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第1話 Rose Villa~薔薇の館

 深い森の中を馬車が一台駆け抜けて行く。飾りを抑えた馬車には、この国ウォードブルクの王家の紋章があった。馬車の窓は固く閉ざされ、扉も外側から錠がかけらていた。  道は森を抜けて開けた場所に出た。目の前には澄んだ水を(たた)えた湖がある。中ほどに島があり館が建っていた。馬車はそこへ向かっているようだった。  馬車の到着をを確認した館から島への唯一の通路である跳ね橋が降ろされ、跳ね橋を渡って館の門の向こうへと消えた。 「早朝に誠に申し訳ございません、王兄殿下(おうけいでんか)」 「本当にすまないと思うならば、余の安眠の邪魔をするな。それとも何か?幽閉の身である余の退屈を、まぎらわせるものでも運んで来たか?」  美しいプラチナブロンドに澄んだエメラルド色の瞳。ウォードブルクの王族、ゴッドリープ家の血を受け継ぐ正統な証。エーリッヒ・フォン・ゴッドリープは、先月即位した国王アルブレヒトの実の異母兄である。  エーリッヒは前王妃の子。アルブレヒトは隣国との和平の印として嫁いで来た、王妃が産んだ子。エーリッヒの母は原因不明の病で、彼がまだ幼いうちに急死した。  そのすぐ後に隣国との和平がなされた。(ちまた)では前王妃は毒殺されたと当時は噂されたのだ。  やがて8歳年下の異母弟アルブレヒトが誕生した。王妃はエーリッヒが邪魔になった。隣国としてはアルブレヒトに、ウォードブルク王国の王位を継がせたかったのだ。  エーリッヒには幼い頃から不思議な力があった。どんなに強い風も彼が命じただけで止まった。逆に強い風を呼んで、辺りの物を吹き飛ばす事もあった。母の形見のロザリオを肌身放さず身に付けていた為、彼はその美しい容姿と相俟って、神と天使に祝福を受けた王子と呼ばれていた。彼の穏やかで正義感の強い性格を国民は愛した。  それに比べてアルブレヒトはくすんだ茶金色の髪に灰色の瞳で、痩せて見た目もみすぼらしかった。隣国との長い紛争で家族を失った国民も多く、アルブレヒトは哀れな事にまるで人気がなかった。  ギルベルタ王妃はそれが腹立たしくて仕方がなかった。前王妃エルメンヒルデは美しく非常に賢い女性だった。ウォードブルク王国とは親しいプルシア皇国の皇女だった。  そこでギルベルタ王妃はエーリッヒを排除し、エルメンヒルデの名誉名声を貶める方法に出た。エーリッヒの力を悪魔の力であるとして、異端審問に訴えたのである。  15世紀から18世紀にかけてヨーロッパを席巻(せっけん)したのは、魔女狩りと呼ばれるものである。もちろん魔女狩りは女性だけではなく男性も犠牲になった。凡そ4万人が処刑されたと言われている。  ギルベルタ王妃は教区を預かる大司教に、大金を寄付として渡してエーリッヒを捕らえさせた。同時にエーリッヒの乳兄弟でベーエ大公の子息、ライムント・フォン・ビレンコーフェンをも逮捕させた。  ベーエ大公爵家はかつては法王庁直轄の貴族で古くは、ウォードブルク王国が建国される以前にこの辺りを支配していた。大公家とゴッドリープ家は、何度となくそれぞれの娘を妃に出して互いに血を繋げて来た。  ライムントの母は前王ヴェンデルの妹姫。彼も不思議な力を持っていた。それ故にエーリッヒと共に、異端審問にかけられたのである。  だが二人を審問の為の拷問にかける事は出来なかった。エーリッヒを拷問しようとすると、風が室内にも関わらず荒れ狂った。ライムントを拷問しようとすると、彼を縛り上げた縄が炎上する。しかも彼らが収監されていた部屋には、鳥の物にしては大き過ぎる純白の羽根が毎朝、無数に落ちていた。とうとう恐れを為した大司教が、彼らをこの湖の館に幽閉したのだ。  それから2年。エーリッヒは18歳になり、ライムントも17歳になった。  館には年老いた執事とその妻。それに数人の料理人と下働きの男がいた。  何度となく彼らは毒殺されかかった。それらも皆、不思議な力で取り除かれた。