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第23話
「Merry Christmas!」
コール音が終わった途端、陽気な挨拶が響く。両耳の鼓膜を痺れさせるような大声に苦笑しながら、時候の挨拶を返す。
「Merry Christmas、そっちは雪か?」
クリスマスの挨拶が当日限定ではなく、十二月に入ればもう気軽に交わされるものだと知った十数年前、地味にカルチャーショックを受けたものだ。ヘッドセットをずらし、スピーカーのボリュームを下げるこちらの都合など知る由もなく、相手はやはり大声で笑った。
「雪なんてもんじゃないさ。どこを見ても真っ白で、気が変になるね」
通話の相手は現在、故郷であるカナダ山間の町に居るはずだが、国は異なれど暖かい部屋でのんびりとパソコンに向かっているのは同じだろう。ウェブカメラはお互いにオフで見えなくとも、「普通」とはそういうものだと知っている。休日の夜だというのに、パソコン越しに会話するのが同年代のしかもむくつけき男というのはあまりに華がないとはいえ。
「日本は温暖なんだろ?」
「地域によっては、そっちと大して変わらん。ここいらは降ってないがな。しかし、砂漠と雪国を行ったり来たりで、お前も落ち着かないな」
「いつものことさ。ジョーはすっかり落ち着いたんだな」
「まあな」
海外の知人の大半は、傭兵時代からの付き合いだ。自分のように既に引退した者もいれば、浩輔のような現役者もいるし、彼のように引退してもなお世界中を飛び回る者もいる。今はルポライターを生業とする彼からは、今月早々にいくつか出版物を送ってもらっていた。オンラインではあるが、年内に直接礼を言える機会ができてよかった。
「落ち着くってのはまあ、良いことだよな」
「ふん、本当にそう思ってんのか」
「……まあ、思うよ、最近は。この間、昔の仲間が死んでね」
「そうか。戦闘か?テロか?」
「テロだ。そういうのを聞くと、特にな」
「ああ、そうだな……」
「いや、ジョーがそれを嫌って引退したなんて、もちろん思ってないさ」
「わかってる。お前の仲間は、気の毒だったな」
「ああ、ありがとう」
日本に生まれ、好き好んで兵士になった自分だ。死ぬのが怖くなったとか、そういう人間的な理由で傭兵を辞めたわけではなかったが、誰かの訃報を聞くたびによぎる喪失感は、自分自身に抱くそれに少し似ている。
「それよりジョー」
明るい声が、暗くなりかけていた話題を変える。
「クリスマスはどこで過ごすんだ?」
「どこって、俺の店だよ」
「なんだよ仕事か、シケてるな」
「日本じゃクリスマスから年末にかけて、居酒屋の書き入れ時なんだよ」
「本当に、すっかり落ち着いちまったな」
その揶揄にどう反論してやろうかと考えていると、ふと、気配を感じる。襖の向こう、隣の部屋だ。日夏が眠れずにいることには気付いていた。とうとうじっとしているのをやめたのだろう。のそりとした軽い足跡が部屋を突っ切り、隣の引き戸から廊下に出たのが判る。
足音はトイレの方ではなく、こちら側、台所へと近づいて行き、それから――
「ちょっと待ってくれ」
パソコンの向こうへ言い置いて、ヘッドセットを外す。
背後へ腕を伸ばし、戸を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。電気も付けずに玄関に立ち、ドアに張り付つく黒い影。ドアスコープを覗いているのかもしれない。
「出掛けるのか?」
声をかけると、びくりと動く。
「すいません」
「いや。出かけるのか?」
「ううん、出かけない」
暗がりの中で、日夏は激しく首を横に振った。
「出かけないよ」
もう一度強く否定する声が、台所に響く。珍しくきっぱりとしていて、妙に切羽詰って聞こえる。
「そうか」
煙草を頼もうという当てが外れたのは確かだが、日夏の必死な様子はまさかそれに対する罪悪感からではないだろう。いや、監視者でもあるまいし、追及はやめよう。再びパソコンに向き直る丈の背後で、チャリ、と冷たい金属音がする。昨夜の帰宅後から、ドアチェーンが掛けられるようになったことにはもちろん気付いていた。ドアから離れた拍子にでも、それが揺れたのだろう。
ヘッドセットを付けて、マイクの位置を適当に直す。
「待たせたな」
「いや。誰かいるのか?」
「ああ、最近拾ってね」
「拾った?子犬か?」
「似たようなもんだが、人間だ」
「そりゃまた……お前さんらしいな」
やはり苦笑交じりに揶揄され、同じように苦笑を返すしかなかった。
気配が近づいてくる。戸を開けっ放しにしておいたのは誘導というやつだ、素直に入って来た日夏を振り返り、見上げる。
「眠れないのか」
小さな肩が、さらに縮まる。崇のお下がりのフリースパーカーの裾を掴み、日夏はか細く呟いた。
「……うん」
「まあ、今日は休みだ。明日もな」
「……うん」
耳の奥から丈を呼ぶ声がする。キーボードを打ち「hold on」とだけメッセージを送信すると、「OK」とだけ返ってくる。
