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第1話「従弟:半井 基」
朝晩の冷えが増してきた十月の始め頃、倉本羽京 は引越ししたての部屋で、まだ開いていない段ボールを前に、ひと息吐いて腰を下ろした。
2LDKのその場所を改めて実感し、彼は満足げに顔を綻ばせる。
二年前に離婚した彼は、予てから4LDKのマンションから、もっと狭い部屋に引越ししようと思っていたのだが、仕事が忙しく身動きが取れずにいた。
そんな折、彼の従弟が、自分が住むマンションの真上の部屋が空いた、と連絡をよこしてきた。職場に近いこともあって、部屋を紹介して貰うと彼は即、契約書にサインしたのだった。
インターホーンが鳴り、羽京は応答すると玄関へ出た。
「引越しの手伝いに来たよ。あと、引越し祝い!」
羽京の従弟、半井基 が、ワインらしき包みを持って立っていた。
「有難う。…だけど、ほぼ片付いてるよ。」
引越し前に、かなりの物を捨てて来た羽京だった。
「…今頃来ても、遅いよね。」
夕刻に入り、辺りは薄暗くなって来ている。
羽京と基は従兄弟同士だが、殆ど似ていない。年も身長も十近く羽京が基を上回っている事もあるが、基が中性的な容姿をしているのが一番の要因かと思われた。
幼少の頃から基の顔は端正で大人びており、既に完成された印象を羽京は懐 いていた。
基をリビングルームへ通すと、ソファへ座るように促した。それを無視して基は寝室を見に行く。
「残念!寝室が整ってなかったら、俺のとこに泊めてあげようと思ってたのにな…。」
幾つか未開封の段ボールはあるものの、寝具はきちんと配置されていた。
「基んトコ、余分に布団あったっけ?」
「ないよ。一緒のベッドじゃダメなわけ?」
「あのシングルに?無理だろ…。」
「じゃあ、ここに泊まろうかな…。」
基は真新しいセミダブルベッドに腰を下ろした。
いつもと少しだけ違う基を感じた羽京は、彼の表情を読もうとする。
「何かあったのか?」
「それ!その職業病、やめた方がいいからね!」
基は勢いよく立ち上がると、神妙な顔をした従兄を窘めた。
羽京は心療内科医を個人で開業している。医大を卒業してから精神科の医師として働いていた彼は、二十九歳の時、後継ぎがいない恩師の個人病院を引き継いだのだった。
「悪いな、職業病出して。…元嫁にも、よく言われたよ。」
自嘲気味に羽京が言うと、基は軽く溜息を吐いてリビングルームへ移動し、三人掛けのソファに腰を下ろした。
「まあ、俺が羽京さんの患者である事は、間違いないからね…。」
羽京も一人掛けソファに腰を下ろすと、再度、基の顔を見つめた。相変わらず綺麗な顔をしていると思う。
「最初にカウンセリング受けたのって、俺が十六の時だったから、もう十年経つんだね。…羽京さんって、もう三十六?」
「三十五だよ。九歳差!基が小学一年の時、俺は高一だっただろ。」
「覚えてないし…。」
十年前、悲惨な事件の被害者となった基は、羽京の患者となった。
まだ駆け出しの精神科医だった羽京の元へ、叔母である半井美月 が息子の基のカウンセリングをしてくれと、個人的に訪ねて来たのが切っ掛けだった。
「羽京君になら話せるって、基が言ってて。…病院での、ちゃんとした治療じゃなくていいのよ。」
涙を必死に堪えている叔母が痛々しくて、未熟な自分でも良ければ、と言って快諾した。
数回のカウンセリングの後、羽京は基に特殊な能力がある事を知った。
突如、見た事のない情景が頭の中に注がれたように浮かぶ事がある、と基が言い、調べていく内に、彼に危害を加える者が近くにいると、その現象が起きる事がわかった。酷い時は、その情景を見た後、睡眠発作 の状態に陥ることもあるという。
それがもっと早くわかっていれば、基を襲った数々の悪意のある出来事を回避出来たのかも知れないのに、と羽京は悔しく思う。
「また、例のアレが起こったんじゃないか?」
話が途切れた際に、羽京が切り出した。基は視線を足元に落とす。
基は今、高校で教師をしている。彼が教職に就いて三年が経つが、その間、羽京の病院に患者として訪れたことは一度もなかった。
「アレ…ね。あれなら度々あったよ。羽京さんの世話にならなくていい程度のものだったから、相談しなかっただけで…。」
「わかってると思うが、その現象が起きる時は出来るだけ直ぐに、その場を離れるんだぞ。」
羽京の警告に、基は首を横に振る。
「俺、今年の六月から産休に入った先生の代わりに担任やってるんだけどさ、受け持ちのクラスに行くと視 える時があるんだよね。…逃げられるわけないだろ。」
「生徒の中の誰かってことか…。誰かは分かってないのか?」
「今のとこはね。」
「…どんな情景が流れてきたんだ?」
羽京の問いに、基は眉を顰めた。そこに嫌悪感がある事が窺える。
「レズビアン…なのかな?女が女を襲ってる…みたいな。」
「…って事は、女子生徒からの発信かな。…だとしたら――」
羽京は首を傾げる。今までのケースによると、基に特別な感情を持った心的外傷 持ちの者が、自身の悪夢を彼に流し込むといった形だった。今回の件も、それに当て嵌まるのだろうかと思案する。
「今回の件は、基に対してSOSを発しているのかも知れないな。」
「SOS?俺に?」
基は面食らい、続いて吹き出した。
「それはないと思うよ。俺、職場じゃ冷徹だから。…誰も話し掛けて来ないし。」
彼なりの防御壁なのだろう、と羽京は心の裡で納得する。
「そうか。…どちらにしても気を付けないとダメだぞ。」
不意に基が立ち上がった。
「帰るのか?」
「まだ、帰らないよ。…羽京さんがお茶ひとつ出してくれないから、自分で淹れようと思って。」
羽京も慌てて立ち上がる。
「ご免!…紅茶でいいなら、直ぐ淹れるよ。」
並んでキッチンに立ち、お湯とティーカップの準備をする。
「夕飯、どうするの?」
午後六時を過ぎたのを、壁の時計で確認した基が訊いた。
「蕎麦なら買ってあるけど、食べて行くか?」
「引越し蕎麦?…意外と拘るんだね。」
「拘るっていうか、普通じゃないのか?」
「さあ、俺は食べなかったな。…でも、蕎麦、久し振りだし、頂こうかな!」
まだ食器棚に並べられていない食器を、基は箱から取り出し、適当に収納し始めた。
「…基とゆっくり会うのは、いつ以来だろう?」
「正月以来じゃない?…そんな話せた記憶はないけど。」
「そんなに会ってなかったっけ?…まあ、電話やメールは偶 にしてたからな。」
「仕事、忙しそうだったから、遠慮してた。…これからは直ぐ会えるよね。」
「ああ。お互い独り身なんだし、遠慮はいらないぞ。」
基は僅かながらに陰りのある微笑みを浮かべると、羽京の傍を離れた。一人、リビングルームへ移動する。
「お茶、淹れたら持ってきて。」
「おう。」
返答しながら、羽京は従弟の様子に少しだけ違和感を覚えた。
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