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第22話

「いや、知らないな」  硬く冷ややかな顔に、あからさまな失望の色が浮かんだ。 「そうですか……」 「兄貴なんだって?」 「はい」  「心配だな」  我ながら白々しいせりふだ。頬杖を突いたエディが物言いたげに、さらにその横では腕組みをした浩輔が表情を消して、こちらを見ている。カウンター越しの「待機」のハンドサインは、正確に二人へ伝わったらしい。  男は嘆息とともに携帯電話を引っ込めると、もう口を開くのも億劫といった態度で、無言で頷くだけだった。落胆という結果を得れば、ここに用はないということだろう。踵を返そうとする彼を、引き留める。 「よかったら、だが」  黒コートの肩が揺れて、止まる。 「名前を教えてくれ」  前髪の隙間から覗く、充血気味の目をゆっくりと瞬いてから、彼は答えた。 「ひなつ」 「――それがお前さんの名前か?」 「いえ……こいつの」  再び向けられた携帯電話の画面の中、よく映った日夏の顔が指でなぞられる。確認したかったのはその既知の名前ではなかったが、そういえば免許証の写真もきれいに写っていたし、写真写りの良い顔なのかもしれないと、画面を眺めながら余計なことに考えが及ぶ。 「そうか。他の客にも訊いてみるよ。連絡先は?」 「必要ありません」  返事はにべもなかった。このご時世、個人情報について持ち合わせるべき警戒心という意味ではむしろ適切なレベルだとは思う。 「そう言うがな。お前さんの連絡先も名前もわからんのに、どうすりゃいいんだ」  ただ、人捜しをするのにそれではあまりに不便だろう。苦笑する丈に、目の前の男はごく真面目な口調で言うのだった。 「捜してた、と伝えてくれればじゅうぶんです」  妙な言い様だった。 「伝えりゃいいのか」 「ええ」 「わかった」  古い歌謡曲でもあるまいし、なんともシュールな会話ではないか。ここは波止場のバーなどではなく、自分は馴染みのマスターでもない。丈の内心などもちろん知ったことではないだろう、会釈をひとつ残して、奇妙な訪問者は去っていった。    ぱちぱちと、油の跳ねる音がしている。 「――少し焦げたな」  天ぷら鍋の中で、すっかり揚がった芋が、香ばしいを通り越して焦げた匂いを立ちのぼらせていた。  エディがパクパクと口を開閉させているのに、「待機」のサインが依然有効であると気づく。戦場以外でもハンドサインが有効な場面があるのだと、こんなことで知ることになるとは思わなかった。解除の合図を送ると、エディは浩輔の肩を掴み、激しく揺さぶり始めた。 「新キャラだ!新キャラが出たよ!」 「近けーよ、聞こえてるっての」 「ひなっちゃんだったよね?どう見てもあれひなっちゃんだったよね?俺の見間違いじゃないよね?」 「ああ」 「じゃあ、なんでとぼけたりしたのさ」 「うるせーな、俺は丈さんに従っただけだ」 「それは俺もだけど」  この二人がミリタリーマニアと現役軍人でなければ、サインは通じなかっただろう。好奇心に満ちた碧眼と、落ち着き払った三白眼を同時に向けられ、丈は揚がった芋にクレイジーソルトを振る手を止めた。 「聞かせてよね、丈さん」 「何をだよ」 「まだとぼける。だってあの写メ、ひなっちゃんだったでしょ?」 「まあ、そうだろうな」 「どいいうつもり?ここらへん一軒ずつ捜してるって言ってたじゃん。あのイケメン、なんか訳アリっぽくない?」 「――てか、訳アリっぽいからじゃねーの?」 「浩輔さんそこ詳しく」 「おい、もう揺すんな、こいつ吐くぞ」  なおもエディに肩を揺さぶられていた浩輔が、辟易した顔で口を開きかけ、やめる。  勝手口が開いたのだ。  頬を真っ赤にしながらスーパーの小さなビニール袋を掲げて、開口一番、日夏は済まなそうに言った。 「すいません、三つ葉だけじゃなくて、銀杏も買っちゃいました」 「問題ない。必要経費だ」  ほっとしたように笑って置いたビニール袋の中からは、三つ葉が一束、銀杏の缶詰が一つ、そして丈の愛飲する煙草が一つ出てくる。経費に入らないのは煙草だけだ。 「ひなっちゃん!」  日夏が上着を脱ぎ終わるまで待たず、エディが食って掛かる。 「あ、はい?」 「外で誰かに会わなかった?」 