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第1話 ままなりません。
人生はままならない。
ずっと働きたかったウエディングをメイン市場としている靴メーカーに勤めて丸一年。一年前に胸に掲げた理想は、ウエディング衣装の現場で、靴のデザイン性と需要と供給の生の声を聞き、学び、充実ある毎日からのステップアップ……だったけど。実際には仕事に忙殺されるっていう毎日で、理想からはとても程遠い現実があったり。
「無理! マジで! やばいっ」
スマホのアラームを寝ぼけながら止めてしまったらしく、朝、飛び起きた時間にちょっと現実逃避したいけど、できるわけもなく。カッコイイアパレルメーカー勤務とは全然違う、寝癖バリバリの自分が階段駆け上って、横っ腹が痛くなってたり。
「やばいっ、やばいやばい、無理っ」
それでもなんとか頑張って、どうにかいつもの電車の次のに乗ることができたと思ったら、いつの間にかやって来ていた台風の影響で電車は十五分遅れていたり。
ぎゅうぎゅう箱詰め状態の電車の中で、もう足浮いちゃうんじゃないかってくらい押されて揉まれて潰されかけて、芋洗状態で改札を出てからマジダッシュの間に昨日新調したばかりの靴で思いっきり靴擦れして、けっこう地味にいたかったり。
「昨日の仕事、残してきちゃったんだって!」
その痛い足でも、とにかく遅刻は勘弁してと、走って、走って、そんで――。
「やばあ、あ、あああああああっ!」
新品の履きなれない靴、あと、めっちゃ痛い靴擦れ。そして、足元には台風の影響でびしょ濡れの枯葉。
「んぎゃああああああ、んぶっ」
ほら、人生は、やっぱりままならない。そして、かっこつかない。
色々重なった末、駅前、人通りもまぁまぁあるホテルの裏口で、思いっきり、濡れた枯葉に足を捉えた俺。
滑って、ものすごい勢いで激突したのは、ホント申し訳ないことに人様の背中で。
「すっ、すみまっ」
これが漫画なら転びかけたところで体当たりしてしまった相手はイケメンで、王子様のようで、衝撃の出会い、一瞬で落ちた恋――だったんだろう。
でも、ほら、これはリアルだから。もちろん、少女漫画のような劇的展開には至らず。
「おい、いてぇな……」
そもそも、出だし、おっちょこちょいな主人公が、まず可愛い女子高校生じゃないし。理想と現実の違いと、仕事にヒーヒーしている入社二年目に突入した独身男性、二十三歳で。体当たりした相手は。
「ごめんなさっ」
背、高い。俺がチビっこいっていうのもあるけど、でも、頭ひとつ分見上げる長身に、後ろへ撫でつけたオールバック。イケメンはイケメンだけれど、そんな顔の作りよりも、目の鋭さと眉間の皺で泣く子も黙るような感じのお方で。女子を一瞬でとろけさせるようなイケメンからは程遠く。しかも、いてぇとすごまれた。
「……」
そんな怖い顔のイケメンがぽかんと口を開けた。
あの……も、もしかして、ヤの付く職業の方とか? どう見たって、サラリーマンじゃない。一応、これでもアパレル勤務なので、靴だけどさ、ファッション関係には従事してるんで、この目の前の、強面さんが着ているスーツがとっても高級なのくらいはわかる。いや、普通のアパレル勤務じゃなくてもわかりそうなくらい、カッコイイスーツだけどさ。
「……おい」
「へ?」
「お前、佐藤環(さとうたまき)だな」
「ひょえっ!」
え、なんで、俺の名前を知ってるんですか? こんな強面イケメン、知り合いにはいないんですけれど。
「佐藤、環、だな?」
「はっ、はい!」
返事しちゃったけど。。これ、返事しちゃってもいいんだろうか。ヤの人? 俺、さらわれます? でも、俺の給料全然安いんですけど。それにうちの実家も、言いにくいのですが、あまり裕福ではなく、一般的な、ホント、一般家庭なんですけれど。そんな多額の身代金とか払えないので。逆に貴方のほうがよっぽどお金持ちに見えますけども。
「鼻血、出てるぞ」
「……へ?」
その強面イケメンさんが鼻の下を指でなぞった。そして操られるように、俺も自分の鼻の下をなぞって、そして、ぬるっとしたことにびっくりして。
「うわああああ!」
指についた真っ赤な血に思わず叫んだ。鼻血? え? いつから? まさか、満員電車でのぼせた? もしそうなら、俺ってずっと鼻血垂らしたまんま走ってたのか?
「とりあえず、お前に話がある」
「へ? え? あのっ、って、あの!」
鼻血はのぼせたとかじゃなかった。っていうか、今激突したせいで、鼻を強打した拍子に出たらしい。あの、強面イケメンの背中、歩き出そうとしたその人の背中に、あろうことか、真っ赤な俺の、鼻血が。
「あぁ、気にしなくていい」
気にするでしょ。気にしないわけなくない? でも、その人は怖い顔のまま、俺の鼻血が背中のあたりについてしまっている高級スーツのジャケットを脱いで、先を歩こうとする。その時だった。建物の中から、中年の男性が現れて、強面イケメンを出入り口のところで見つけた。
「武藤(むとう)様!」
武藤ってこの人のこと? 男性は慌てた様子で、ずっとこの人を探してたのかもしれない。息を切らしてる。
「武藤様! こんなところに。エリアマネージャーと今、一生懸命探してしまったではないですか」
えぇ、なんかすごい人なのか? このホテルのエリアマネージャーさんが探し回っちゃうくらいの? 中年男性も、執事っぽい雰囲気あるし。もしかして、ヤのお仕事じゃなくて、えらい人とか? 武藤って。
「見つけた」
「彼が、そうなのですか?」
え、俺? ですか?
