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第20話

 十年前の今頃は、コソボとアルバニアの国境辺りにいた。その前の年も、経度と緯度は異なれどコソボの国境にいた。NATO軍の末端の末端に籍を置いていた頃だ。  九年前は、イラク北部にいた。二十一世紀になって初めて誰もが知る大きな戦争の起きた年、それにまつわる任務だった。  駐屯地で迎えるクリスマスが日常になって久しかった。  キリスト教徒にとって、つまり兵士の大半にとって特別な日は、戦場にも平等に訪れていた。面倒を避けるためIDタグに「BUDDHIST」と刻印したものの、念仏の一つ題目の一つも唱えられない、かといって無宗教を断言できるほど固い意志もない無神論者の自分には、宗教的な感慨こそなかったが、束の間訪れる安息的なムード自体は決して不快ではなかった。  生まれてからずっと、クリスマスは丈の元に訪れている。戦場であっても、アジアに浮かぶ小さな島国の小さな内陸の街であっても、それは変わらないらしい。  今年も至る所でクリスマスソングが流れ、近所のスーパーの植え込みにまで電飾がほどこされている。あと一週間もすれば当日なのだ、各商戦はクライマックスといったところだろう。東雲でもクリスマスメニューを出そうかと呟いたら、料理人が思いの外真剣に思案し始めて、冗談を真に受けるというのはこういうことなのだと妙に感心したのが昨夜の出来事だった。  カーテンの向こうの景色が真っ白に飛びそうなほど眩しい、よく晴れてよく冷え込んだ朝だ。ウィンドブレーカーを羽織りながら、もう少し気温が上がってからにしようかなどと考えている。生き方が変わり、考え方もずいぶん変わった。 「……出かけるんですか?」  不意に、背後から声がかかる。  小さく開いた引き戸の隙間から、小さな顔が半分ほど覗いている。物思いにふけりながら身支度をしていたせいで、隣室の気配に気づかなかった。 「ああ、起こしちまったか」 「ううん」  と、答える擦れ声が、寝起きのそれだ。大儀そうに首を傾げた日夏の髪には、指で摘み上げたようにダイナミックな寝癖がついている。 「あの、どこ行くんですか?」  ウィンドブレーカーのファスナーを首元まで上げれば、出発の準備が整う。丈は日夏の姿のほとんどを遮っている引き戸に手をかけ、勢いよく開けた。 「どこってわけじゃねーが」 「あ、うん」  だぶついたスウェットから出る細い手足、上にちょんと乗っかった寝癖頭も人形めいた料理人兼居候が現れる。まだ半分は夢の中といった顔だ。 「少し走ってくる」 「走って……」 「ほんの十キロくらいだ」 「十キロ……」 「適当に流して、一時間くらいで戻る。一緒に行くか?」 「一緒に……」  ぼんやり語尾を復唱していた日夏だったが、ようやく自分が寝ぼけていることに気付いたらしい。 「いい、いいです」  見事な拒絶反応だった。青ざめた顔で必死そうに両手を振る彼に、よもやランニングの趣味はあるまい。それどころか一キロも走れば卒倒しそうだ、寝癖頭の上に手を乗せて揺らすだけで、簡単によろめく。 「あの、丈さん」 「うん?」 「一時間で、戻るんですか?」 「ああ、軽く走るだけだ。ここんとこ何もしてなかったから、体が鈍ってるんだよ。鈍ってるっつうか、太ってきたっつうか。腹回りとかさ」 「信じませんよ」 「笑うけどなあ、おっさんには切実な問題なんだよ」  ふっ、と彼は笑うが。  もう若くない。適正な体力と体型を維持するのも、昔ほど容易ではないということだ。最近は運動も怠け気味であったし、感覚的には最近、腹の辺りがもたつくような気もしていた。少なくとも人から見れば、自意識過剰で済むレベルだというなら幸いではある。 「だいたい、お前にも責任がある」 「あ、すいません」  言われもない誹りを回避する努力を、日夏は少しすべきだ。 「最近、出てくる飯がうまくてね」 「……あ、うん」 「これ以上俺が太ったら、責任取れよ?」  このくだらない揶揄に対して、黙ってはにかむ、という反応が予想できなかったわけでは確かにない。言ってしまったものは撤回できず、丈は一抹の自省の念を抱きながら、意味もなく顎をさすることになった。 「……じゃあ、行ってくる」 「行ってらっしゃい」    見上げた二階の角部屋には、二人分の洗濯物が吊るされている。  