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第1話

 高等部の入学式。  新入生の列に彼の姿を捉えた瞬間、それまでの喧騒が遠くなった。  ジリジリと背中の傷跡が痛む。  輪郭が薄れ、ぼんやりと曖昧になっていた遠い昔の記憶が、鮮やかによみがえる。  彼は、あの時の彼だ。  なぜか確信していた。  12年前、自分の命を救ってくれた彼。  けして忘れまいと何度も反芻を重ねていたのに、幼い記憶は頼りなく、手に掬った水のように隙間から零れ落ち、すっかり彼の顔を忘れてしまっていた。  それなのに、たった今、実際に体感しているようにリアルに再現される。  暗闇に揺らめく炎。  呼吸器が焼け爛れるような熱風。  目に染みる黒い煙。  耳を覆いたくなるようなサイレンの音。  そして、絶望の中、自分を守るように抱き上げてくれた優しい温もり。  彼は、身動きが取れず蹲っていたユウチを抱きかかえ、精悍な黒い瞳を愛おし気に細めた。 「大丈夫だよ。ユウはちゃんと助かる。ここで俺がお前を無事に助けるんだ。そして、すぐそこの星稜学園の幼稚舎に入園して高校まで進む。ユウは、どんな時も、優しくて頑張り屋さんで、思いやりがあって……みんなの人気者なんだ」  少し掠れたハスキーな声。  初対面のはずの彼が自分の名を知っていたことに違和感を覚えながらも彼の首に小さな手で必死にしがみ付いた。 「ユウ、愛しているよ」  消防隊の用意した救援マットに向けて窓から放り出されたのと、アパートが崩れ落ちたのはほぼ同時だった。  彼をそこに取り残したまま。 「ユウチ? どうしたの?」  我に返ると、シュウが心配そうに顔を覗き込んでいた。  新入生代表の挨拶を無事に終え、戻ってきたのだろう。  緊張した素振りはかけらも見せず、リラックスしている。  シュウは、本当に大物だと思う。  この学園の生徒の大部分はαではあるが、シュウはその中でもとりわけ優秀だった。  αの中のα。  いずれ、この世界を背負っていく人になるのだろう。  そんなシュウを心の底から尊敬していた。  シュウとユウチは、今日から星稜学園の高等部1年生になる。  といっても、幼稚舎から通っている内部進学組の自分達には馴染の深い見慣れた校舎は、いささか新鮮味に欠けていた。 「火事の時のこと、思い出してた」 「あ、あれか。あのユウチを助けてくれた人、まだ身元が判明しないってお父さんが言ってた。これだけ探してもわからないってことは、身寄りがない人だったのかもしれないね。でも、こうしてユウチが立派に育って、感謝してお墓参りも欠かさないのだからあの人も本望だよ。僕にとってもユウチと一緒に暮らせることになって感謝だし」  アパートの焼け跡からは、身元不明の遺体が出てきた。  所持品を公開し、情報提供を呼びかけたが、依然として身元は分からず、結局、不明のまま荼毘に付した。  ユウチは、命に別状はなかったが背中の火傷のため、しばらく、入院を余儀なくされた。  その間に、生活は驚くほど変化した。  まずは、入院中にΩに覚醒した。  通常、αは生まれてすぐに覚醒するが、Ωの覚醒は第二次成長期のあとの16歳以降に生じる。  中には、30歳を過ぎ、運命の番(つがい)に出会って、初めて覚醒する場合もある。  いずれにせよ、ユウチのように、幼いうちに覚醒することはめったにない。  専門医の分析によると、生死のショックが生存本能に働きかけ、早期覚醒に至ったのではないかということだった。  そして、火事の時、不在にしていた両親が保護責任者義務違反として警察に逮捕された。  3歳の幼い子供を日常的にネグレクトしていたからだ。  退院後に児童施設に保護される予定だったが、たまたまその場に居合わせたシュウの家に引き取られることになった。  シュウはこの国の経済界を牛耳っている三条家の嫡男だ。  息子と同い年の不幸な事情の子供を見捨てることが出来なかったというのは、表向きの理由で、自分が希少なΩで、息子の番(つがい)にピッタリだったというのが一番の理由だという事をユウチは知っている。  Ωは年々、その数を減らしていて、今では全人口の0.1%も存在しない。  その希少なΩを自分たちの手で都合の良いように育てることが出来るというのは、三条家にとって魅力的過ぎる条件だったのだろう。  けれども、他人の自分をここまで育ててくれたシュウやその両親には感謝をしていた。  シュウの番(つがい)として、陰ひなたなく支えていこうと決めている。 「ユウチ、そろそろ発情期? ちょっとだけ甘い匂いがしてる……予定より早くない?」  シュウが内緒話をするように耳元に顔を寄せ、ペロリと首筋を舐めあげた。 「シュ、シュウ!? こんなところで駄目だよっ!」 「式が終わったら、そのまま一緒に早退しよう。こんな状態で教室に戻ったら、みんなに毒だ。ただでさえ、美人さんのユウチのことをみんな狙ってるんだから」  シュウのいつもの揶揄の言葉に、ユウチは眉を顰めた。  発情期まで10日ほどあるはずだった。  まだ、大丈夫なはず。  シュウに手を取られギュッと握られることで反論は封じられる。  その瞳に情欲の色が滲むのが見て取れる。  αばかりのこの学園にΩのユウチが入学できたのは、学園の理事に名を連ねる三条家の力のおかげだ。  とりわけ、片時も離れたくないというシュウの意向が反映された結果だった。 「家に帰ったら、僕のでユウチの体の疼きを収めてあげる。朝までみっちりね」 「あ、あのさ、あそこの右端に座っている彼、知ってる? 新入生だよね?」  シュウの手はユウチの掌から離れ、股の間に伸びていた。  ユウチは真っ赤になって、これ以上の侵入を阻止すべく両手で抑えた。  艶めいた雰囲気を払拭するために、別の会話を振る。 「え? 誰? ああ、あいつか。入学金授業料すべて免除、生活費支給の特別奨学生。最難関として知られているこの学園の奨学試験を満点取ったらしい。始まって以来だって学園長が騒いでいた。もっと眼鏡の冴えないヤツかと思ったら、体格も顔もかなりイケてるな」  シュウが不服そうに唇を尖らせる。 「そうなんだ。大人みたいだけど、僕たちと同い年だよね?」 「確かに、190cm超えてそう。誕生日がまだなら、15歳だろ」  顔つきだけでなく、体格や立ち振る舞いのすべてがあの日の彼と同じだった。  視線を感じたのか、こちらを振り返った彼と目が合った。  途端に、なぜか胸の動悸が激しくなり、ぶわっと体温が上昇する。  苦しい。  彼の顔を見るだけで、まるでインフルエンザの高熱におかされているように、意識が朦朧としブルブルと体が震えはじめる。  なのに、目を離すことが出来ない。  彼の漆黒の瞳に吸い寄せられ、視線を外すことが出来ない。 「ユウチ? ヤバいよ、お前。発情期が始まってるっ」  慌てたシュウに抱きかかえるように体を支えられた。  自分の体を支えるシュウの手が、あの火事の時の彼の腕と重なる。  目を眇めこちらを見つめる彼の瞳が、あの日の瞳と重なる。  体の熱が、燃え尽くす炎と重なる。  愛しているという言葉を残し、旅立った彼。  命の恩人でもあり、幼い孤独な心を初めて温もりで満たしてくれた。  彼の言葉は、ユウチの宝物だった。  混濁する意識の中、ユウチはブラックアウトした。

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