「お前も入るか?」
「でも」
「嫌なら別にいいが、気は遣うな」
今日、重い腰を上げて出した炬燵だ。春先までずるずると片付けずに置いてあった気がするのに、すぐまた必要になるのだから、中年にとって季節の巡りとは早いものである。
迷っていたのか、なお遠慮していたのか、日夏はしばらく炬燵の前で立ちすくんでいたが、やがてもぞもぞとはす向かいに座った。
「あったかいですね」
目を細めて言う日夏の、小さな頭に手を置く。二度ほど軽く叩くと、布団を肩まで引き上げ、僅かにだがはにかんだ顔をしたように見えた。
夜明けの訪れと共に、それは始まった。
隣の戸が開く音で目が覚める。日夏が結局寝付けずにいたことは、ぼんやりと感じていた。しばらくすると水音が聞こえ、やがてトン……トン……と静かにまな板が鳴る。それが止むとコンロに火が付き、ジューッという熱い音と同時に芳香が漂い始める。バターと肉、それからおそらく玉ねぎの匂いだ。胃に直接訴えてくる。五分ほど経ったろうか、ジュワっという一際良い音と共に、ワインの匂いが立ち込める。呑みかけのまま余ったボジョレーを一本、持ち帰っていた。料理に使っても構わないと言っておいたから、それを使っているのだろう。煙いほどのワインの匂いを嗅ぎながら、丈は再び眠りについた。
次に目覚めるともう夜はすっかり明け、カーテン越しの外は良く晴れていた。台所では、ぐつぐつと白い湯気を立てる鍋の前で、日夏がひっそりと読書をしている。日当たりの悪い台所は青白く、寒々しく、どこか静謐な儀式の一場面のような佇まいだ。一脚ずつ揃えたダイニングテーブルと椅子は普段使うこともなく、もっぱら物置だったが、日夏が来てからは折に触れて正しい使用方法を思い出させられる。
じっと小説に目を落としていた日夏が、はらり、と涙を落とす。
「おい」
思わず声をかけると、彼ははっと顔を上げ、
「おはようございます」
慌てて目元を拭った。
「ちょっと、感動しちゃって」
「それにか?」
「これ、泣けるんですよ」
白い手が撫でた表紙は、その奇抜な人物デザインにむしろ見慣れた感もある、エディ推薦のライトノベルの一冊だ。
「そういうもんか」
「はい。あの、ご飯にしませんか?」
――鍋の中では、牛の塊肉の赤ワイン煮が出来上がっていた。
大きくぶつ切りにされた牛肉と玉ねぎが、脂の染み出た飴色のソースと一緒に皿によそわれる。
「朝から豪勢だな」
「クリスマスのメニュー、こういうのはどうかなって」
呑み残しのボジョレーと、半額のオーストラリア産牛肉が(せめて30%オフを選べと言ったのだが、日夏が頑として遠慮したのが印象に残っている)、まるでレストランのメインディッシュのような姿に変貌を遂げているではないか。
「こりゃ、うちじゃ釣り合わねーかもな」
「すいません」
「褒めてるんだよ」
「……すいません」
はにかむ日夏の頬に、いつものような血色がない。丈は皿を受け取りながら、さりげなく水を向けた。
「嫌なことがあると、煮込むって言ってたな」
日夏が息を止める。必要のないことを言ったかもしれない。
「思い出しただけだ。深い意味はない」
居間の戸を脚で大きく開け、皿を運ぶ。
「丈さん」
呼ぶというより、鋭く叫ぶような声だった。
「なんだ?」
「嘘ついてて、すいませんでした」
「もう聞いたよ」
手を伸ばして二つ目の皿を受け取り、炬燵の上に置く。
「嘘ついて、まだ、ここにいて……」
振り返ると、日夏は敷居の前で俯いて立っていた。
「どういう意味だ?」
「だって俺、ほんとは、その、帰る所……みたいなのがあるっていうか」
なるほど確かに彼はもう、まるきり身元不明の謎の料理人ではなくなっていた。兄と名乗る男がおり、彼のことを捜してもいる。
「帰るのか?」
「あの、俺」
「いやまあ、そのことなんだが」
丈は無精ひげを撫でつつ、日夏の言葉を遮った。
「俺の勘違いだったらまあ、あれだが」
あくまで予想ではあるが。彼が危惧しているだろういくつかのこと対して、どうやら自分は解決策を提示できるらしい。
「うちに、お前みたいな腕の良い料理人が必要なことに変わりはない」
日夏が顔を上げる。
「これからも働いてもらえるなら助かる」
人形めいた、透き通った瞳が揺れる。
「居候も構わん」
青白い頬に少し、赤味がさす。
「俺……帰りたくない」
声は震えていた。
「構わねーよ。ここにいたいなら、いろ」
自分は監視者ではないし、保護者でも家族でもなかったが。彼の雇い主であり、家主である。
うん、と、大きく頷いた時、日夏はまた涙を落としたようだった。
「それと、そういうせりふと涙は、他にとっとけ。女だったら口説いてたぞ」
「丈さんって……女の人、好きなんですね」
鼻声でごく真面目に言われて、思わず笑ってしまう。そんなことをまじまじと告げられるなど、滅多にない経験だった。
「まあ、おっさんだからな」
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