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第19話
大根餅の魅力と、男性陣の(というより浩輔の)熱意、何より一番はアルコールの誘惑に負けたのだろう、雪絵は「一杯だけ」としきりに念を押しながら腰かける。
「こんなに若くて綺麗な女性が、東雲なんかに来るんですね」
尊敬だの何だのという気持など、所詮、それが淡かろうが濃かろうが、恋心というやつの前では簡単に忘れ去られるということだ。浩輔自身がそう証明している。掃き溜めに鶴、と比喩されていることが心外なわけではない。
「あ、自分、浩輔と言います」
「はい、先ほど聞きましたぁ」
「や、こんな……綺麗な女性がここに」
「あはは、ありがとうございまーす」
手放しの賛辞も酔っ払いの戯言でしかなく、古今東西、酔っ払いの戯言は軽くあしらわれるものだと決まっている。
「いい加減座れ。うちは立ち呑み屋じゃねーんだぞ」
「はい!」
呆れ半分に叱咤すると、浩輔は弾かれたように背筋を伸ばし、勢いよく着席する。正体をなくしても命令に従順なのは、誰にとってとは言わないが、こういう時に救いだった。
「雪絵ちゃん雪絵ちゃん、浩輔さんは、丈さんの軍時代の後輩なんだよ」
「へえ、そうなんですか?」
「はい、丈さんには昔から世話になってます」
「わあ、なんだか不思議」
「テンション上がるよね」
「なんでだよ。あ、どうぞ」
「あ、すみません。エディはミリタリー?のマニアだもんね。でもこうやって並んでると、どっちが本物かわかんないかも」
「あはは、俺は偽物」
「つーか、どこで買うんだよそんな服」
「え?これはネットで――あ、浩輔さんストップ」
「やべ、すいません」
「だいじょぶですよー」
わいわいと喋る彼らの手元では、浩輔がエディから強引にビール瓶を奪い、首尾よく雪絵のグラスに注いだまではよかったが、案の定盛大にこぼす、という光景が繰り広げられている。
「あ、ありがとー」
雪絵の顔をふわりとほころばせたのは、新しい布巾を素早く差し出した日夏だ。同時に浩輔の不興を買うことにも成功してしまい、一睨みされたあと、その布巾をひったくられたわけだが。
「はいはーい、落ち着いた?いくよー、改めてー、かんぱーい」
日夏は黙って微笑んでいる。健気なものだ。
一杯だけという宣言は、もちろん守られなかった。とは言え、ほんのグラスに二、三杯だ、雪絵にとっては引っかける程度だったことに違いはないだろう。
白いストールを巻きながら、彼女が立ち上がる。
「じゃあ私、これで」
「表まで送らせようか」
「まだ早いし、大丈夫です」
「いや、一人じゃ物騒ですよ。俺、送ります」
立ち上がりたかったのかもしれないが、浩輔はガタリと派手に椅子を鳴らしてよろめいただけだ。歩く前から既に、千鳥足なのが判る。
「しょうがないなあ。じゃあ俺が、まとめて送ってあげよう」
「エディ、頼むわ」
「了解」
「ごちそうさまでしたー」
「はいよ。気をつけてな」
入り口に向かって、雪絵、浩輔、エディ、彼らを見送るべく日夏が最後尾に加わり、一列になっている。なんとも珍妙な行列だ。
「寒……わ、雨降ってる」
「マジで?」
声につられて戸の向こうに目を凝らすと、本当だ、細い雨の筋が見える。
「あの、傘よかったら」
「やだー、ありがと、日夏くん」
「なんだよ、日夏も帰んの?」
「俺は見送りに……」
「見送りなんていいから、銭湯行こうぜ銭湯」
「え?」
「出たー、浩輔さんの裸の付き合い主義」
「ばーか、当たり前だろ。裸で向き合わなきゃわかんないっつうの。ほら行くぞ日夏」
「や……俺、銭湯とかちょっと」
「んだよ、お前ノリ悪ぃな」
「現代っ子だのう。あ、丈さんが睨んでる」
さっさと帰れ、と手で払うと、肩を組んだエディと浩輔がけらけらと笑う。ビニール傘を差した雪絵も笑いながら会釈をし、三人は賑やかに去って行った。
戸を閉めた日夏はたぶん、小さくため息を吐いたのだろう。華奢な背中を眺めて思う。
「――浩輔さん、すごい酔ってましたね」
「馬鹿みたいに弱いんだよ、あいつは」
「ちょっと意外です」
「まったく、安上がりで羨ましいよ。ああ、日夏」
「はい」
「暖簾、下ろしてくれ」
「もうですか?」
「雨も降ってきたしな。今日はこれ以上、客も来ないだろ」
週の真ん中の平日、おまけに雨が降り始めた。河岸を変えて呑み直そうとしていた連中も、自然と家路につくだろう。年中同じような言い訳をしては店じまいをしているが、生憎、これが性に合っているのだから仕方なかった。
早くに帰宅しても、特別やることに変わりはない。