そう言えば二人暮らしをしているのだと、時折ふと再発見したような気分になる。洗濯物然り、洗面台の歯ブラシ然り、台所の食器然り、出がけの挨拶然り。どれもここしばらく無縁だったものだ。もっとも、男同士となると風情はあまりない。  軽く膝を屈伸し、丈はアスファルトを蹴った。   「おう」 「ん」  暖簾を上げに出た店先で、崇に会う。いつもの防水パーカーにリュックを背負い、うっそりと丈を一瞥して入っていく。 「浩輔、戻ってるぞ」 「ん。エディから聞いた」 「そうか。一昨日顔出しに来たんだが、またすぐ来るだろ」  崇はやはりうっそりと頷いて、カウンターの隅に腰かける。 「いらっしゃいませ」 「大根ちょうだい」 「はい」  とろ火にかかっていた鍋の蓋が開き、白い湯気が立つ。 「また寒くなってきましたね」 「ん」 「崇さんは、寒いの強いですか?」 「すこぶる弱い。日夏くんも弱そうだね」 「はい。暑いのも弱いです」 「同じく」  小鉢によそった大根に、ゆずの皮の千切りが添えられる。日夏が当たり前の顔で行う、本来の東雲らしからぬこの気の利いた盛り付けも、最近ではむしろ定番化している。 「どうぞ」 「ん、ありがと」 「……おでんの大根って、皮を厚く剥くんですけど」 「ん」 「もったいないから、浅漬けにしたりきんぴらにしたり、できるだけ使うようにしてるんですけど……バリエーションが少ないからどうしても使い切れなくて」 「……浅漬けもきんぴらもうまいよ」 「ありがとうございます。余った皮で切り干し大根を手作りしたらどうかなって思って、ちょっとネットで調べたんです。電子レンジで水分飛ばせばできるかなって思ってたんですけど、天日干しの方法しか載ってなくて。電子レンジだとおいしくないんですかね、風味がなくなっちゃったりとか」 「一回やってみてはどうだろう」 「そうですね」  日夏はにこにこと崇を見ている。さあな、の一言で済ませた丈に比べれば、よほど具体的で意に叶った答えだったのだろう。遠慮がちすぎるきらいのある日夏だが、黙っているのも気が引けるらしく、最初のうちこそ戸惑っていた崇とも今ではぽつりぽつりと話している。  丈もカウンターの中へ回り、日本酒を徳利に注いで燗をとる準備を始める。 「熱燗でいいな?」 「……ビール」 「熱燗にしろ」  つまらない反抗はねじ伏せ、鍋を火にかけた。   「ばんわー」 「なんだ、早いな」 「そうですか?」  ガラリと戸を開けて入ってきたのは、金髪碧眼全身ミリタリー服の男ではなく、ごく普通の暗い色のコートを着てごく普通の黒い鞄を抱えた、穏やかな物腰のサラリーマンだ。時計を見ると、確かに別段いつもより早い来店というわけではない。 「ああ、いつもならエディの方が先だからか」 「ですかね」 「で、相方は?」 「後から来ますよ。一冊だけ新刊ゲットできないとかで、本屋巡ってます」  日夏から受け取ったお絞りを広げながら、朝倉はお決まりの注文を告げる。 「とりあえず、ビールとホッケお願いします」 「ホッケでいいか?」 「え?何でですか?」  ホッケなら必ず冷凍庫に買い置きがあることを知ってかどうか、朝倉は必ずそれを所望するのだが、今日は他にも提供できる魚メニューがある。 「鮭なら、ホイル焼きってのがあるが」 「詳しくお願いします」  詳しく説明するのはもちろん、料理人の役目だ。 「鮭と、玉ねぎとにんじんときのこ類のホイル焼きです。玉ねぎは鮭の下に敷いて、ちょっとオリーブオイルをかけてあります。火が通るとすごく甘くなりますよ。味は甘めの味噌だれで、バターを乗せてあります……焼くだけの状態になってるんで、十分くらいでできますけど」 「ホッケ取り消しで。鮭のホイル焼き、二人分お願いします」 「はいよ」  詳しく聞いた上で、冷凍庫の中で霜まみれになっているホッケを注文する理由はないだろう。丈はジョッキにビールを注ぎながら、内心深く頷いていた。  朝倉は他にも、日夏の薦めで野菜のコンソメ煮を注文した。キャベツ、にんじん、しめじ、それにベーコンを加えて、名前通りコンソメで煮たものだ。限られた食材で、色々と考えるものである。 「そういや、銭湯は行ったのか?」 「ええ。その場のテンションで行ったのはいいんですけど、帰りが死ぬほど寒くて」 「そりゃそうだろ。