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第1話 大雅と佳孝

  「帰り何時?」  土間口で革靴に片足を入れたところで、突然後ろから声をかけられた。  「そんなに遅くはならないと思うけれど。今日は顔合わせ程度だし、連絡するよ」  珍しく玄関先まで恋人が来てくれている、きっと今日はいい日になるはずだ。  「晩飯」  佳孝(よしたか)が少し俯き加減で、小声で呟くのはいつものこと。人の言葉を聞き取り正確に伝えるのが仕事だが、ひと単語だけで会話しようとする相手の意図を汲み取るのは難しい。何を意図してどう答えて欲しいのか、大雅(たいが)は一瞬考えた。  「え?リクエスト聞いてくれてんの?」  「いや、仕事詰まっているし、気分転換に何か作ろうかと」  「俺は飯作ったら逆にストレスだよ、いつもありがとうな」  「いや、別に……何が食いたい?」  素っ気ない態度。もう長い付き合いだから分かっているけれど、これが佳孝の普通(デフォ)だ。  行ってらっしゃいと頬にその唇で柔く触れてくれでもした小躍りして喜ぶのに、相手が佳孝ではそれはあり得ない。「ここんとこお前忙しくてお預けだったろ?俺はお前を喰いたい」そんなことを言ったら最後、二度と口をきいてもらえないのは大雅も重々承知している。  「ん、モツ鍋とか、どう?」  「分かった、じゃあ」  佳孝はもう用件は済んだとでもいうのか、室内履きでぺたぺたと音を立てながら部屋の奥へと戻って行った。「ああ、部屋に戻っていくわけね。そうか戻っちゃうんだ。当然だけど行ってらっしゃいの口づけとかないんだな」頭の中で佳孝に声をかけた。せめて行ってらっしゃいの一言くらいは欲しかったが、玄関まで来てくれただけでもすごいことなのだ。いつもならあり得ないと、たったそれだけのことに大雅はにやつく顔が戻せなかった。  「ゴミ、出しておくよ」  奥に声をかけて、外に出る。大きく伸びをすると、ゴミの袋を手に階段を降りた。  「おはようございます。今日はいい天気ですね」  朝、ごみステーションで近所の人に声をかける。もうここに住んでから早五年、近隣の人とも顔なじみだ。  「あら、いってらっしゃい。弟さんは最近見かけないけどお元気?」  「ええ、おかげさまで。ありがとうございます」  こうやって他の人から「いってらっしゃい」と言われることがあっても佳孝から言われることはない。近所の人たちも、あのそっけない態度に手のかかる弟だと決め込んでいる。別に知らせる必要も無いし、面倒なのでそのままにしている。多分、ニートの弟の面倒を見ている可哀そうな兄だとでも思われているのだろう。  実際のところ佳孝はホームオフィスで仕事をこなしているだけで、無職ではなくプロフェッショナルだ。大手電機メーカーに産業翻訳者として勤めていたが、三年前に退職し独立した。それ以来、家から出るのは簡単な買い物程度だ。週末に無理やり連れ出さない限り、あの部屋の中で生活することに満足してしまうだろう。  細かい仕様書に英語を黙々と埋め込んでいく作業は、佳孝には向いているのだろう。集中して仕事を始めると声をかけても聞こえなくなるようだ。  十一年前の春から一緒に暮らしていてもまだ、お互いの立ち位置がはっきりしない。それでもこの穏やかな日々が続いていくならそれでいいと大雅は思っている。  今日は帰りに日本酒を買って帰ろうと足取りも軽く駅の人混みにのまれていった。

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