2 / 8

Rose Viiia~薔薇の館

 恐らくは自分たちと同じく、守護の力が働いたのだろう。そうでなかったら今頃は大変な事になっていた筈だ。  ドラーツィオ大司教は男色家なのだ。それも少年が好きだと来る。聖職者でありながら、冒涜(ぼうとく)の快楽に溺れる。異端者はどちらだと言いたくなる。  エーリヒもライムントも、自分のものになれば助けてやると言われた。その言葉を耳に入れた時点で、吐き気がしたくらいだ。ライムントに至っては唾を吐きかけてやったと笑っていた。  ウォードブルクの土着の宗教は同性愛を認めていた。それは傷付いた魂同士の癒しであると。  だが教会はそれを認めてはいない。悪魔と契約する行為だといって、徹底的に同性愛者を異端審問の餌食(えじき)にしていた。 「そういう意味では余は有罪か」  エーリヒは女性にどうしても興味が持てない。それに気付いた時から、異母弟アルブレヒトに玉座を譲る気でいたのだ。策略で排除しなくても、エーリヒは国王になるつもりはなかった。妃を迎え世継ぎを残せぬ身では玉座に座る事は適わない。18歳になったら身分を捨てて、修道院へ入るつもりだったのだ。  深く溜息を吐いて、エーリヒは天を仰いだ。  レオンハルトのまだ幼さを残す顔が、恍惚とした表情で祈りを唱えていたのを思い出した。  いや…あれはダメだ。ライムントも自分と同じ性癖である。互いにそれが露見して、異端審問にかけられたのではない。その事実は暗黙の了解だった。  先程のライムントの表情。レオンハルトはライムントの密かな想い人ではないか?何となくそんな気がした。  それなのにあの大司教のように、無節操に貪ろうとする自分を浅ましく思った。そっと持ち上げた右手を胸に置いて持戒の為に祈る。 「めでたし、聖寵(せいちょう)満充(みちみ)てるマリア、主 御身(おんみ)と共にまします。  御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子(おんこ)イエズスも(しゅく)せられ(たも)う。 天主の御母(おんはは)聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。 アーメン 」  十字を切りながらエーリヒは思った。何故にこんなに悲しいのだろうと。自分の心を満たすのは、悲しみしか存在しないのだろうか。胸に当てた手で口を覆う。溢れ出る涙は止められない。だから噛み締めた唇から漏れる嗚咽を、その手で懸命に塞いだ。  生きるのは辛く、悲しい。だが自らが生命を絶つ事は許されない。それは最も罪深い行為だ。生きる希望はなく、心を満たすのは深い悲しみ。それでもなお、生き続けていかなければならない。  誰かを愛し愛される温もりもなく、老いさらばえて朽ちていくというのは、何と長い道のりであろうか。自分は未だ、18歳でしかない。  レオンハルトはすぐに元気になった。少し恥ずかしがりの内気な少年。彼はライムントの側に縋るようにいる。  エーリヒにきちんと挨拶をするが、それ以外の会話は今のところない。ただ朝食の後はいつも、館の礼拝堂に籠もって祈りを捧げる。こんな敬虔な信徒を異端審問にかけるとは…と呆れてしまう。  エーリヒにしてもライムントにしても、信仰を捨ててしまったわけではない。教会組織と信仰は別だと思うようになっただけだ。  珍しく図書室へ行ったライムントに背を向けて、エーリヒは館の外れにある礼拝堂に足を運んだ。 「慈悲深き天主よ、敵どもの力よりの我らの救いのため、天の軍団の総帥なるミカエルを我らに遣わし給い、御身の臨在の内に 我らを損なわしむることなく導き給え。  我らの主にして天主よ、我らは御身の恩寵が いかに彼を高みに挙げられしかを知れり。  彼が常に 御とりなしと共に 我らに近づきて助け給い、それによりて我ら 生命の書に記されし我らの改悛の記録と共に望む一切の徳と共に生くるを得られんことを。  