館に仕える者たちは、二人が無実である事を確信していた。  そして……エーリッヒの父王が急死した。  即位した異母弟アルブレヒトは未だ10歳。完全に王太后(国王の母)ギルベスタの天下になった。ウォードブルク王国は事実上、隣国に乗っ取られた状態だった。  幽閉されてはいてもエーリッヒとライムントにも、最低限の情報は入って来る。仕える者たちまで館に閉じ込められている訳ではない。跳ね橋を管理する兵たちも、二人には同情的であった。  国の情報を憂いながらも、無為に過ごす彼らの所に突然、客がやって来たのだ。 「新しくこちらに住む事になった者を連れて参りました」 「何!?」  馬車から引き摺るようにして連れて来られたのは、未だその顔に幼さが残る少年だった。  黒髪に黒い瞳。その容姿を代々受け継ぐ一族を、エーリッヒは思い出した。クーニッツ公爵家だ。現当主の妻はライムントの父の従妹。確か末の息子がその少年くらいだった。  名前は確か……レオンハルト、レオンハルト・フォン・ファーレンホルスト。  彼は酷い状態だった。首と両手を木の枷で固定され、衣服は粗末な囚人服。裸足で足首にも鉄の枷が付けられていた。 「何という事をする!」  ライムントは当然ながら、彼を生まれた時から知っていた。 「ディルク・バッヘム卿。直ちにレオンハルト・フォン・ファーレンホルストの枷を外したまえ」  ディルク・バッヘム卿は本来は忠義に篤い騎士である。彼がレオンハルトをここへ連れて来たのは、恐らくは王太后ギルベスタの企みであろう。彼の忠義がどこにあるのかを、確かめる為である。  ディルクは無言で背後の者に合図した。 「ディルク・バッヘム卿、私の許可なしに勝手はしないでいただきたい」  先程、エーリッヒを猫なで声で『王兄殿下』と呼んだ、アプト男爵フーゴ・カペルがディルクに抗議した。アプト男爵家は本来、宮殿に上がる事が許されない身分である。ゆえに殿上出来る貴族に付けられる《フォン》称号を持たない。  日本の公家に殿上出来る《堂上》と、地下人と呼ばれて殿上を許されない《平堂上》という身分がある。それと同じようにヨーロッパの貴族には、フォン・ド・デ・デュといった称号を持ち宮殿に出入りが許された貴族と、それらを与えられておらず宮殿に出入り出来ない貴族が存在した。  また《卿》、つまりSir.の称号を得た騎士は、殿上称号を持つ者も持たない者もいる。持つ者は殿上称号を持つ家の出身者が、王家や国への貢献を認められて与えられるもの。持たぬ者はそれ以外の身分から抜擢された者。  なお、日本では姓に卿を付けるがそれは間違った使用である。騎士称号とは個人に与えられるもの。  ゆえに《ディルク・バッヘム卿》もしくは《ディルク卿》と呼んでも、《バッヘム卿》とは呼ばないのである。  また、爵位に付属している名前はその貴族の領地が、どこにあるのかを指し示している。  正式な書き方をすると、こういう形になる。 《バロン・フーゴ・カペル=アプト》  ちなみにエーリヒのような王族は公爵の身分を与えられる。少しわかりにくいが、公爵には王族の者とそうでない公爵がいる。つまり王族の公爵は、日本の宮家にあたる。  この2つの違いは敬称に現れる。  普通の公爵は《Highness》。  王族の公爵は《Royal Highness》。  日本では公爵は《閣下》であり、宮は《殿下》なのは当然だ。  また、ライムントの場合はフーゴ公子という身分があり、殿下と呼ばれる訳である。また彼は母親が王族な為に、王位継承権を持つ王子としての身分を有する。日本のように徹底した男系を貫く国とは違い、ヨーロッパでは王族女性は嫁いでもその資格を失わない。何某かの理由で王位継承権を失わない限り、その子供や孫も継承権を有する。それが到底、順番が回って来そうになくてもである。  ましてライムントは前国王の妹であり、現国王の叔母を母に持つ。ゆえに彼は公子と王子、双方の称号を持っていた。だがこの館に閉じ込められた時点で、エーリヒの継承権もライムントの継承権も剥奪された事になる。  