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第21話
料理人の彼には尊敬すべき点がいくつもある。料理人でない時の彼には感じ得ない頼もしさは、それがプロの業であるからだろうと思う。
茶碗蒸しが食べたいと、朝の情報番組に影響されたとかで、おもむろに崇が言い出した。丈はもちろん断った。三十過ぎた弟がそんな理由でねだってくるのがまず腹立たしかったし、そのためにわざわざレトルトを買に行くのも面倒だし、そういった感情を抜きにしても茶碗蒸しなどという凝った料理を提供するような店ではなかったはずだ。
しかし、若い料理人は怠慢な店主とは違った。
「日夏くん、茶碗蒸し」
「はい」
客の我儘に事もなげに頷いて、冷蔵庫の扉を開けたのだ。卵、鶏肉、冷凍海老――と材料を的確に揃える動作を眺めながら、この店にあるものだけで茶碗蒸しが作れるということに、単純に驚かされる。
「少し時間かかっちゃうんですけど、干し椎茸使ってもいですか?」
「ん」
「俺、干し椎茸の入ってる茶碗蒸しが好きなんです」
「干し椎茸って、一晩かけて戻すイメージがあるけど」
「やっぱりそれが理想的なんですけど、早くできる方法でやりますね」
「早くできるものなの?」
「時間を優先するなら、レンジでチンとかが早いです。十分くらいで戻せます。風味はかなり、なくなっちゃいますけど」
「じゃあ、今からチンするわけか」
「や、それはほんとに最終手段って感じです。普通に水で、ぎりぎり包丁が通るくらいまで柔らかくして、スライスしてからまた戻せば一時間くらいで使えるようになるんで。そうしようと思ってます」
彼にとって容易い事実に過ぎないことも、丈には奇跡に等しい。どの世界においても、職人というのは頼もしいものだ。手にするのが武器ではなく包丁であり、雄々しさとか貫禄とは無縁のか細い青年が、文字通り手も足も出せずに静観を決め込む自分などよりずっと有意義な存在であるのが、紛うことなき現在の日常なのだった。
「少しでも時間かけて戻したほうが、おいしいんで」
「いいよいいよ、どうせずっといるから」
涼しい顔でうそぶくこの弟が、カウンターの右端を仕事場代わりに使うのもまた日常。
「合間になんか注文しろよ?」
「ん」
生返事を寄越すだけの崇は、既に「仕事」を再開しているらしい。キーボードが、カチャカチャとちゃちな音を立てている。
水道の蛇口を捻りながら伏し目がちに、なんか、と呟いて、日夏が笑った。
「その中に続きが入ってると思うと、どきどきします」
「ん。見る?」
くるりと向けられた、手のひらに納まるほど小さなモノクロの液晶画面には、ぎっしりと文字が打ち込まれている。男子高生と魔法少女が世界の存続を懸けて繰り広げる異世界ファンタジー、とかいうのの、未公開の草稿というやつだ。
「いいです、本が出るまで待ちます」
棚ぼた式の誘惑に、日夏はなびかなかった。直筆サイン本を所有するほどのファンにもなると、そういう決意が生まれるのだろうか。もっとも、作者を前にして気を遣った結果サイン本を手に入れてしまったものの、実際はさほど興味がないだけのことかもしれない。
「出たばっかだから、しばらく出ないよ。ほら」
「わ、いいです」
「ほら」
「やめてください……!」
画面を見せようとする崇と、頑なに拒否する日夏の、謎の攻防を呆れた気分で見ていたのだが。
「何やってんだか……」
「すいません」
思わず漏らした心の声を、深刻に捉えられてしまう。うなだれる仕草から、しゅん、という音が聞こえそうだ。
「丈が悪い」
「なんでだよ」
「あの。でも、兄弟揃って文才あって、すごいです」
「うん?」
「丈さんと崇さん、二人とも」
「俺?ああ」
