ、自分にとっては今のところ、日夏は良い拾い物だったとしか言いようがない。
「返事は?」
「イエス・サー」
単なる反射による答えにせよ、その有効性に変わりはなかった。
口を噤んだ浩輔に、ややあって、おずおずと日夏が話しかける。
「あの俺、丈さんに助けてもらって……でも怪しい人間とかじゃないです」
「そういう服が趣味なのか?」
「え、あ……はい」
「若いやつのセンスはわかんねー」
自分と同様に、浩輔もまた、およそ洒落た服など似合わない種族の人間だ。どこにでも売っているTシャツを、伸びるまで着古すような人種である。服装だけでなく髪も、オフの今は多少伸びている方だろうが、基本的に伸びてきたら刈り込むことしかしない。日夏のような、身ぎれいでしかも中性的な人間が異種族のように感じる気持ちはよく判る。
「お前、いくつ?」
「二十三です」
「それくらいの頃から、丈さんには世話になってんだ。崇さんって、知ってるか?」
「あ、はい」
「崇さんの一個下でさ、歳が。俺も丈さんのこと、兄貴みたいに思ってるんだよ」
「あの、後輩って」
「後輩っつーか部下っつーか、軍の」
「軍?」
自分達の素性を知った者は、大抵、同じような反応を示す。たっぷりと絶句した後、意味が解らない、という顔をするのだ。無理もないだろう、この日本に軍人という職業はない。目を見開いてこちらを見上げてくる日夏の真剣さに、思わず、丈は小さく吹き出してしまった。
「大雑把に言えば、傭兵ってやつだな。俺はとっくに引退してるが、浩輔は現役だ。今も世界中飛び回ってる」
「……ほんとに?」
「本当だ」
彼にとってはこの瞬間まで、せいぜいテレビの中の存在だったろう。日夏の驚きなどもちろんお構いなしに、浩輔はグラスのビールを呑み干して言った。
「日本にいる間はしょっちゅう顔出すから、まあ、よろしく」
「はいツンデレ入りましたー」
「なんだよそれ」
「あ、ツンデレってゆうのはね」
「それは知ってる」
「え、知ってるの?」
「いや詳しくは知らないけど。めんどくせーから説明はいい。それよりビール」
「はいはーい」
「なあ、日夏だっけ」
「あ。はい」
「俺にとってはほんと、兄貴みたいな人なんだよ、丈さんは」
「浩輔さんそれ聞いた」
「ったく、呑みすぎんなよ?」
忠告する方も情けなくなるほど、浩輔は外見に反して酒に弱い。グラス一杯もビールを呑めば、もう酔い始めているだろう。躊躇わずそこに二杯目を注いだエディは、にやにやと笑っている。
「ところでひなっちゃん、俺、大根餅待ってるんだけど」
大根餅とは、ごくシンプルな料理だった。大根おろしに、だしの素、桜えび、万能ねぎ、それから片栗粉を加えて混ぜる。その種をフライパンに落とし、蒸し焼きにした後、蓋を取ってからしっかりと両面に焼き色をつければ完成だ。
香ばしく焼けた大根餅は、ポン酢で食べるのが日夏のお薦めだった。桜えびの風味といい、食感といい、日本酒に合うのは間違いない。熱燗に切り替えたエディが、しきりに絶賛している。
「うーん。もちもちでおいしい」
「よかったです」
「ひなっちゃんの料理って、ほんと、どれもおいしいんだよね」
「その大根おろしたのは俺だぞ」
「次にそれ言われたら、無視しちゃうかも――ね、おいしいでしょ?」
「おう、うまい」
返事もそぞろに、浩輔は大根餅を平らげる。
「腹には溜まんないけどな」
「浩輔さん、無粋~」
酒の肴で満腹になろうというのだ、酒呑みからの誹りは免れないだろう。
「ほらよ」
そういう男には質より量の料理がふさわしいと、大皿を目の前に出す。
丈が適当に作った野菜炒めである。
もう少し正確に言うと、キャベツとスパムの炒め物だ。肉を切らしており、棚を探したところ、すっかり忘れていた缶詰を発見した次第。塩味の強いスパムを使えばそれだけでほぼ味付けが済むのだが、一応、カレー粉も加えておいた。
「やっぱカレー味なんだね」
「入れた方がうまいだろ、たぶん」
「俺にとっては故郷の味ですよ。うまいかまずいかは別として」
頬張った野菜炒めを咀嚼しながら、浩輔が言う。まったく正直な男だった。
「言ってくれるじゃねーか」
エディと日夏が顔を見合わせて笑うので、とりあえず、手の届きやすい日夏の頭を小突いておく。
小突かれた頭に手をやった日夏が、ふと入口に目を向ける。
ガラリ、と戸が開く。来客が続く夜だった。
「こんばんはー」
明るく良く通る、耳馴染の良い女の声だ。
「なんだ、雪絵ちゃん。いらっしゃい」
長い髪を払って、雪絵はえへへと笑った。
「今日は呑みに来たんじゃないんですよ」
「ん?」
「こないだ、腕時計忘れちゃって」
「ああ」
洗面台に置かれていた女物の腕時計は、やはり彼女の物だったのか。
「えー?どうせなら呑んでけばいいじゃん」
「もう、誘惑しないでよ」
エディの誘いに、しかしまんざらではなさそうな顔をするのが雪絵らしい。
「てか、浩輔さん初対面じゃない?」
「あ。はじめましてー、雪絵です」
にっこりと笑いかけられて、浩輔の顔色が変わる。
「――どうも」
さて、良くも悪くも素直な性格のこの後輩は、その上実に惚れっぽくもあった。
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