ライムントは母親の生命を気にしていた。  10歳のアルブレヒトには当然ながら世継ぎはいない。兄弟もエーリヒ以外にはいない。もちろん、姉妹もいない。二人の継承者を排除した今、それを有しているのはフーゴ大公妃エデルガルドのみ。もしアルブレヒトが死亡するような事態になれば、次に玉座に座るのは彼女なのだ。  王太后ギルベルタにすれば、それは無言の圧力になっている筈である。彼女が即位すれば、息子と甥の異端審問自体の是非を問うであろう。大司教はそうなれば王太后の味方はしないと思われた。  レオンハルトを異端審問に掛けたのは、フーゴ大公家の権威を削ぐ為と考えられる。 「ふん。アプト男爵、随分と偉くなったものだな?貴様の一族が《フォン》の称号に見合う、税金を払えるようになったとはな?それとも《フォン》の称号なしに、宮中に出入りをしているのか?」  エーリヒはこの日和見男が大嫌いだった。貴族は特権階級である立場を守る為に、国に定められた税金を払わなければならない。身分や立場が上になればなる程、その金額は高くなる。それはかつての日本でも同じで、華族の身分を叙位されたものの税金が払えず、身分を返上した家もいる程である。  中央の煌びやかな社交界へ、誰もが出て行けたわけではなかったのだ。爵位返上が許され難いヨーロッパでは、農民と一緒に畑を耕す貴族もいた。アプト男爵もそこまでではなくても、税金を払うのが精一杯の貴族の一人であった筈だ。  それが今はどうだろう?上等な衣服を着て騎士であるディルクに嫌みまで言う。それがエーリヒには不快だった。 「お言葉ですが、王兄殿下。私は現在、異端審問のお手伝いをいたしておりますれば、全てはウォードブルグ大司教の御命令であります」  ウォードブルグ大司教クリストフォロ・ドラーツィオ。イタリア人の男は聖職者でありながら強欲な俗物だった。彼が赴任して来るまで、この国は敬虔なカトリック教徒の国だった。小国ゆえに富み栄えているわけではないが、王家は民を愛し、民も王家を敬愛していた。隣国の度重なる侵攻に悩まされながらも、それぞれの身分の者が穏やかに自らの役目を全うして生活していた。  だがドラーツィオ大司教はまず金持ちの未亡人を狙って異端審問を始めた。凄まじい拷問によって《魔女》だと自白した者は、街々を引きずり回され仲間を告げさせられる。更なる拷問を恐れた者たちは、知り合いの名前を口にするしかなかった。  《魔女》と認定されたならば待っているのは、生木による火刑である。ウォードブルグにその煙と怨みの声は、連日耐えた事がない。 「ふん。強欲なウォードブルグ大司教クリストフォロ・ドラーツィオか。神に対する不敬そのものの大司教とごますり貧乏男爵。下衆な俗物同士が仲良くなったわけか?」 「な…大司教さまを下衆な俗物などと…天罰が下されますぞ!?」 「くだらん。あの男が赴任して来るまで、この国には異端審問などなかった。だが今はどうだ?本当に天の御心に反逆している不敬者は、誰なのだろうな?」  エメラルド色の瞳が冷たく光った。室内であるにも関わらず、彼の金色の毛が揺れている。ゆっくりと彼を中心に風が巻き起こりつつあった。 「ひぃ…」  アプト男爵の顔が恐怖に引きつった。エーリヒの足元から風が吹き上がる。するとそれを呼び込むように、天井から純白の羽根が幾つもの舞い落ちて来た。 「天軍の栄えある総帥、大天使聖ミカエルよ、かつて悪魔の大軍が全能なる天主に反きし時、御身は"たれか天主にしくものあらん"と叫び、あまたの天使を率いてかれらを地獄の淵に追い落とし給えり。  故に公教会は御身をその保護者となし、御身をその守護者と崇め奉る。  願わくは霊戦に当りて我らを助け、悪魔を退け給え。  我らをして御身にならいて、常に天主に忠実ならしめ、その御旨を尊み、その御戒めを守るを得しめ給え。  かくして我ら相共に天国において天主の御栄えを仰ぐに至らんことを。  御身の御取次によりて天主に願い奉る。アーメン」  突然、アプト男爵の背後から、まだ声変わりまえの少年の声が朗々と聖ミカエルへの祈りを唱えた。