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第29話

 乾いた風に乗って、雑音混じりのラジオの音がする。流れているのは聞き間違いようのない、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」だ。アメリカ本土では放送禁止歌――いや正確には放送局による自粛か、になったのではなかったか。ぼんやりと考えていると、片膝にかかる重みに気付く。ぐったりとした人間の頭だ。慌てて口元に手をかざすと、まだ息がある。おかしい、ここはどこだ?キャンプではなかったのか?辺りを見回すが、砂塵がひどく、視界は黄色くくもるだけだ。ラジオの音はもう聞こえない。 (おい、しっかりしろ)  頬を叩くが、反応はない。  悪くなる一方の視界では、今抱えているのが誰なのかもわからなかったが、最期に立ち会うのがこの自分では、お互いあまりにもやりきれないだろう。ライフルを背負い直し、もう一度辺りを見回そうと顔を上げた時。ひやりと首筋に冷たい感触があった。    突然の覚醒に、ひどく怯えたように息を呑んだのは自分ではなかった。  夢から覚めるとともに、きつく握ったものの正体に思い至る。  ほっそりとした、冷たい手。 「悪い――痛かったろ」  力を抜くと、今度はほっとしたように息を吐いて、日夏が首を振った。 「起こしちゃってすいません」  かすむ視界いっぱいに、済まなそうな、そして気遣うような面差しがある。 「いや、起こしてくれて助かったよ」  丈は言いながら、強張った眉間を揉んだ。  今は2001年の晩秋ではなく、ここはアフガニスタンの戦線でもない。あれから十年近く経った、日本の小さな都市の、安アパートの中だ。赤く跡の残ってしまった手をもう片方の手で隠すように覆っている青年の存在こそが、なによりもそれを証明している。 「洗濯してくれてたのか?」  驚くほど日夏の手が冷たかった理由を問うと、勤勉な居候は小さく首肯して笑う。 「外、すごく寒いですよ。天気予報見たら、もしかしたら今年中に雪も降るかもって」 「ここに来てまた、一段と寒くなったもんなあ」  テレビを見やる日夏につられて、丈も首を巡らせる。今はCMが映っているが、夢で聞いた歌は、もしかしたら点けっぱなしのテレビから流れていたものだったのかもしれない。 「悪かったな」  この部屋で他に話しかける相手はいないのだが。不思議そうに首を傾げるので、慎重に日夏の手を取る。 「跡がついちまった」  すぐに消えるだろうが、白く細い手に残った蹂躙の跡には罪悪感を覚えずにいられない。日夏はやはり首を振って、丈の手の中でその手を翻した。 「平気です」 「そうか」  炬燵でうたた寝などという怠惰と贅沢の極みと、その真逆の悪夢のせいで、うっすら汗ばんでいるのが自分でも判る。口の中も乾き、まるで砂を吸い込んだようにざらついている。ほんの少しのブランデーで酔いつぶれた日夏を布団に移動し、その後もちびちびと一人ブランデーを呑んでいた。しばらく預かっていた小さな頭の重みの余韻が、現実とは違い穏やかさの欠片もない感覚となって夢に出てくるなんて皮肉なものだ。深酒をしたわけでもないのに二日酔いに似た頭痛を感じ、また眉間を揉みながら、丈は炬燵を出た。  窓の外は明るく、青く透き通っている。クリスマス・イブにはふさわしい、晴れやかな空だ。  シャワーを浴び、無精ひげとは言え手入れしないわけにもいけない首筋あたりの見苦しい部分を適当に剃り落とす。風呂場から出ると、心得たように日夏がコーヒーを淹れていた。 「丈さんは、毎年クリスマスってします?」  差し出されたマグカップを受け取りながら、クリスマスする、という奇妙な言い回しに笑わされる。 「見ての通り、無縁だな」  手を広げてみせたこの部屋はもちろん、店にもクリスマスツリーの一つも飾っておらず、クリスマスとはおよそ無縁の生活だ。熱いブラックコーヒーを啜り、眼下の日夏に問いかける。 「日夏は仏教徒か?」 