ああ 天霊なるミカエルよ、我ら 御身の翼のよりどころに 信頼もてはせ寄り奉る。  我らの生くる限り 我らを見守り 守護し給い、我らの臨終においては我らの助けに来たり給え。  ああ よろずの民の友よ。  アーメン」  礼拝堂の中でレオンハルトは祈っていた。  エーリヒはそっと近付いて行った。祈りを唱え終えた彼はすぐ横に立ったエーリヒを、跪いたままで見上げた。 「ここへ来た時も、聖ミカエルへの祈りだったな?」 「はい」 「何か理由があるのか?」 「ミカエルさまは私を守ってくだいます」 「え?」 「ここへ来た日にも、王兄殿下の真上に出現なされました」 「そなた…幻視者か!?」  幻視者と言うのはイエス・キリストや聖母マリア、大天使たちが降臨して、その姿を視る者を言う。幻視者は教会の内部にも現れるが、教会とは関係ない場所で出現する。 「ドラーツィオ大司教はそれを欲しがったのか…」 「あれは大司教などと名乗る資格のない者」 「余もそう思う」  その言葉にレオンハルトは笑みを浮かべた。 「邪魔をした」  そう告げて踵を返した。  自分の部屋に戻りながら、エーリヒは自分の心にいつの間にか温かい何かが満ちているのに気付いた。その温もりは心地良い安らぎに満ちていた。  何かがどう変わったわけではない。だがエーリヒは確かに、自分の孤独が癒された気がしていた。  レオンハルトの癒しの力。これもそれなのかもしれないと思っていた。    館の時間は日々、ゆっくりと流れていく。運動不足を解消する為に、島を散策して回る。小さいといっても元は離宮。1週するだけで結構な時間を消費する。対岸からはかなりの距離があり、矢を射掛けても間の湖に落ちてしまう。だからエーリヒもライムントも安心して散歩が出来るのだ。  朝露が太陽に照らされ、煌めきながらゆっくりと蒸発して行く。周囲が雪に包まれた中で、島だけが違う季節のようだった。  エーリヒは少し離れた場所で、ライムントとレオンハルトがじゃれついているのを見詰めていた。  兄と弟のように。互いに想い合う二人のように。その中へ入っては行けないとわかっている。  だから静かに離れて二人を見詰め、そして気付かれないようにそっと立ち去る。  あとは図書室にずっと籠もって過ごす。  抱いてしまった想いは、封印してしまわなければ。ライムントは従弟で、大切な友。同じ苦しみを抱く仲間。  彼が愛しく想う相手を自分も想ってしまったのは…罪だと思う。だから出来る限り二人から、離れていようと考えた。  孤独はもとより覚悟していた事だ。  エーリヒは机の上に広げた本を見る事なく、ぼんやりと遠くを見詰めるような眼差しをしていた。  一方、最近、エーリヒが以前にも増して、図書室に籠もりがちなのをライムントは心配していた。食事や朝の散歩には顔を出すが、彼は言葉を余り紡がなくなった。笑顔も消えてしまった。  どんな時も何でも話してくれた彼が、今は何も語らずに自分を避けているように感じる。その理由がわからない。  唯一思い当たるのは、エーリヒの変化がレオンハルトが来てからだという事だ。だが、レオンハルトはおとなしい子で、王子であるエーリヒに対する礼儀も忘れてはいない。他に兄弟がいないライムントにとって、又従兄弟のレオンハルトは可愛い弟だった。レオンハルトも何となく気付いていて、背を向けて立ち去る姿を悲しげに見詰めていた。  彼は礼拝堂でエーリヒに声を掛けられた以外、孤高の王子と会話を交わしてすらいない。 「ライムントさま…私は王兄殿下に嫌われているのでしょうか」  天使の姿を視る《幻視者》。ローマ・カトリック教会に異端の烙印を捺されて、こんな所に幽閉された王子には天使など厭わしいものかもしれない。その姿を幻視する自分など、気味悪く思われた。  レオンハルトは密かにそう思い、胸を痛めていた。

ともだちにシェアしよう!