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第1話
今日一日、朝から全くと言っていいほどツイていなかった。
すし詰めの通勤電車の車内では見知らぬ男にとことん尻を撫でられ、仕舞いには「出していい?ハァ、ハァ……」と熱っぽく耳元で囁かれながら大量の精液を通勤カバンにかけられた。
ちなみに――。俺は男であり、相手を煽るような露出度の高い服装をしていたわけではない。
いたってシンプルなグレーのスーツに紺色のネクタイ、カバンは先週買ったばかりで、まだ目立った傷もついていない。
世間からは一流と称される企業に勤めていても、通勤ラッシュや痴漢を回避出来るわけではない。
嫌な気分のまま勤務先であるGマネジメント本社六階にある営業部のフロアに足を踏み入れた瞬間、俺の耳に飛び込んできた同僚の言葉に全身が凍り付いた。
「お前が担当してたN社、今朝とんだぞ!」
「――は?」
「だからぁ、夜逃げしちまったってこと!会社の中はもぬけの殻。この前、大口の契約交わしたばかりだっただろ?うちの損害は前払金ぐらいで済んだからまだ少なくて助かったが、商品頼まれてたクライアントには殴られる覚悟で頭下げに行かなきゃならないな」
新規取引先を決める際には、必ず事前にデータバンクに調査依頼をする。その結果、絶対に安全で信用できると太鼓判を押され、上司である営業部長経由で上層役員の承認も受けていた企業が何の前触れもなくとんでしまうとは……。
不景気のおり、何が起きてもおかしくない。明日は我が身だと誰もがそう思いながら働いている。
俺はぶつけることの出来ない怒りを握りしめた拳の中で消化し、自分のデスクへと向かった。
あり得ない数の伝言メモが貼られたパソコンのモニターを見ながら力なく椅子に腰かけると、これから作成しなければならない報告書と、部長を含む上層部役員からの呼び出しに怯えた。
「浦沢 ぁ。今日の残業は免れないな……」
デスクを並べる同僚の吉村 がニヤニヤしながらこちらを見ている。
「覚悟の上だよ……。っとに今日は朝から最悪だなぁ……」
俺――浦沢 瑛太 は、時間をかけてセットした髪をぐしゃぐしゃと乱した。
すでに今日一日分の活動能力をこそぎ落とされ、やる気が全く起こらない。
面倒だと思いながらもデスクに貼られた伝言メモを一枚、また一枚と剥がしながら目を通していく。
電話機に手を伸ばしながら、折り返しの電話を待つ取引先の番号を目にした瞬間、ハッと息を呑んだ。
「――マズイ!」
思わず漏れてしまった声を聞き逃さなかった吉村が、回転椅子の背凭れに体重をかけて俺の方を覗き込んだ。
「んあ?何がマズイんだぁ?」
「いや……。何でもない」
スーツの上着のポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出す。
画面をタップすると、新着のSNSメッセージが表示される。
『今夜、楽しみにしてる』
文字の最後には♡が……四つ?いや、五つも付いている。
発信者は俺の恋人である細田 忍 だ。付き合って……半年になるだろうか。
元々、取引先の営業担当だった彼とは以前から顔見知りで、何度か飲みに行く中で俺と同じゲイであることを知り、付き合うようになった。
順調に見えているかのような関係ではあるが、実は密かに暗雲が迫ってきていることを予感していた。
彼も俺と同様、それなりに名の知れた商社勤務でプライドは高い。
二人きりの時は優しい言葉もかけてくれるし、仕事の都合も考慮してくれている。
しかし……恋人として致命的とも言える問題が起こりつつあった。
男同士でもセックスはする。互いの性欲を満たすだけでなく愛情を確かめるための行為。
それが……ぶっちゃけ、気持ちよくないのだ。
俺が行為に対して淡白だからということもあるが、彼の勢いに任せての攻めがここのところ苦痛に感じて仕方がない。
そのせいで、遅漏疑惑を持たれているのは確かだ。
ここで言い訳をしておこう。自分でする時は数倍も早い。むしろ、スッキリ出来なかった鬱憤を晴らすかのように溜まりまくった性欲が爆発してしまうと言った方がいいかもしれない。
忍が初めての相手というわけではない。それなのに素直に自分の欲求を伝えられない事にも一因がある。
奥手……とはちょっと違う。恋人である忍に、完全に心を開けない部分があるという事なのだろう。
でも、それは全くの無意識で、意識すればするほど彼に気を遣い、演技がかったセックスになってしまう。
喘ぎ声もつい我慢してしまい、その事に気付いているのかいないのか、忍は時に冷たく当たることも増えて来た。
それに、彼の身辺にも疑惑を抱くようなことが増えてきている。
もしかしたら、つまらない俺に愛想を尽かして、他に恋人を作っている可能性もあるのだ。
彼との関係は終わらせるつもりはない。俺がほんの少し譲歩すれば続けられることなのだから。
