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第175話
『非常事態の時は、ブラッドの身の安全を何より最優先させろ』
リリエンタール公爵家当主からの指示は至極単純で、最も難しいものだった。
竜仙境では、リーンの祖父の代あたりから急速に貴族の数が激減し始めた。
貴族の間で、原因不明の流行り病が猛威を奮ったのだ。
最初は食が細くなり、微熱が続いた。元々頑健な竜人族は、あまり病気に罹る事はない。だから、軽い風邪程度で寝込む事はしない。
少し休めばすぐに快復するから…と。
ところが、快復するどころか、寝ついたまま亡くなる者が出てきた。
静かに…、ただ静かに躰が弱まり、眠る時間が長くなり、目覚める事なく死に至る。
リーンの母もその原因不明の病だった。
元々魔力量が少なく、躰が弱かった。
しかも身籠った子は、魔力量が母体より遥かに多かった。胎児に魔力を与えつつ、更に、出産するには竜化しなくてはならない。
しかし、胎内の命を育む為にギリギリの魔力量で出産は難しかった。
ところが、詳しい経緯は聞いてないが、魔力の籠もったレオンの鱗を手に入れ、竜化し、卵を…リーンを産んだ。
どうにか卵を孵化させたが母は体調を崩し、眠りと覚醒を繰り返し、必要な教育をリーンに施した後、目覚める事なく静かに永遠の眠りについた。
(自分が生きているのは、お館様の鱗のお陰。強くなったのは、お方様お護りする為)
森を抜けると、背後で、天を突く山脈の稜線が淡く輝き始めていた。
大小様々な岩が転がる荒野が広がり、乾いた風が吹き荒れている。止む事の無い風は植物が生えるのを阻害し、小動物どころか昆虫さえ生きていけない不毛の地だ。
時折強く吹き荒れる、肌を裂く冷えた風の中、リーンは速度を緩めず荒野を駆け抜けた。強風で巻き上げられた砂埃の向こうに見え隠れする蜃気楼。
濃密な魔力溜まりの風の壁。
仙境と人界を別ける境界線の結界だ。
「ここまで来れば竜化しでも問題ないだろうな」
懐の真珠に手を当てる。
仄かに温かい。
「お方様の生命力は失われていない」
希望による気のせいかもしれないが、僅かな鼓動すら感じる…ような気がする。
真珠から生命力を感じるのであれば、主君も無事な筈。
一際巨大な岩を足場にし、リーンは空に向かって跳躍した。
朝焼けの空を漆黒の竜が駆けていた。
稜線から伸びる陽光を受け、よく磨き抜かれた黒曜石の様に鱗が輝いている。
黒竜は迷いなく結界の蜃気楼に勢いを緩めず突っ込んだ。
(水っ?!)
雲に突っ込んだつもりだったのに、青い飛沫が上がった。水の中を進むような抵抗感に飛ぶ速度が抑えられてしまった。
青と緑の色鮮やかな魚の魔物がレースのような尾を揺らして泳ぎ、赤や黄色、黄緑等の長い尾を靡かせて飛ぶ鳥型の魔物。
魔力溜まりを見るのも中に入るのも初めてのリーンは、色とりどりの小さな魔物が泳ぎ、長い尾を絡ませることなく飛び交う様に目を奪われた。
ただ、思ったよりも速度を抑え込まれ、リーンは焦った。
追手は無い。
しかし、ブランケンハイム公爵以外からの追手が無いとも限らない。
(早く…、速く、疾く飛ばないと)
翼に魔力を込めて速度を上げる。
焦る気持ちを抑え、効率よく魔力を巡らせ、なるべく濃密な魔力溜まりの抵抗を受け流す。
先の見透せない、いつ途切れるのか分からない黄昏色の魔力溜まりの中、黒竜は高度を上げた。
視界が開けたのは唐突だった。
結界を抜けた。
そう認識した途端、躰が重くなった。
ガクン、と高度が急激に下がった。
(墜ちる!)
慌てて魔力で躰を覆う。
人界に出たのだ。
(薄い)
仙境とも魔力溜まりとも違う。
空気が軽くて薄い。
(違う、魔力が薄いんだ)
真水の湖を泳いでいるようだ。浮力が弱いのだ。気を抜くと躰が沈む。
更に竜身を保つのも難しくなってきた。
(あの方は、こんな魔力の薄い人界で竜身を保ちつつ、加減して戦ったのか)
気を抜くと竜身が解けてしまいそうになる。
今まで自分は生温い環境にいたのだと思い知らされた。
魔力溜まりとは逆の理由で、思った以上に自分を取り巻く魔力の薄さで失速し始めた。
(竜身を…保てない…!)
必死に魔力を巡らすが、初めての人界に躰が慣れる前に竜化があっさり解けてしまった。
「くっ…」
懐の真珠を両手で掴み、躰を丸めて落下に備える。
肌を切り裂く冷たい空気。
折り重なるように聳え立つ山々に降り積もる雪。麓の針山の杉林に墜ちるのは、いくら頑健な竜人族でも無傷とはいえない。
林を抜けた雪原に目標を決めて墜ちる事にした。
轟音と衝撃。
固まった雪は石と変わらない。その上、かなりの高さからの落下だ。
思ってた以上の衝撃に、どこを打ったか分からない。
雪煙と塊を巻き上げ、リーンは衝撃を殺す為に勢いのまま転がった。
あちこち打ち付け、岩に背中を強か打ってから漸く止まった。
短い呼吸を繰り返し、遠くなりそうな意識を何とか保とうとした。
重い瞼を何とか開けようとするが、意識が遠のく。
仄かに暖かい胸元をきつく握る。
「…お…お方、さ…ま…」
保ち切れなかった意識が暗闇に落ちた。
近づいて来る、軽く雪を踏む音で意識が浮上した。
それでも、なかなか瞼が動かない。
衣擦れの音と顔を覗き込まれる気配。
「う……」
何とか薄く瞼を開けると、柘榴より赤い宝石が二つ並んでいた。
あどけない、赤い瞳がリーンを見下ろしていた。
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