するとそれに応えるかのように、なお一層、純白の羽根が降り注ぐ。羽根は床に落ちる寸前で霧のように消え、薔薇の芳香を部屋いっぱいに溢れさせた。  この光景には誰もが息を呑んだ。館に仕える者たちはエーリヒとライムントの周囲に度々起こる不思議を体験していたが、今日のこれはまさしく奇蹟としか呼びようがなかった。  ディルクの命令に従ってレオンハルトの枷を外した兵たちも、この有り様に跪いて仕切りに十字を切って祈りを捧げている。  教会は本当に神の御心に適う存在であるのか。エーリヒが先程口にした疑問を、恐らくはアプト男爵以外が感じていた筈だった。 「またこのような虚仮威しで、我々を篭絡なさろうと思われるか?」 「余は何もしていないぞ?」  その言葉は事実だった。全てはエーリヒが意図したものではない。 「異端審問などいう戯れ言の時も今も、余もライムントも何もしてはおらぬ。貴様たちが勝手に神だ悪魔だと騒いでいるだけであろうが」  風の中心に立つエーリヒからは、何者をも侵す事の出来ない、高貴なる威厳の光が溢れていた。  エーリヒこそ真の王たる器。痩せっぽちで癇癪(かんしゃく)持ちで、母親の言いなりのアルブレヒトにはその欠片さえない。 「ライムント、レオンハルトを上へ連れて行け」 「わかった」  ライムントは跪いているレオンハルトの小柄な身体を抱き上げ、階段を上がって奥へと姿を消した。 「まだ何か用があるのか?」  先程、レオンハルトやライムントに向けた眼差しとは、正反対の冷たく凍てついた眼差し。雪解け水を湛えた湖のように、どこまでも澄んで美しいエメラルドグリーン。だが在るもの全ての体温を奪い、心臓の鼓動を停止させてしまうような冷酷な眼差し。  アプト男爵は蒼褪めた顔で、踵を返して逃げ去った。 「ディルク卿、感謝する。護衛があなたで良かった」 「私は王兄殿下も公子殿下も、お助けする事は出来ません。自分の無力を恥じております」 「気に病む事はない。これも我らに与えられた試練であろう。余やライムントが無実である事を、信じてくれているだけで良い。  さあ、もう行け。長くいるとあなたの立場が悪くなる」 「御意」  跪いて深々と頭を垂れたディルクは、強く唇を噛み締めていた。 「殿下、私の遠縁にあたる者をこちらに仕えさせていただけるよう、手配させていただきます」 「そのような事をしてあなたの立場は悪くはならぬか?」 「大丈夫でございます」 「あいわかった」 「では、失礼いたします」  礼儀に則ってディルクは数歩後退し、今一度頭を下げてから踵を返した。 「チェルハ、レオンハルトの傷を診よ」 「御意」  ウルリヒ・チェルハは、エルメンヒルデがプルシア皇国から嫁いで来た時に、随行して来た人物だった。彼は医師であったがエルメンヒルデの暗殺を、防げなかった咎で爵位を失っていた。それでもウェンデル王はエーリヒの身を案じて、ウルリヒを館の執事として派遣した。  ギルベスタ王妃は厄介払いとばかりに承諾したが、お蔭でエーリヒたちを暗殺する手立ては封じられている。  この湖の島の館は本来、王家の夏の避暑地だった。冬は雪深くなるが夏は涼しい。だがエーリヒたちがここに幽閉されて、この島全体に薔薇が咲き始めたのだ。しかも本来、冬は閉ざされてしまうここへの道も、そこだけは雪に覆われなくなった。  薔薇は一年中島に咲き乱れ、雪は島に積もらなくなった。それだけではない。館に病人や怪我人が出ると、島や湖の周囲に必要な薬草が出現する。この時代、薬草を用いての医療行為を行う者もまた、魔女として忌み嫌われて裁かれた。だがこの地方にキリスト教が入る前にあった宗教は、様々な薬草治療の知識を持っていたのである。  この時代のキリスト教では、病は悪魔が振り撒くものであった。簡単で間違った治療が行われるか、放置されるかしかなかった。治癒は神の思し召しであり、病で死亡するのは不信心。まして神の思し召しに逆らう薬草治療は、悪魔の知恵とされたのだ。  ヨーロッパはかつて、優れた知識や技術を持っていた。古代ギリシャ人は地球が丸い事を知っていた。薬草が病を治す事も知っていた。  