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第176話
奈落
太古からの長い長い年月をかけ、一本の大河が大地を削って出来た深い渓谷。
更に地殻変動による隆起と陥没を繰り返し、それが落ち着いた頃には渓谷の水は枯れ、深過ぎる谷底まで陽の光は届かず、生き物が一瞬で凍る冷気の層が出来た。
身体強化した竜人族の視力でさえ底が見えない暗さだ。冷気が吹き上がり、空気が震えている。
何事にも動じないよう訓練されている飛竜が僅かに怯えている。
アウグスト・カロッサは夕闇色の濃い紫の眼を凝らした。どんなに凝らしても冷気の向こうの闇の底は視えない。
「大将軍閣下、さっさと捨てちゃいましょう」
副官のハーラルト・アルトマイヤーが飛竜の背から奈落を見下ろし、面倒くさそうに言った。
「寒すぎます。躰が冷えました。早く帰って酒でも飲んで温まりましょう」
ハーラルトには応えず、アウグストは担いでいた肩からレオンを下ろした。力無く伸びたレオンの手足はピクリとも動かない。
短い嘆息を吐いて、アウグストはレオンの躰を奈落に落とした。
青みがかった黒髪が風に靡き、無機質な人形のようにレオンの躰が闇へ吸い込まれていった。
「奈落の底へ到達する頃には、あの美貌もズタズタでしょうね…」
いくら頑強な竜人族といえど、鋭く尖った崖に打ちつかれ続ければ手足が千切れても不思議ではない。
アウグストは強化した眼で、視認出来るギリギリまで落ちていくレオンを追った。
鈍い音が何度か聴こえた。
崖に躰がぶつかった音だ。
その衝撃ででさえ、目を覚ます気配は感じられない。
「クソッ! お前ほどの奴が、こんなあっさり終わるのかよっ!」
視えなくなっていくレオンを回収に行きたい衝動を、アウグストは拳を握って堪えた。
皇太子の監視が無ければ、アウグストは可愛がっていた弟弟子をむざむざと捨てたりはしない。
「おいっ! レオン! いい加減目を覚ませ!! お前が簡単に死ぬ訳無いたろうがっ!! 愛しの伴侶はどうするんだっ!」
「閣下、無理ですよ…。あの皇族の毒ですよ?」
アウグストは音を立てて奥歯を噛み締めた。
「…分かっている……」
(皇族にしか効かない毒だって事はな…)
皇族の血のみに作用する毒。
どんなに薄くても、それこそ一滴でも皇族の血が流れていたら、その毒は作用する。
そして、血が濃ければ濃い程、その毒は少量でも猛毒と化す。
更に、解毒薬は存在しないとも言われていた。
「クソッ!!」
二度、毒づいた。
監視の視線がうざったい。
それを振り払うように頭を振り、帰還しようと騎竜の手綱を引いた。その時、視界の端で赤い光が見えたような気がした。
「? 何だ?」
飛び去ろうとして騎竜を止めた。
「何でしょう?」
ハーラルトも気づいたようだ。
奈落を覗き込む。
闇の中に赤い光が二つ。
「下がれっ!!」
アウグストとハーラルトが左右に分かれたのと同時に烈風が奈落から巻き起こった。一瞬でも判断が遅れていれば、騎竜の羽が持っていかれていた。
「…でかい…!」
鮮やかな緋色の巨大な赤龍だ。
紅玉を薄く切り出したような鱗。紅玉を溶かして染め上げたような鬣。
「…古竜……」
アウグストは息を飲んで、驚愕に眼を見開いてた。
長命の竜人族の中でも、長老と呼ばれる齢の者たちの竜身でさえ現在の竜の形をしている。その長老たちより古い竜は、特徴的な鱗の形をしていた。
雫型が主流の現代と違い、古竜の鱗は扇状に近い。鱗には年齢が刻まれているからだ。
長命になればなる程、年齢が刻まれ、鱗はぶ厚く広がる。
「閣下。あの竜が咥えているのは…」
「ああ。見えている…」
古の赤龍の口元には、力無く手足を揺らしたレオンが咥えられていた。
連日の吹雪が止み、冬には珍しい晴天に人々は家の窓を開けて掃除や洗濯に励んだ。
大陸でも、特に北方に位置するこの国は冬が長い。冬季は一月も吹雪が止まない事も珍しくない。
更に、寒気の厳しい冬季は大地が凍る。
暦の春が過ぎても大地は溶けない。鍬の刃は土に通らず、耕すどころか種蒔きすら出来ない。
国土の大半が険しい山々と、黒い針葉樹林と農地に適さない荒野だ。しかし、その山は鉄鉱石と宝飾用と炭鉱と資源の山でもあった。
ただし、一年の半分近くが冬な為、掘削を休まざるを得ない。硬い荒野の合間で穀物を育て、斜面の移動を得意とする山羊を放牧した。
日々生きていくのに必死だった。
針葉樹林に覆われた山の麓には小さな集落が点在し、広い河の流れに沿って農地と街が大きくなっていく。
漸くの晴れ間に、人々は晴天で雪が重くなる前の屋根の雪下ろしに精を出していた。
ふと、男達は忙しく動かしていた雪下ろしの手を思わず止めた。
荷馬車の轍が残る道を四、五歳の少女が歩いていた。意識の無い十四、五歳の少年を背負って。
少女の背丈に対し、少年の手脚は長く、雪道に新たな轍を作っていた。
臙脂色の仕立てのよい外套は少女の地位の高さを表し、裾に施された金糸銀糸で刺繍された小花は異国のものだ。
背負った少年を引き摺るりながら、それでも歩く少女の足取りは軽やかだ。
呆気に取られ、口を開けて人々は少女を…と言うか、背負われた少年の背中を見送った。
「護衛を巻いてのお散歩は危険ですと、何度申し上げましたかしら?」
巨大な城門の前に立っていた女性が、少し低い声で言った。
氷河のような水色の瞳で、少女に背負われた少年を見下ろした。
積もった雪のような白い肌、肩で揃えた陽光を反射して輝く金髪。品の良い口元を緩め、瞳と同じ水色のドレスの裾を摘んで屈んだ。
「その荷物、わたくしがお預かりいたしましょう」
少女が首を横に振った。
「けれど、そのままでは彼が汚れてしまいますよ?」
少女は何度か瞬いて足元に目を落とした。
女性に言われ、少女は自分が背負っている少年の手脚が地面に着いている事に、初めて気がついたようだ。
気温の上昇で泥濘んだ雪道を歩いて来た事で、少年の手脚には汚れた雪が纏わりついていた。
見上げると、水色の瞳が可笑しそうに少女の顔を覗き込んでいた。
「でも…」
少女が愛らしい唇を尖らせた。
「ひろった、のは、わたし」
舌足らずの口調で主張した。
「ええ。その上、ここまで運んで来たのですもの。この子はお姫さまのものですわ。けれど、このまま引き摺っては、城の中が泥で汚れてしまいます。掃除が大変になってしまうので、代わりにわたくしが運びましょう」
「ん…」
「大丈夫。手当ても致します。奥の医務室に運びますわ。心配ございません」
「ん」
今度は女性が、軽々と少年を担ぎ上げた。
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