2 / 156
第2話
ブラッドは、自分を見つめる蒼穹の瞳に、空を飛んでるような、大きな羽の羽ばたく音を聞いたような気がした。
「大丈夫か?」
卵売りの問いに我にかえり、応えようとした時に、地を揺るがす咆哮が上がった。
「グリューン!?」
慌てて起きあがろうとしたが、背中の鈍い痛みに呻いて卵売りの腕にしがみついた。
「動くな。頭を打ってるかもれん」
「でも、グリューンが……」
咆哮が続いている。
「お、おれは知らないぞ!」
パオルが狼狽え、ブラッドから離れようとした時、竜舎の天窓を激しい音とともに破り、青銅色の巨体が飛び出した。
「なっ……!?」
咆哮とともに、グリューンがブラッドとパオルの間に降り立った。自分の子供を守るように羽を広げ、威嚇の形を取る。
真紅に染まった瞳で睨みつけられ、パオルは足から力が抜けて座り込んだ。
「何事だっ」
騒ぎに気づいた調教師らが駆けつけた。
グリューンとブラッド、腰を抜かしているパオルを見て、ミュラーは事態を察した。
竜の目の前で、ブラッドに暴力を振るったのだ。
嘆息をついて、ミュラーはパオルとグリューンの間に立った。
グリューンが、敵が増えたと思ったのか、鋭い牙を剥く。
「グリューン、悪かった。こいつは新入りで、何も知らんかったんだ」
人間相手のように、ミュラーは竜に話しかけ、謝った。賢い竜は人語を理解し、調教師たちの話をじっと聞いてくれる。
だが、グリューンは威嚇の構えを解かない。
そこへ、他の竜たちも集まり始めた。主に、雌竜だ。
雌竜らが、ブラッドを自分の子供のように保護対象にしているのをミュラーは知っていた。だから、他の調教師らに、竜の目があるところでブラッドを邪険に扱わないよう言い含めていた。
しかし、調教師に成り立てのパオルは、下働きの少年を特別扱いしているのはおかしい、と憤慨して、自分の目の届かないところで度々 暴力を振るっていたのを知っていた。それを強く叱責していなかった自分の落ち度に、ミュラーは後悔した。
パオルはブラッドを奴隷のくせに、と罵る。正確にはブラッドは奴隷ではなく、神殿預りの孤児院出の孤児なのだ。
ブラッドは城で働く前は、城下の市場で荷下ろしの仕事をしていた。
港で、船からの荷下ろしをしている最中に、奴隷船から逃げたした少年と、年頃が近いという理由で奴隷商人に連れていかれそうになった。髪の色もの人種も違うが、数合わせのためだ。
脱走した奴隷の少年は、激しい折檻の末、息絶えた。
ブラッドが孤児院出だということは、市場の者たちは知っていた。しかし、屈強な奴隷商人の用心棒相手に、ブラッドを助けようとする者はいなかった。
誰もが関わりを避け、頭を低くして成り行きを見ていた。
そこへ、たまたま船旅で訪れた友人を迎えに来た騎士が居合わせた。しかも、侯爵位を持つ、
竜騎士だ。
騎竜の所有数がそのまま国の軍事力をあらわす。そして、竜騎士は民衆の尊敬と憧れの対象だ。
その竜騎士が仲介に入り、ブラッドは城で働くことになった。港町に置いておいては、同じ事になりかねないと危惧したからだ。
城の下層や犬舎の掃除、井戸の水汲みなどの下働きとして働きだしたのは、半年前の冬のこと。竜舎の水槽への水汲みを始めたその日に、竜たちは新鮮な水よりもブラッドに集まった。
次々と竜たちに鼻を押し付けられ、頬や項を舐められ、その日は竜に埋もれて仕事にならなかった。
ミュラーが竜たちにとってブラッドが保護対象だと認識したのは、城に来てから半月ほど経った頃。兵士の一人がブラッドの足を引っ掛けて転倒させた。
そこへ、竜騎士を乗せ、演習から戻ってきたばかりのグリューンが見つけた。グリューンは制止し、手綱を引く竜騎士を無視し、ブラッドを転倒させた兵士を前足の鋭い爪で切り裂こうとした。
慌てて、普段はあまり使用しない竜笛でミュラーがグリューンを止めた。竜笛は、竜を調教する時に使用する、竜にとって耳障りな音色を発する。
それからも度々、同じような場面が続いたことから、ミュラーはブラッドに手を出すな、と調教師らや竜舎に訪れる兵士らに事情を説明した。
それでも、ブラッドを『奴隷あがり』と見下し、ミュラーや竜のいないところでは大怪我まではいかない嫌がらせをしていることは察していたのだが……。
「落ち着け」
卵売りが、グリューンの尾に触れた。
右腕にブラッドを抱えたまま、竜の怒気に臆することなく、尾を撫でる。
「グリューン、みんな……ぼく、何ともないよ」
ようやく息を整え、ブラッドが自分の足で立った。
とたん、怒気を霧散させ、グリューンが喉を鳴らしてブラッドの頬に鼻を寄せた。
「ほらほら、みんな、仕事に戻れ」
ミュラーが手を叩いて促した。
足下のパオルは、未だに立ち上がれずにいた。座り込んだ地面が濡れている。竜の迫力に失禁したらしい。
「着替えて、躯を洗って来い」
パオルの腕をつかんで立たせ、宿舎の方へ押した。パオルはノロノロと歩き出したが、今日は仕事にならないだろうとミュラーは思った。
「坊主、念のため医師に診てもらった方がいい」
卵売りがブラッドの頭を軽くはたきながら砂ぼこりを払った。
「あ、大丈夫です。ぼく、わりと丈夫なんです…よ…」
グリューンの羽ばたきで外套のフードが脱げた卵売りは、背中までの艶やかな黒髪を無造作に束ねた、精悍な顔立ちの青年だった。日々、卵を求めて険しい渓谷を歩いてるせいか、肩幅が広く、胸板が厚い。
「あんたが卵売りか」
ミュラーが近づいてきた。
「わしが調教師の取り纏めをしているミュラーだ」
「レオンハルト…レオンと呼んでくれ」
ともだちにシェアしよう!