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第2話「被害者:半井 基」

 夕食を終えると、基は自分で持ってきた赤ワインを開け、一人で飲み始めた。 「一杯くらい、付き合ってくれたらいいのに!羽京さんは相変わらず飲まないよね。…飲めないんだったっけ?」 「好きじゃないだけだよ。」  職業柄なのか、羽京は依存性のあるもの全てに抵抗があった。 「明日、出勤だろ?…程々にしとけよ。」  生まれた頃から知る従弟がアルコールを口にしている姿は、未だに違和感がある。 「弱くないから。…まだ十時だし。」  グラス三杯目だが、基の顔色に何も変化は現れていない。弱くないというのは嘘ではないようだが、羽京は危惧し出した。 「後で急に具合悪くなっても、介抱してやらないからな。」 「大丈夫だよ。…あのさ、伯父さんが個展開くみたいなんだけど、会いに行ってみない?」  基が不意に切り出してきた話に、羽京は戸惑いを隠せず返答に困った。 「どうしたんだよ、急に…。」  羽京と基の母達の兄である常盤藍介(ときわあいすけ)は、同性愛者を公言している名の知れた彫刻家で、羽京が物心ついた頃には既に絶縁状態にあった。その為か、彼に関する事は血縁者内で箝口令が敷かれ、会う事も当たり前のように禁じられていた。 「やっぱり小さい頃から禁じられていたら、体に染みついちゃうもんだよね。…ゲイの伯父さんに会うと罰せられる感がある?」 「…ある。…それに、それだけじゃなくて、伯父に会う理由がない。基は会いたい理由があるのか?」 「うん。どうしてゲイになっちゃったのか訊いてみたくて。」 「それは、マズいだろ?」 「そう?じゃあ、羽京さんに質問。」  基が標的を自分に変えて来たので、羽京は少しだけ身構えた。 「同性愛(ウラニズム)のテンペラメントは、どこで備わると思う?」  テンペラメント――気質を問われ、羽京は有名なターナー教授の説を念頭に浮かべた。 「母体の中。妊娠中の母親に極度のストレスが与えられ、十分な男性ホルモンが行き届かなければ、性別が男と決まった胎児は未来の半男性となってしまう。」 「うん、その説ね。あと、もうひとつ、それ以前の段階の話は聞いた事はない?」  この話題は基がリードしていると分かり、羽京は秘かに彼が本当に言いたい事を探り始めた。 「それ以前となると、遺伝子の話になるよな。あれだろ?ゲイである血縁者のX染色体に、類似の関係が見られたっていう研究発表。」 「流石だね!…俺が認識して欲しかったのは、その説なんだよ。」  基は嬉しそうに笑みを浮かべ、それから意味深長に言葉を続ける。 「X染色体に現れるのであれば、伴性遺伝するって事だよね?」  そこで羽京は、基が暗示している事を全て理解した。 「ゲイの遺伝子がX染色体に乗って、血友病や色覚異常と同じ経路を辿るって、基は言いたいのか?…ゲイの伯父と同じX染色体が兄妹である俺の母と、基のとこの美月叔母さんにも乗ってきていて、俺と基もそれを保有している。即ち、俺と基にもゲイの素質が備わっているって?」  基は感心したように軽く拍手した。 「それを知ったら、急に不安にならない?」 「別に。まだ証明されていない仮説に、踊らされる必要ないだろう?」  平然としている羽京に、基はむくれて見せた。 「それは…そうだけど。」 「基は不安になったのか?」 「俺?…そもそも恋愛するつもりないし。女だろうが男だろうが言い寄って来る奴、みんな嫌いだし!」 「まだ、そんな事言ってるのか?」  基はグラスのワインを空けると、新たにワインを注いでグラスを満たした。 「カウンセリングは必要ないからね。」 「そうは見えないけど?」  羽京が優しく基の頭を撫でると、基が甘えた口調で切り出す。 「ねぇ、今、トリアゾラム持ってない?」  トリアゾラムは睡眠薬の一種で、ハルシオンの商品名で販売されている。所謂、向精神薬だ。 「眠れないのか?」 「…うん。なるべく濃いヤツが欲しい。」  時折窺える、基の表情の陰りが、睡眠不足によるものだったのだと、羽京は改めて認識する。 「…ここにはないよ。必要なら、きちんと診察を受けろ。そしたら処方箋出すから…。」  羽京の返答に、基は苦笑した。 「本当にドラッグ全般やらないんだね。」  基が睡眠薬をドラッグと見做している事に気付き、羽京はあからさまに不愉快な顔をした。 「ドラッグとして用いる気なのか?」 「違うよ!…本当に眠れないんだ。」  