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第33話 ドライブ
俺は綾人を見送ると、ゆっくり起き上がって、タオルで腹の上の二人分の精液を拭った。
Ωは、レイプ犯罪に巻き込まれる事が多い。多過ぎて、もはやニュースにもならないレベルだ。
αやβにとっては、それは軽い交通事故か、犬に噛まれたと思って諦めるような出来事だった。
綾人も、そう思っているんだろうか。
身体を拭き終わると、抑制剤を二錠飲んだ倦怠感が、ドッと襲ってくる。
俺はデスクの後ろの、これも高級な革張りの黒い椅子に、グッタリと沈み込んだ。
抑制剤は効いたけど、Ωはネコやウサギと一緒で、発情期に性的刺激を受けると、間違いなく排卵する生き物だ。
でも、挿(い)れなかったから、妊娠してるって事はないだろう。
そう考えて、何だか少し寂しくなる。
俺が妊娠したら、綾人を独り占め出来るんじゃないだろうか。一瞬その思いが脳裏を掠めたけど、でも、と頭(かぶり)を振る。
生徒に手を出した罪で、綾人がクビになる。綾人のエリート人生を、踏み外させる訳には、いかない。
綾人の椅子はフカフカで、酷く座り心地が良かった。
ちょっと瞼を閉じたら、俺は誘われるようにウトウトと寝入ってしまった。
* * *
「……き。四季」
肩を緩く揺さぶられて、ぼんやりと覚醒する。抑制剤の副作用で、霞(かすみ)がかかったように、頭は鈍くしか働かなかった。
「四季。起きろ」
「綾人……?」
俺は茫洋と呟いた。
「もう夜だぞ。送ってやる」
「……何時?」
「九時半だ」
「……九時半!?」
俺はようやっと、事の重大さに気が付いた。門限は、どんなに遅くとも七時だ。
母さん、心配してるだろうな。
携帯はバイブにしてあって、七時過ぎから着信が二十件以上入ってた。
「ヤバい……!」
俺が慌てて顔色を青くしていると、何かを決意したように、綾人が静かに促した。
「ご両親にはさっき、部活終わりに疲れ切って、部室で眠っている所を見つけたと連絡しておいた。心配は要らない」
「綾人……? 何でそんなに、優しくしてくれんだ」
俺に気がないのなら、優しくなんかしないでくれ。期待してしまう。
「発情期に当てられたとはいえ、無責任に君を抱こうとしたのは、私の責任だ。その尻ぬぐいはするという事だ」
ああ。綾人が『私』に戻った。
インテリ眼鏡のレンズの奥は、真意の知れない無表情だった。
ここで優しくしなければ、俺がレイプされたって騒ぐと思ってるのかもしれない。
俺の願いは、初めてを綾人に捧げる事なのに。
* * *
外はもうとっぷりと日が暮れて、部活も終わって、所々に設置された街灯だけが、薄ぼんやりと光ってる。
レイプの危険性から、夜遊び厳禁だった俺は、家族の同伴なしにこんなに遅く外を歩く事すら初めてだった。
駐車場の例の高級車の所までは無言で歩いたけど、綾人が助手席を開けて「乗れ」って呟くから、俺は驚いて声を上げる。
「え? 運転手は?」
「時間外労働だから、帰らせた」
そうか。綾人って、育ちはボンボンじゃないんだっけ。
普通なら自分で運転なんてする身分じゃないのに、残業をさせないなんて、常識人ぽくて少し好感度が上がった。まあ、今更上がった所で、状況が好転するわけじゃないけど。
乗り込むとドアが閉められて、綾人が運転席に座る。
慣れないシートベルトに苦戦していたら、綾人の左手が、俺の右肩の辺りの座席を掴んだ。
発情期の心臓が、トクンと跳ねる。
綾人は、振り返って目視で車をバックさせて駐車場から出し、流れるようなハンドルさばきで走り出した。
ウチには今、車がない。北海道の田舎に住んでた時は必需品だったけど、だんだん都会へと転校を繰り返す内、交通の便が良いのと、俺の転校費用が大変で維持費が勿体ないという理由から、売ってしまった。
勿論両親は後者の理由を俺に言って聞かせる事はなかったけど、ある日些細な夫婦喧嘩の最中に、母さんが口を滑らせた。慌てて窘める父さんに、俺はテレビに夢中で聞こえないフリをした。
俺たち家族は、『Ωである俺』を中心とした、共犯者だった。
数年ぶりに乗る助手席は、綾人の隣で、身体の右半分がドキドキした。
綾人、運転上手い。信号で停まる時も、少しもGを感じさせない滑らかさだった。
否が応にも、綾人が『大人の男』だって強く意識して、俺なんか子供で相手にならないんだろうな、と思い知らされる。
『子供っぽい純愛なんて、こりごりだ』
綾人は、そう言ってた。それは、本当なんだろう。
「俺なんか送って、華那が怒らねぇのかよ」
「華那は、浮気には寛容なんだ。華那だって、小さなハーレムを持っている」
ああ、そんな事言ってたっけ。
不安定な俺は、必死に口元を覆って堪えたけど、涙が一粒零れ落ちた。小さくしゃくり上げてしまい、チラリと綾人がこちらを窺う。
「おい。これから送り届けようっていうのに、私が泣かせたみたいじゃないか」
「綾人が泣かせた、んだろ。俺との事は、浮気だとか、言う、からっ」
だけどそれきり綾人は何も喋らず、精悍な横顔を見せて運転し続け、ウチのマンションまでの短いドライブを終えたのだった。
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