「いえ、誰にも」  入口と勝手口では、面している路地も違う。日夏の平和な様子を見れば、おそらく入れ違いだったのだろう。確信というほどではなかったが、日夏があの男と会っていたら、もっと状況に変化があったはずだ。何故なら浩輔が言うように、あの男はいかにも訳ありだったし、日夏もまたじゅうぶん訳ありな人間だからだ。 「ついさっき、お兄ちゃんが捜しに来たんだよ?」  穏やかな微笑が消える。  しばしエディを見つめ、やがてこちらを見上げた日夏は、戸惑った顔をしていた。 「そこそこ背の高い、いい男だったな。ここに、ほくろがあった」 「全然似てなかったよねー。東雲兄弟ほどじゃないけど」 「ほっとけ」  目尻を指で示しながら、やはり杞憂ではなかったのだなと思う。日夏の顔は、どんどん蒼白になっていた。 「名前も連絡先も言わなかった。お前に、捜してたって伝えりゃわかる、とさ」  腕の中で折りたたんだ上着が、縋るようにぎゅっと握られる。 「そう、ですか」 「ちょー捜してる感じだったよ?兄弟に確執あるパターン?連絡くらいしてあげなよ」 「そういや日夏って、携帯持ってんの?」 「何言ってんの、浩輔さん」 「いや、持ってんの見たことねーからさ」 「――あれ?俺も」  パチン、と指を鳴らし、エディが浩輔を見て、浩輔は丈を見る。視線のバトンを受け取りながら、丈は肩を竦めるしかなかった。今この瞬間まで、気にしたこともなかったのだ。  日夏は俯いて、小さく首を振った。 「失くしちゃって……」 「そっかぁ。や、今まで全然気づかなかったんだけどね?丈さんも持ってないし」  携帯電話という必須ツールを持たないことで普段から謗られることは多かったが、見知った連中相手では忘れがちだし、そもそもそれがいかに異常であるか、どうも自覚がない。日夏が財布以外持たずに転がっていたことに、別段疑問を抱いたことはなかった。  察したらしい、エディが丈を倣うように、肩を竦めた。 「じゃあ、俺の使う?てか、番号とかわかる?丈さんってば、番号も訊かずに追い返しちゃうからさ」  追及を諦めてはいなかったのか。  クレイジーソルトをたっぷり振ったフィッシュ&チップスをカウンターに出しながら、丈は簡潔に理由を告げた。 「一人っ子だって聞いてたからな」 「え?」  前に、何かの拍子に兄弟の話になったことがあった。  その時に日夏は、兄弟などは想像できないと、一人っ子であると言っていたはずだ。  それぞれの発言に齟齬があると、まあ、引っかかったのはそのことだった。 「兄貴がいたのか?」 「うん……」  そんなふうに項垂れる必要はない。今は、多少、自責の念のようなものを感じてもいる。彼を守る気にでもなっていたのだろうか、大の男と呼ぶにはあまりに頼りない印象ではあるが、彼自身の問題を自分の個人的な感情で裁量した――丈のとった行動はただそれだけのことに過ぎないのだから。 「日夏」 「それってさ」  丈の言葉をエディが遮り、 「――丈」  さらにそれを、終始押し黙っていた崇が遮る。カウンターの隅で、崇は静かに立ち上がっていた。 「今はそんな場合じゃない」 「どうした?」 「茶碗蒸し早く」    作りたての茶わん蒸しというものを、味わって食べたことはなかったと思う。  今まで食べてきた市販の安い茶碗蒸しとは違い、柔らかく、すくうたびに出汁が染み出る。鶏肉、海老、干し椎茸、銀杏、そして三つ葉まで散らした、具だくさんで彩のある茶碗蒸しだった。もちろんうまい。  念願が叶い、さぞ幸せだろう。崇は黙々とスプーンを運んでいる。他の二人もだ。価格設定を倍にしてもいいかもしれない。 「丈さん」 「なんだ?」  華奢な肩を、それ以上縮めるものではない。煙草を吹かしながら、もうずいぶんこうやって、縮こまった日夏を見下ろしている。 「嘘ついて、すいません」 「そんなことか」 「でも」 「言いたくないことはあるだろ、誰にだって」  気にすることはないと、小さな頭に手を置く以外に、行動で伝える方法がさしあたって思いつかない。ぽんぽん、と二度撫でると、日夏はゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐き出した。 「うん……」

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