「……おじいちゃんとおばあちゃんのお墓がお寺にあるから、たぶん」 「俺もその程度だ。兵士が身に着けるドック・タグには、名前や生年月日なんかの他に、宗教を刻む必要があったから、俺も形式的には仏教徒ってことになっていたが。正直その実感はないな。周りはほとんどクリスチャンでさ、クリスマスってのは傍からなんとなく眺めるもんだった――今でもな」  とは言え、クリスマスに正月、バレンタインに盆と節操のないこの国で、信仰云々を持ち出すのがそもそもナンセンスだ。自分は単純に、あらゆるイベントに無頓着なだけだろう。 「お前は?クリスマス、するのか?」  日夏に倣った言い回しで訊くと、彼はくすぐったそうに首をすくめた。 「働くようになってからは、自分には関係ないイベントって感じだけど。子供の頃はそれなりに楽しみでしたよ、プレゼントももらえたし」 「子供の頃か……そういや、そんなこともあったな」 「丈さんにも?」 「俺を何だと思ってんだよ」 「ちょっと意外で……じゃあ、崇さんももらってたんですね、プレゼント」 「ああ、思い出した。俺のもらったやつを欲しがって、駄々こねたりしたな、あいつ」 「崇さんが?」 「あいつが三歳とかそこいらの頃だがな。その頃はまだ普通の子供だった」  どんな玩具だったかとか、細かいことは憶えていない。ただ、幼い頃の崇は、今では考えられないが――今でもそうだったら気色悪いが――丈にべったりで、とにかく兄の後ろをついてまわる子供だったのだ。その玩具にしても、正確には丈の物を欲しがったというより、丈と同じ物でなかったのが気に入らなくて泣いたのではなかったか。  ふふふっと堪えきれない様子で笑いながら思い出話を聞いていた日夏は、やがて笑みを引っ込めると、遠慮がちに丈を見上げる。 「あの、ちょっとだけ聞いてもいいですか?」 「ん?」 「丈さんのこと。その、どうやって」 「傭兵になったかって?」  こくり、とやはり遠慮がちに頷く。  丈は顎を撫でながら、苦笑して言った。 「別段ドラマチックな話じゃないさ。うちはまあ、どこにでもある普通の家庭だったし、不仲でもなんでもなかったんだが、俺はとにかく早く身を立てたくてね。手っ取り早く自衛官の道に進んだんだが、なんだかんだで海外に出て、紛争地域で働くようになって、気付けば兵士になってた」 「なんだかんだで……」  おうむ返しに呟いてから、言葉を探すように口ごもるので、丈の苦笑も深くなる。 「隠すようなことじゃないんだが、敢えて言うようなことでもないんだよ。まあ、これでも色々迷いがあってな、自分探しの果てにたどり着いた、とでも言うのかねえ」  中学を卒業し、陸上自衛隊高等工科学校――通称高工校に入校した。学費はかからない、寄宿舎もあるし、公務員の身分なので給料も出る。卒業後の進路も保障されたようなもので、将来の食い扶持には困らない。列挙すれば良いことづくめのようではあるが、実際には簡単なものではなかった、というより十代半ばの子供にとって過酷ですらあったが、自衛官の任務に就くことは疑っていなかった。三年次に大学推薦の話が出て、迷った結果それを受けて進学したことにより先延ばしにはなったが、いわゆる出世コースでもあったので、つつがなく卒業すればそこそこの地位からスタートできたろう。現実にはつつがなく卒業するどころかドロップアウトし、未来を探すためだったのか過去を捨てたかっただけなのか今もって答えのない理由で日本を出て、「なんだかんだで」今に至る。 「そして今や、居酒屋のおっさんだ」  詳細を一切省いて乱暴に総括した丈を、日夏は控えめに目を瞬くだけで追及するようなことはしなかった。 「よかった」  代わりにぽつりと言って、また控えめに微笑む。 「うん?」 「おかげで、働かせてもらえてるから」 「そうだな」  おべっかでないと判るからこそ性質が悪い。丈は思わず緩んだ口元にマグカップの縁を当て、コーヒーを啜った。 「そういえば、輸入物の酒は今でこそうちの売りみたいなもんだが、元々は崇に言われて始めたんだぜ」 「崇さんに?」 