浩輔は?面倒掛けなかったか?」 「あはは、大丈夫でしたよ。完全に酔っ払った浩輔さんの恋愛相談に、エディが適当にアドバイスしてました」  雪絵からメールアドレスは聞き出したらしいが、その後アプローチできているのか、などと浩輔を肴に一盛り上がりしているうちに、鮭のホイル焼きが出来上がる。  朝倉が感嘆の声を上げつつ熱々のホイル焼きを攻略し始めたタイミングで、エディが現れた。 「ばんわー。なんかバターのいいにおいする!なんだこれー」  つかつかとコンバットブーツを鳴らして、朝倉の隣に腰かける。 「あっちゃん俺の分は?」 「あるよ。こっちも食べる?」 「ありがと。丈さん俺もビール」 「はいよ」  エディは床に置いた鞄をごそごそと漁り、茶色い紙袋を取り出すと、セロテープを剥がして中身を一つずつ出していく。赤やら緑やらの目や髪をしたキャラクターが描かれた、どれもこれもカラフルな表紙の本が合計三冊並ぶ。 「今日の戦利品!」 「ご苦労」 「おい、汚れるぞ」 「あ、だいじょぶ、これ保存用じゃないから」  エディの言葉の意味を理解するとともに疑問が浮かんだが、問い質すのはやめておく。彼が嬉しそうにパラパラとページをめくって朝倉に見せているのは、どうやら小説らしい。 「これだけ一軒目になくてさー」 「何軒回ったの?」 「二軒目でゲットした。てか、確実に売ってるとこまで遠征してきた」 「正解だな」 「発売日にゲットできないとかないでしょ。トレッキング文庫の新刊だよ?ラノベと言えばトレッキング文庫だよ?ラノベ界の雄だよ?全部平置きで並べるくらいが常識じゃない?」 「……ビール、ここに置いとくからな」 「エディ、肘危ない」 「お、ごめん。とりあえずかんぱーい。崇さんもお疲れさまでーす」 「ん」  携帯端末のモニターから顔を上げ、お猪口を掲げてエディに答えた崇が、眼鏡の奥の眠い目を瞬いてぼそりと言う。 「エディ、それ」 「あ、これ?」 「や、そっち」 「崇さんお目が高い。これ、トレッキングの看板作品だよ~。ひなっちゃんにも好評」 「はい、面白いです」  エディがにやにやと手にしたのは、鮮やかな水色の背景に、蛍光黄緑の髪の少女の顔がアップで描かれた表紙だ。「空のコズミックイマジン」タイトルの意味は判らない。 「あ、布教用もあるから、今日貸すよ」 「いいんですか?」 「もちろん。崇さんも読む?」 「いや、言ってくれればあげるのに、と」 「え?もしかして……や、実はちょっとそういうおいしい展開期待してたけど……関係者?」 「てか、書いてる」 「え?どれを?」 「それを」  はっと小さく息を呑んだのは誰だったろう。次の瞬間、 「ええええ?」  エディと朝倉が声を揃えて絶叫した。 「高獅子ののめ先生?」  そのふざけているとしか思えない名前が、作者の名前なのだ。 「先生はやめて」 「いやてか、まじで?」 「ん」 「え、ほんとに?小説家とは聞いてたけど正直俺の興味ないジャンルだと辛いなっていうか、俺ラノベしか読まないから下手に突っ込んだらヤブヘビかなって思って訊かないようにしてたよ、どうしようあっちゃん」 「や、俺も混乱してる。丈さん、本当ですか?」 「あー……たぶんそんな名前だった」 「だめだ、丈さんはだめだ。崇さん、俺らのこと担いでない?オタクは傷つきやすい生き物なんだよ?」  稀に見る真剣な表情である。崇はやはり眠そうな目を瞬いて、エディの手にした本を指差した。 「証拠というほどのことではないが……そのペンネーム、アナグラムだよ」 「高獅子ののめ?」 「ん。アナグラムというか、苗字と名前ひっくり返しただけ」 「たかししののめ」 「たかし、しののめ」 「崇、東雲」 「高獅子、ののめ……」 「なんだ、そうだったのか」  一瞬静まり返った空間に、丈の独り言が響く。  最初に動いたのは日夏だった。 「あの、崇さん」 「ん」 「サインください」 「あ、俺も」 「俺も」  ガタガタッ、と、連続して二脚の椅子が鳴る。  なるほど、少なくともこの場では知名度のある作家だったらしい。にわかに開催されようとしてる崇のサイン会の様子を眺めながら、丈は煙草に火を付けた。

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