文才などという言葉に心当たりがなく、ごく事務的な翻訳作業のことに言及されていたのだと、すぐには気付けなかった。
「いや、俺のは単なる産業翻訳だからなぁ」
「でも、すごいです」
持ち上げても何も出ないと言ったところで、彼はおそらく、丈を手放しで褒めることをやめないだろう。
「俺にしてみりゃ、茶わん蒸しなんて作れるお前のほうがよっぽどすごいよ」
「や、そんな、全然」
ざっと洗った干し椎茸をボウルに移した日夏が、照れたのだろう、焦った顔で濡れた手を振るのがおかしかった。
しばらくして浩輔が顔を出し、ということはそろそろあいつも……と噂をすれば、ミリタリージャケットにコンバットブーツの男が現れる。
「ばんはー。浩輔さん何呑んでんの?コーラ?」
「ラム入りのな」
「なるほど。じゃあ、とりあえず俺はねえ」
「エディ、とりあえず残りのコーラ片づけてくれ」
「えー?ラム酒も入れてよね」
「わかってるよ」
缶の中に半分ほど残っていたコーラを、都合よく処理することができそうだ。グラスに氷、レモンの輪切りを入れ、ラム酒とコーラを注げば、カクテル、キューバ・リバーが完成する。
「じゃ、お疲れー、乾杯」
アメリカのコーラと、キューバのラム。それぞれを象徴する飲料を混ぜたカクテルは、百年以上前、米西戦争において実現したスペインからのキューバ独立を祝して作られたと言われている。ちなみに日夏は、キューバの位置も、もちろんその後起きるキューバ革命についてもよく知らないそうだ。チェ・ゲバラの名前にさえ反応が薄く、浩輔の顰蹙を買っていた。
ごくり、と喉を鳴らしてキューバ・リバーを呑み、エディがにやにやと笑う。
「で、雪絵ちゃんとはどうよ。メールした?」
「ん?ああ……」
揶揄に満ちた視線から顔を逸らし、もごもごと言い淀んで頷くのは、先程チェ・ゲバラについて熱く語った男と同一人物だ。
「お。じゃあ、デートとか、もう誘っちゃった感じ?」
「馬鹿。会ったばっかりで、そんな不躾なことできるかよ」
「浩輔さんって、肉食なのか草食なのかわかんないね」
「なんだよ、それ」
「時間なんて関係ないよ?てか、誘ったほうがいいよ?なぜならもうすぐクリスマスなんだよ?日本では、一年で一番デートの口実になる日だよ?それを逃す手はないよ?」
「お……おう……」
早口で捲し立てるエディの権幕に、浩輔は完全に気圧されている。それを見るにつけて、大の男が照れてたじろぐ顔など、基本的には本当に何の得にもならないものだと思う。その意味で、少なくとも揶揄い甲斐があるという点においては、日夏は特殊な例なのだろう。
「ねえ、丈さん?」
「あん?」
「聞いてた?」
聞いてはいたが、考えていたのは別のことだった。
「丈さんだったら、誘わないわけ?」
「まあ、誘うな」
「すぐ誘うでしょ?」
「すぐ……だろうなぁ」
「うんうん、丈さんは期待を裏切らず肉食だよね。浩輔さんは、微妙」
「微妙ってなんだよ微妙って、おい」
惚れっぽいくせに煮え切らないところが、この後輩らしい。クリスマス云々はさておき、見初めた女を誘わない理由などないだろうに。にわかに流行りだした草食だの肉食だのの定義分はよく解らないが、以前にその話題になった時にも、自分は肉食認定を受けている。
「ひなっちゃんは草食?肉食?草食だよね?」
草食だの肉食だのの定義分類はよく解らなくとも、エディの判定には頷ける。小柄でひ弱そうな外見といい、臆病な性格といい、どこか小動物じみていて、およそ捕食動物のそれとは思えない。
「あ~、でもひなっちゃんが肉食だったら萌える~すっごい萌える」
「えと、俺は……」
日夏は口元に拳を当てて、神妙に考え込んでいる。
「草食ってか、意気地がないってゆうか……」
「うんうん」
「はっきりしないってゆうか……」
「うんうん」