「行くぞ」
どこに? ヤの付く人に用事もないけれど、執事を従えてるような人も知り合いにはいないんですけど。
「早く来い! 佐藤環」
「はっ、はいっ」
それに、武藤ってさ。
俺はもうパニックに近くて、頭の中が大混乱。だから、彼の、空気をピシャリと叩くような厳しい声に、背中をバチンと叩かれた気分で、思わず、新人研修の時みたいな返事をしていた。
でも、武藤って苗字で、執事もいるようなセレブって。
「お前が勤めている企業の次期トップを待たせるつもりか?」
そうなんだ。武藤って、俺が勤めている靴のメーカーの社長と同じ苗字だなぁって、そう思った。もう思考なんて追いつくわけがない。なんか色々ありすぎて、わけがわからなさすぎて、驚きすら追いつかない。
「え、えええええええ?」
寝坊で遅刻ギリギリだったとか頭の中から吹っ飛んで。ただ放心状態で、この人のあとを歩くことでいっぱいいっぱいだった。
「どうだ? 悪い話じゃないだろ?」
彼はそう言って、ホテルの中、会議などで使われるミーティングルームで頬杖をつきながら、ドヤ顔に、口元だけ笑ってみせた。
俺はこの人の会社からホテルへと派遣されている来ているスタッフだから、こういうミーティングルームにはあまり用事がなくて。こんな場所があるんだって思うくらいに慣れてない部屋が、毎日働く現場にあるのが不思議で。目の前にいる人が社長なことも不思議で。そして、俺の遅刻ギリギリだった出勤時間とかとうに過ぎてるんですけれど、これって遅刻つきますか? とか心配したりもして、不思議なことと、心配なこととで、頭の中は混沌としている。
なので、言われている内容がちっとも理解できません。
「……はぁ」
「気の抜けた返事だな」
そんなん、抜けるでしょ。魂が。だって、この人、わけわかんないこと言ってると思うんだ。入社二年目に突入、エリート街道からは程遠い、まだ現場での仕事もままならない。仕事に追いかけ回されるような毎日を送るので精一杯な俺が、これから、この人の右腕として、靴を創造していく側になれ――なんて言われたって。
「あ、あの」
「悪い話じゃないだろ」
「……はぁ」
悪い話かどうかすらわからないんです。
「あの、ですね。俺が、その靴のデザインとか、するんですか?」
「あぁ、そういう専門学校を出たと面接の時に言っていただろ」
「あ、はい。でも」
「何が不満だ?」
いやいや、不満なんじゃなくて、不安、なんですって。
俺、デザインのこと勉強したけど、でも今、仕事で何か成果を出せたわけでもないし、なんなら、どっちかっていうと毎日先輩に怒られてるくらいで。
「でも、あの、俺にはそんな」
社長に無理とか言うのはNGなんだろうけどさ。右腕だよ? 毎日、ミスをやらかすような奴がいきなり社長の右腕とかできるわけがない。そんな大それたこと。
「学んで来たデザイン知識をフル活用し、貴社に貢献したいと思っております……そう言ってなかったか?」
「そ、それっ」
俺が舞い上がりながらも面接で言った言葉だ。え、でも、社長も面接の時いましたっけ? 俺が緊張しすぎて気がつかなかっただけ? でも、こんな人が真正面にいたらきっと忘れないと思うんだけど。
「言ってただろ? その言葉を実現させられる場を与えてやると言ってるんだ」
「え、でも、あの」
「……」
じっと見つめられると、その視線の鋭さに緊張が増してしまう。強面すぎる。
「俺、ここでさえいっぱいいっぱいで。新人って言えない二年目なのに、未だに新人みたいにドジで。昨日だって仕事残しちゃったくらいなので、次期社長、今は専務の貴方の右腕どころか、足を引っ張る可能性大っていうか。それにデザインだってしたことないし。俺には、その」
断ったらクビかな。でも、右腕にしてもらってもミス連発で、それはそれできっとクビだし。
「せ、専務のお力には……」
「そうだな」
その一言にホッとした。よかった。きっと社長の気まぐれとかだったんだろうな。その背後に立っている中年の執事さんみたいな人達にばっか囲まれてると、きっと同年代くらいの話し相手が欲しくなるとかなんだろうな。
「ハイブランドのフルオーダメイドスーツ」
「ぇ?」
「いくらぐらいするかな」
「……」
専務は脇に置いておいた、スーツを手に持ち、ガラスのローテーブルの上に。
「お前の給料」
「……」
広げた。
「何ヶ月分だと思ってる?」
「……」
その背中には、俺の予想を遥かに超える、もう絶対に洗い流されてなんてやりませんとガビガビして繊維にしがみつくように、しっかりと染み込んだ、鼻血のシミが。
「今すぐ、このジャケットを弁償するのと」
俺の鼻血のシミが。
「俺の右腕としてこれから頑張って働くの」
「……」
シミが悪魔の尻尾みたいな形をしていた。
「どっちが、いい?」
そして、目の前にはドヤ顔がさまになりすぎる、強面専務が、悪魔みたいに微笑んでいた。
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