だが中世ヨーロッパのキリスト教は、自分たちの権威を何よりも上に置きたい教会権力によって、歪な異端審問などの悪が横行する暗黒時代であった。  神の声を聞き、ミカエルの加護を受けたジャンヌ・ダルクが処刑されたのは、教会権力を失墜させられたくなかった故だとも言われている。教会にとって神や天使は、自分たちにこそ奇蹟を与える存在でなければ都合が悪かった。福音は教会を通じて人々に与えられるもの。そうでなくてはならなかった。  異端審問も最初は、土着の宗教を置き換えて広がったキリスト教を、教会に都合の良い状態に整えるものだった。だが完全に土着の宗教が残した風習は消えなかった。異端審問は薬草の知識を持つ人々に最初の牙を向けた。次に金持ちの未亡人や、ある程度年齢を重ねた未婚の女性に狙いを定めた。  村一つが全て裁かれ、処刑された所もあると言われている。一度異端審問にかけられたら、生きて戻る事は不可能だった。ただ身分の高い者に異端者が出た場合、教会に不審を抱く者がいたり混乱の原因になった為、密かに幽閉されて毒殺された。  エーリヒたちはまさにこの状態だった。ウォードブルグは北欧系の宗教が、かつては人々に信仰されていた。故にキリスト教会には面白くなかったであろう。  決して豊かではないが、穏やかで平和な国。隣国ヒルトラウトの嫌がらせな侵攻にも、最小限の被害で済ませていた。そのヒルトラウト王国とカトリック教会が手を結んだ。故王妃エルメンヒルデが死んですぐに、教会は前王ウェンデルにヒルトラウト王女との和睦の婚姻をすすめて来た。ギルベスタが嫁いで来た後ろに、教会の陰謀があったのである。 「どうだ?」  手当てを終えたウルリヒにエーリヒが問い掛けた。 「多少の拷問の跡はございますが、すぐに回復なされますでしょう」  従兄弟であり親友でもあるライムントの為にも、レオンハルトの傷が大した事のないのを聞いてエーリヒはホッと胸を撫で下ろした。ライムントが彼を弟のように大事にしていたのを、幼少時から交流のあるエーリヒは知っていた。  ドアの隙間から中を窺うと、レオンハルトはライムントに縋るようにして泣いていた。  今はそっとしておこう。そう思ってエーリヒはドアをそっと閉めると、その前から立ち去った。 「ウルリヒ」 「お呼びでございますか?」  エーリヒは彼にもっと側に寄るように合図した。使用人の中に密偵はいる筈だ。それもギルベルタの命を受けて、彼らを暗殺しようと暗躍する者が。表面的にはエーリヒたちに同情する仮面を着けて、その言動をギルベルタに知らせている者。だから先程、ディルク・バッヘム卿が告げた内容を、彼らに知られてはならないのだ。 「ディルク卿が一人、役に立つ少年を派遣してくれるそうだ」 「承知いたしました」  居間や廊下での会話は必要な部分を最小限に。それが暗黙の約束だった。  エーリヒはそのまま図書室へ足を向けた。元々避暑の為の離宮だった館は、ここを造った数代前の王の時より収集されて来た蔵書が大量にあった。  エーリヒは一日のほとんどをここで過ごしている。出入口のドア以外は、この部屋には窓はない。壁一面の書棚と中央の机。それ以外はここにはない。だから誰かがここに潜むのは不可能だ。  エーリヒがたった一人になれる場所でもあった。  それにしても心がざわついている。  レオンハルトが唱えた《聖ミカエルの祈り》は、フラッシュのように何かを頭の中に甦らせた。だが今はもう、それが何であったのかわからない。  レオンハルトに会ったのは初めてではない。叔母エデルガルドの元へ遊びに行った折に、ライムントと遊ぶ彼に会っていた。先程のかれの痛々しい姿を思い出すと、胸が締め付けられるように痛んだ。  レオンハルトの力は治癒能力。人々に癒しを与える力だった。彼に生命を救われた者はたくさんいると聞いている。  教会には一番あり難くない能力だ。  それにしてもあの程度で良かった。心底そう思った。

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