「俺が海外で呑んでた酒が、呑んでみたいって」 「へえ……」  感嘆するように目を見開いたきり言葉を失ったような日夏に、少し首を傾げる。 「なんだ?」 「ううん……いいなって思って」 「何が」 「崇さんがうらやましいなあって。優しいですね、丈さん」  身に覚えのないところでかけられることの多かった言葉だが。これに関しては確かに、素直に享受する資格があるかもしれない。 「そうか、あいつのせいで個人輸入なんて面倒なことに手ぇ出す羽目になったわけか」  日夏はただ、くすくすと笑うだけだった。    ――そして二十五日、夕方。  呑み処東雲の入口には、「本日貸切」の張り紙をした。店主判断による事前の危機回避というやつだ。どのみち貸切状態になるのなら、いっそのこと最初から貸切にしてしまったほうが気が楽というもの。書道の有段者であるという日夏の筆による張り紙は、ゴールデン街のぱっとしない居酒屋を小粋な割烹料理店のように見せてくれるような気がする。揶揄する意図がなかったわけではないが心からそう言うと、予想通りというべきか、日夏はしきりに恥ずかしがっていた。  定刻の六時を少し過ぎた頃、最初に現れたのは崇だった。 「貸切なの?」 「面倒だからな」  眼鏡の奥の目を瞬いただけでそれ以上何も言わず、いつものリュックを下ろし、いつもの防水パーカーを脱ぎ始める。一瞬目を疑ったのは、その下に着ていたTシャツに「Merry Christmas!」と大きくプリントされていたことだ。 「……買ったのか?」 「ん」 「どんな気分だ?」 「何事も最初の一歩を踏み出せばいける、という気分」  堪えきれなかったのだろう、横で日夏が吹き出した。 「ばんはー」 「こんばんは」  次に現れたのが、エディと朝倉。エディは相変わらずのミリタリー・ファッションだが、コートを脱ぐと珍しくネクタイを締めている。いつも好んで着ている戦闘服や作業服と違い、今日はスーツ姿だ。 「エディさん……ネクタイ、かっこいいです」  確かに、毎度のことながら見た目だけならモデルはだしの美男っぷりではある。ネクタイの結び目を整えながら、エディは満面に笑みを浮かべた。 「ありがと~。ひなっちゃんにそう言ってもらうためだけに着てきた!」 「ひなっちゃん、俺は?」  朝倉はといえば、学生のようなダッフルコートの下は、灰色に近い紺のセーターと白シャツのノータイで、やはり私服だと「良いとこのお坊ちゃん」に見える。 「朝倉さんもかっこいいです」 「取ってつけたようなお褒めの言葉ありがとう」 「や、そんなつもりじゃ」 「あはは、ごめんごめん、気を遣わせちゃったね。と、ここまでが一連のネタです」 「さーて。オチがついたところで座ろっか」  二人がかりで日夏を揶揄いながら、席に着く。  それからさらに数分遅れて、最後の一組が現れた。 「遅れてすみません」  よく通る明るい声とともに、まず雪絵が顔を出す。 「すっごく道が混んでて」  見慣れた仕事帰りの小奇麗な装いとも、以前休日にやって来た時のようなカジュアルな印象とも違う。全体的に華やかで、いつにも増して女性らしい。 「ね」  雪絵が同意を求めて振り返った先には、こちらは大して変わり映えのしない恰好の浩輔が、両手に大きな紙袋を提げて立っている。 「余裕見て戻ってきたつもりだったんですけど」  照れくさいのか気まずいのか苦笑気味に言って暖簾をくぐる、こと女あしらいに関して不肖の後輩は、運転手兼荷物持ちの役目くらいは果たせたのだろうか。 「せっかくのデートだったんだろ?なにも戻って来なくてもよかったのに」  呆れる丈に、雪絵が朗らかに笑う。 「やだあ、私達も楽しみにしてたんですから」  浩輔はまんざらでもなさそうに頷くだけだ。なるほど意外に似合いの二人かもしれない。  全員がカウンターの定位置に着き、満場一致のとりあえずビールが行き渡るのを待って、 「よし、いくよ?」  エディが陽気な声を上げる。 「メリークリスマス!」

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