曖昧な自己分析はしかし、よく的を射ていた。
「あの、エディさんは?」
「俺?うーん、俺も草食だなあ。だいたい誘われ待ち」
にこっ。と語尾にハートマークをつけて微笑む表情が、受け身の人間のものだろうか。ここが場末の呑み屋などでなく、そこそこ雰囲気の良いバーやレストランであれば、まず成功するだろう。何が、などと野暮なことは言わない。
「気持ち悪いなお前」
「かっこいいです」
「――やだときめいた」
「え?どっちに?」
敬遠するような浩輔の疑問は、意図的に聞き流されたようだった。エディのグラスがもう空くだろうと、最後の一口をなんとなく見守っていると、眼下の日夏が顔を上げた。
「丈さん」
「なんだ?」
「俺ちょっと、買い出し行ってきていいですか?」
「どうした?」
「やっぱり、三つ葉散らしたくて」
茶碗蒸し用の器も既に用意され、着々と準備を進めていたようだったが。味だけでなく、見た目にもこだわるのが料理人なのだ。
「好きにしろ」
日夏は嬉しそうに、こくりと頷いた。ジャケットを羽織り、前髪を留めたピンを外して、くしゃくしゃと髪型を整える。
「ああ、日夏」
「はい」
「ついでに煙草買ってきてくれ」
「はい」
「行ってらっしゃーい」
たぶついたジャケットに着られた後ろ姿が、勝手口から消える。
「茶碗蒸しなんて、久しぶりかも」
「腹には溜まんねえけどな」
「浩輔さんは、その魚肉ソーセージ炒めでも食べてなよ」
「食ってるよ。うまいです、丈さん」
「そりゃどうも」
丈が行ったのはせいぜい、魚肉ソーセージに焦げ目をつけた程度のことだ。
「で、今は何作ってんの?」
「フィッシュ&チップス。エディ、このビール飲んじまってくれ」
「俺は残り物処理係じゃないんですけどぉ」
仕入れすぎたタイビールを消費する方法を考えた挙句、地道ではあるが、衣にビールを入れるフィッシュ&チップスを作ることにした。鱈の切り身とじゃがいもを適当にぶつ切りにし、適当にクレイジーソルトをまぶして、衣をつけて揚げるだけの料理である。冬が旬の鱈は比較的安価に手に入るし、居酒屋メニューらしくて評判もいい。
文句を言いつつも、余ったビールがグラスに注がれるのを抗わない。持つべきものは、協力的な客だった。
十分か十五分か、頃合いになって入口が開いたので、てっきり日夏が戻ったのだと思ったのだ。考えてみれば、勝手口から出たのだから、勝手口から戻るほうが自然だったろうが、とにかく頃合いだったので疑わずに顔を上げた。
「――ああ、いらっしゃい」
一呼吸遅れて、そこに立っているのが別人だと気付く。
見ない顔だ。
「こんばんは」
まだ若い。泣きぼくろのせいか憂い顔に見える、また大した美男だ。黒の短いコートから、すらりと細長い脚が伸びている。目にかかる長さの前髪は、左右で形が違う。何と言うんだったろうか、日夏に教わった――そうだアシンメトリーというやつ。
「お忙しいところすみません。人を探していて」
およそ東雲に来るタイプではない、小洒落たとしか表現できない人物は、印象通り客ではなかった。
「この辺の店を、一軒ずつ当たってるんですけど」
天ぷら鍋の中では、じゅわじゅわとじゃがいもが泡を立てている。
近づいてくるその男を、エディ、浩輔、それから崇も黙って見ている。カウンターの前で立ち止まると、彼はコートのポケットから携帯電話を取り出した。
「弟を探してるんです……この顔、見ませんでしたか?」
前髪の長いツーブロック。すっきり整った目鼻立ちは、光の加減もあってか、一瞬性別を疑うほど中性的に映っている。静止画の中からこちらを見ているのは、ここずいぶん見慣れた、日夏の顔だった。
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