基は慌てて否定した。その必死な形相に、羽京は表情を穏やかにしてみせる。 「トラウマ持ちの生徒の事が気になっているんだろう?」 「それは本当に気にしないようにしてるし、出来てるし…。学校は問題ない。」 「じゃあ、原因は他にあるんだな?それは身に覚えがある?」 「あるよ。…これ、問診だよね?診察した事にして、明日、処方して持ってきてよ。…でないと、また睡眠発作を起こしてしまうかも知れない。」  羽京は基からワインの入ったグラスを奪い、テーブルに置いた。 「催眠療法を今からやってやろうか?」  羽京の言葉に基はびくりとすると、それから耳を塞いだ。 「それは止めてよ。…それが嫌だから病院には行かなかったんだ。」  羽京は拒絶され、少なからずショックを受けた。過去の療法の際、彼を傷付けてしまったのかと懸念する。 「無理にこじ開けたりはしないよ。話したくないなら、話さなくていい。」  基は潤んだ瞳で羽京を見つめた。羽京も彼を受け止めるように見つめ返す。  暫く沈黙が続く。何かを紡ぎ出そうと口を開いては逡巡を見せる基を、羽京は静かに見守った。  やがて俯いた基の口から、言葉が紡がれた。 「俺さ、…尚人に抱かれたんだ。」  流石の羽京にも衝撃が走った。基が彼の二十年来の親友の名前を出し、抱かれたと言った意味を、脳内でわざわざ解釈しなければならない程だった。 「あいつ、結婚前に一度だけ、なんて言って、…やる事ケダモノで、別人みたいだった。」  ふと羽京は、基が二十歳の頃に一度、尚人に暴行を受けたと打ち明けた事を思い出した。その時の基も今と同じくらいに落ち込んでいた。  声が掠れるのを怖れ、羽京は咳払いをしてから発した。 「体、大丈夫なのか?」 「うん。…もう一週間経つし。だけど、凄く痛かったよ。…初めてじゃなかったのにね。」  基の答えに、羽京は自分の質問を悔やんだ。 「その日から眠れなくなったのか?」 「うん。…眠るまでにね、凄く時間が掛かるんだ。その間に余計な事を考えてしまう。ねぇ、種族保存の本能って、あれ、嘘だよね。それが鉄則ならゲイは存在しない。なんで男の体を犯そうなんて思うんだろう?」  自然の摂理に反した行為が、基を苛んでいるようだった。 「そこに快楽があるからだよ。種族保存よりも、人間は快楽に惹きつけられ、動かされやすい。」 「快楽ね。…羽京さんは快楽とかにも抗いそう。」  禁欲的(ストイック)で正義感の強い羽京なら、どんな誘惑にも打ち勝ちそうだと基は予想する。 「快楽は性的な事だけじゃないぞ。…心が満たされる出来事があれば、それは快楽を味わってるんだと俺は思う。」 「羽京さんは、いつ快楽を味わってるの?」  探るような瞳の基に、羽京は秘かに背筋を震わせたが、おくびにも出さずに答えを探した。 「…プチプチ潰したりとか?あと、無双じゃないゲームで無双出来た時な!分かる?」  自分の答えに逃げを感じた羽京だったが、今の基を思うと、性的な話はしない方が得策だと考えられた。基が軽く吹き出し、笑顔を見せたので、羽京も今の空気を助長するように笑った。 「羽京さん、…意外と残虐性有りなんだ?」 「プチプチに感情があったり、ゲームが現実にリンクしてたら、やらないよ。」 「分かってるよ。…俺の快楽って何かな?…尚人にされた事は…尚人だったから嫌だったのかな?」  話が戻り、羽京は一、二度見掛けたくらいの、高校生だった尚人を思い浮かべた。彼なりに思い詰めた結果だったのだろうが、人を傷付ける行為は許されるものではない。 「尚人君…、結婚するんだな。」 「…うん。あいつん家、旧家だし、許嫁と強制的に結婚だって。」  羽京は基がゲイの遺伝子の仮説を持ち出した経緯が、羽京を今の彼同様に不安にさせたかったのだろうと推測した。 「基は尚人君の事、受け入れられなかった?」 「うん。あんな奴、大嫌いだよ!…もう、二度と会わない。…でも、ゲイじゃないって証明だとは思ってないからね。」  基は徐に立ち上がった。 「今日は帰るよ。」  羽京も追うように立ち上がると、彼の華奢な手首を掴んだ。 「部屋まで送ろうか?」 「酔ってないし、一階下に降りるだけだし、必要ないよ。」  基は笑顔を見せると、羽京の手から擦り抜けるようにして玄関へ向かった。 「明日、また来るから。薬、お願い。」 「わかったよ。」  羽京は溜息混じりに従弟を見送った。

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