テレビから深夜のニュースを流しつつ、インターネットでもニュースを拾い読みしている。旧友から送られてきた本など、いくつか読みたい物もあるのだが、従軍記者のルポルタージュを読む気にはならない夜でもある。
ひたひたと、かすかな足音を立てて、日夏が近づいてくる。
風呂上がりのソープの匂いとほんのりした湯気を、左側に感じる。隣に座ってからも、日夏はしばらく、何をするでも言うでもなく佇んでいた。
「なんだ?」
「あの……」
「うん」
「丈さんのこと考えてて」
「俺の?何をだ?」
「傭兵だったって、軍にいたって聞いて」
日夏の驚きは、まだ続いていたようだ。
「うん。もう三年……四年前かな」
「軍って、どんなことするんですか?」
なるほど、実に初歩的な質問だ。日夏にとってどれほど実感を伴わないことなのか、よく伝わってくる。もっとも、丈の経歴を知って、嬉々として専門的な話を聞きたがったのはエディくらいだったが。
「どんなことだと思う?」
日夏はずいぶんと考え込んでいた。
やがて、おずおずと目を上げ、おずおずと口を開く。
「……戦争、とか?」
「正解だ」
「なんで?」
次に、間髪入れずに投げかけられた問いには、思わず息を呑んでしまった。一瞬の絶句のあと、得も言われぬ笑いが込み上げる。
「難しいことを訊くんだな」
何故戦争をするのか。訊かれているのはそういうことだ。
急に笑い出した丈を、日夏が当惑げに覗き込んでくる。
「簡単だった時も、あったんだがなあ。正義だったこともあるし、使命だったこともある。だがまあ、今はわからん」
言葉にすると、これほど空虚になるのか、と一層可笑しい。
「おっさんになっても、わかんねーことはあるんだよ」
タオルに包まれた小さな頭を撫でると、日夏はやはり困ったような顔をする。それでもしつこく撫でているうちに、くすぐったそうに目を細めた。
「そういやお前、いつもタオル被ったまんまだな」
「うん」
「とっとと乾かさないと、風邪引くぞ」
「……うん、でも」
タオルの端で鼻の頭を拭い、日夏がぼそりと言う。
「ドライヤーない、でしょ?」
衝撃的な事実だった。
「そういやそうだ。悪かったな」
「ううん」
自分には必要がないので、存在そのものを忘れていた。今風に髪の長い日夏には、決して無用なものではないということだ。もう一度、今度は強く頭を拭いてやると、毛先から水滴が飛び散る。
「崇かエディあたりに、ドライヤー買い替えるように言うか」
「へいき。あの、丈さん」
「なんだ?」
呼びかけられたので、応えただけだ。
よって、日夏の次の行動は、丈が唆したわけではない。
タオルを肩に落とした日夏は、無言でTシャツの裾を引っ張り、脱ぎ始める。腕、腰、首。青白く、くびり折れそうに細い身体が、徐々にむき出しになる。
初めて見るわけではないが、展開の唐突さに驚き、黙って見守っている自分がいる。
「あの俺」
「ああ」
俯いたまま、日夏は丈に背を向ける。
隠す意図ではなく、その逆であると、真っ白な背中の左上に刻まれた模様が語っていた。
「ここに……タトゥーがあって」
「そうだったのか」
肩甲骨の上あたり、煙草のケース半分ほどの面積に、小さな刺青が彫られている。
「馬鹿だったから、こんなの入れちゃって。だから、銭湯とか行けなくて」
「浩輔のことか?」
「うん。せっかく誘ってもらったのに」
刺青を入れた人間は、日本では、いわゆる公衆浴場への入場を禁止されることが多い。
「あいつは何とも思ってねーぞ」
「うん……でも、丈さんには言いたくて」
「そうか」
ごくごく小さな刺青だ。
色々な人種の色々な刺青を見てきたが、中でも一番慎ましい部類だと思う。
ただただ白い背中を蹂躙するように、混じりけのない黒で、一筆書きの文字なのだろうか丸みのある記号が刻まれている。
「何の意味があるんだ?」
「獅子座の……」
言いかけて、日夏が身じろぐ。
断りなく触れたそこは、肌と同じく滑らかで、湯上がりの温もりがあった。
「獅子座のマークなんです。俺の星座が、獅子座だから」
「へえ」
「丈さんは?何座ですか?」
「星座なんてわかるか」
「誕生日は?」
「六月の、十四日」
「双子座ですね」
「ふうん?」
「相性は……ふつうかな」
「相性ねえ」
「うん……」
再び日夏が鳥肌を立てる。今度は悪戯したわけではないから、単なる寒気だろう。
「湯冷めするな。服着て、まあ――とりあえず頭拭いとけ」
「はい」
テレビの中ではいつの間にかニュースが終わり、バラエティ番組が始まっている。
「コーヒー淹れるけど、なんか飲むか?」
「あ、うん。紅茶」
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