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第1話

ブラッドの朝は早い。 日が昇る前に起き出して、井戸の水を汲み、城の奥にある竜舎の水槽をいっぱいにしなくてはならない。 竜騎士の騎乗する竜たちは清浄な水を好むため、前日の汲み置きしておいた水は受け付けない。毎日取り替えるのがブラッドの日課だ。 ブラッドが自分の名前の由来となった、血のように赤い髪を汗で湿らせて水を運んでる間、他の使役人たちが竜舎の藁を新しい物に取り替える。 そろそろ秋風が冷気を含んできたせいで、井戸の水は刺すように冷たい。その水をさらに犬舎に運んで掃除を始めた。 日が昇りきった頃、起き出した竜たちの食事も終わり、調教師らによる健康診断が始まる。気難しく、なかなか人になつかない竜もいれば、人懐こく調教師や使役人の後をくっついて回る甘えん坊もいる。 「おおーい!」 一番の年配である調教師のミュラーがブラッドに向かって手を振った。 犬舎の掃除を終えたばかりのブラッドは、箒を抱えたままミュラーに駆け寄った。 「何でしょうか、ミュラーさん」 「グリューンが引っ込んで出て来んのだ」 数いる竜の中でも、最も気難しい竜の名前だ。 「わかりました」 ブラッドが大きく頷いた。 「ぼくが呼んでみます」 言うと同時に駆け出す。 長く世話をしているミュラーや他の使役人になつかないグリューンは、何故か赤毛の少年にだけは心を許しているらしい。人の手で躯を洗われることを嫌がって逃げ回ることか多いのだが、ブラッドには素直に触れることを許している。 「グリューン?」 竜舎の入り口で名を呼んだ。応えがない。 馬の二倍強の大きさの竜は、厳つい見た目のわりに果物類を好む。食料の殆どが野菜や果物のため、竜舎は朝露に濡れた葉と果物の甘い匂いがする。 「グリューン、どうしたの?」 ミュラー以外の調教師たちがブラッドが竜舎に入ることを快く思っていないため、普段は決して立ち入らない。それでもグリューンが気になって、ためらいがちたが一歩足を踏み入れて奥を覗き込んだ。 天窓から差し込んだ陽の光を青緑色の鱗が反射して、竜自体が輝きを放っているように見える。 ブラッドに気づいたグリューンが頭を上げて甘えた声を出した。 どうやら、具合が悪いのではないらしい。 「出てこないから、皆、心配している…よ…?」 ホッとして近づこうとして、竜の前に人影があることに気づいて足を止めた。他の調教師かと思ったが、ブラッド以外の人間が近づくことを嫌っているグリューンが騒いでいない。 誰……? かなりの長身だ。 灰色の外套を目深に被り、大きな革袋を背負っている。袋が丸く膨らんでいることから、ブラッドは人影の正体に思い当たりがあった。 卵売りだ……竜の…… 逆光で表情までは分からないが、気難しいグリューンが落ち着いてのだから、悪い人間ではなさそうだが…… 竜は極端に繁殖力が弱い。 そのため、竜が多く棲んでいる険しい渓谷の巣から卵を獲ってくるしかない。昔は、雛竜を拐ってきて騎竜として調教していたのだが、これには大きな問題があった。 竜は母子の繋がりが深く強い。 そして、仲間の繋がりも強く、竜は単体ではなく複数で子育てをする。 そのため、雛竜が母竜を求めて哭くと他の竜も集まり、大挙して押し寄せる。その時の竜たちの怒りは凄まじく、国がまるごと滅んだこともあるほどだ。 そうしたことが重なったことから、今は卵を巣から獲ってきて、人の手で孵化させ、人間を親だと刷り込ませる方法が取られている。 ただし、卵を巣から獲るのは大変な危険を伴う。辿り着くのも命懸けだが、母竜に見つかると、確実に鋭い爪で切り裂かれる。 それ故、竜の卵は高額だ。 卵1個で10年は楽に暮らせる。数個売り、別の商売を始めたり土地や家畜を買う者もいれば、享楽に興じて散財し、また、卵を探しに行く者もいる。 グリューンの側にいる卵売りからは、後者特有の仄暗い雰囲気は感じられない。 「あの…ここは、関係者以外は立ち入りが禁じられてます…」 ブラッドがためらいがちに声をかけた。 グリューンを見上げていた卵売りが躯ごと向いた。もう一歩足を踏み出した時、襟首を首に食い込むほど引っ張られ、地面に頭から叩きつけられた。 「何してやがるっ!」 右の脇腹に、さらに衝撃が加えられた。 「てめぇは竜舎に入るなって言われてるだろうがっ!」 息もつけず、細かく震える躯をブラッドは丸めた。次にくるであろう衝撃に備えるためだ。あの声は、調教師の中でも特にブラッドを嫌っているパオルだ。 「親方が甘いからって、いい気になるんじゃねぇよ!」 パオルがブラッドの頭を踏みつけようと足を上げた。 「子供相手に何をする」 静かな低音だが、怒りを含んでいた。 「こ、こいつは奴隷だ。卑しいくせに、竜に 触ろうなんてとんでもねぇ」 「そういうことじゃない。子供相手に暴力を振るうなと言っているんだ」 卵売りがブラッドの頭をそっと持ち上げ、顔を覗き込んだ。 「大丈夫か」 思いがけない暖かな、大きな掌で支えられ、ブラッドはみぞおち辺りに、何とも言えない感覚を覚えた。胃の上を針で刺されたような、素手で捕まれたような…… 「だ…大丈夫…です…」 血の気が引いた顔を卵売りに向けた。 晴れ渡った、深く青い空を思わせる蒼穹の瞳がブラッドを心配そうに見ていた。

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