それ故に、今は彼との約束をキャンセルするわけにはいかないのだ。
しかし、報告書の作成はそう簡単なものではない。勤務時間内でそれまでやり終えることは不可能だ。
「――あぁ、そうそう。天城 専務が出張から帰ってきたみたいだから、この事を耳にしたらどんな顔するかな……。営業部なのに専務管轄ってのが不思議だよなぁ。普通は総務部だろうが」
「え……?天城専務?」
吉村の脅しともとれる発言に、俺の背筋が冷たくなった。
「そう、魔王様。あの人怒らせると、マジ怖いよなぁ……。普段でも愛想なくて、何が地雷なのか分からない人だから。くわばら、くわばら……」
「おい……。そんなこと言うなよ。俺……もしかしたら、クビってことも考えられるってことか?」
「さぁな。魔王様のご機嫌次第だろ……。とりあえず神様にでも祈っとけよ」
まるで他人事だ。もしも、彼の逆鱗に触れれば、俺だけじゃなくこの部署全体に影響を及ぼすというのに……。
Gマネジメントの営業部の総括、専務取締役である天城 眞欧 はアラフォー独身貴族だ。
アメリカにある某一流大学を首席で卒業し、幾多の有名企業の役員を経て、当社の専務として落ち着いたのはつい一年ほど前の事だった。
一八七センチという身長と、鍛えられた体躯、ローマ彫刻のような彫りの深い相貌に緩くウェーブのかかったブルーブラックの髪。
フルオーダーのスリーピーススーツを完璧に着こなし、女性であればタメ息しか出て来ない超絶イケメン。
高級外国車を数台所有し、タワーマンション高層階に住む、いわばセレブ。
そんな彼を狙わない女子社員はいない。
しかし、その美しい容姿を持ちながらいつも不機嫌そうな顔つきで、彼が笑ったところなど一度も見たことがない。
部下の失態に対してはかなり厳しく、妥協、甘えは一切通用しない。
処分に関しては一刀両断。バッサリと過酷な沙汰を言い渡すことで有名だ。
その事から、名前の眞欧をもじって“魔王様”というあだ名がついている。
彼自身がそう言われていることを知っているのか、はたまた無関心なのかは分からないが、本人の前でそれを口にした者がいないだけに迂闊に言えない。
それが地雷であった場合、自分はこの本社にはいられなくなる可能性が大きい。
吉村も一応周囲を見回して、彼がいないことを確認してから口にしているようだ。
「もっと愛想良くてもいいよな?あんなにイケてるのに、勿体ない……」
「そ、そうだな……」
本当に勿体ない――と、俺も思う。
忍という恋人がいる身でありながら、密かに眞欧に憧れ――いや、淡い恋心を抱いているなんて、不謹慎にもほどがある。
しかし、あのヴィジュアルはズルい。ゲイである俺としては、あの逞しい体で抱きしめられたら……と、つい妄想してしまう。
さぞかし、アソコも大きくて忍の物とは比べ物にならないだろう。
それで体の奥を激しく突き上げられたら……。
「――ダメ、ダメッ」
窮地に立たされていることを忘れ、ついエロいことを考えてしまう。
だが、妄想することは誰にも咎められない。
そもそも、あの眞欧が俺みたいなつまらない男を相手にするはずがない。
素直になれない、甘えられない、我慢に我慢を重ねて声さえも出せない俺……。
誰かが変えてくれることを待ってる自分がいる。しかし、こういう事は自分から変わっていかなければ、その道は開かれない。
それが出来たら、忍との関係にこれほど悩んでいない。
つまり――俺には無理だってこと。
この“諦め体質”がそもそもの元凶だということに気付いていても、知らないふりを決め込んでいる。
実にメンドクサイ男なのだ。
「おい、浦沢。そろそろ来るんじゃないか?部長がN社の件、ヒアリングするって言ってたから」
「マジかっ!」
「今日は仕事にならないな……。会議室で監禁決定!」
「茶化すなよ……」
なぜか楽しそうに笑う吉村を恨めしそうに睨んでいると、フロアの空気が変わった。
水を打ったように静まり返ったフロアを、恐る恐る見回す。
コピー機の音がやたらと大きく聞こえる。
ピリピリと頬を刺すような緊張感に、隣の吉村も目で「ヤバいぞ」と訴えている。
「――浦沢!」
営業部長の声に弾かれるように立ち上がった俺は、直立のまま入口の方を見つめた。
真っ先に視界に入ったのは営業部長ではなく、眉間に深く皺を刻んだまま唇を引き結んだ魔王様の姿だった。
形のいい額に一筋落ちた長い前髪が妙に色気を放っている。
スラックスのポケットに片手を入れたまま、鋭い眼差しでフロアを見渡している。
「は、はいっ!」
「N社の件、役員からヒアリングを行うそうだから資料を持って第二会議室に行くぞ。早くしろっ」
部長の声に、ゆっくりと眞欧の視線がこちらに向けられる。
くっきり二重のこげ茶色の瞳が俺をとらえる。
野性味のある鋭い目がすっと細められた。
「浦沢……。俺は言い訳を聞きたいわけじゃない。分かるな?」
低く、猛獣が唸るような声に自然と体が震える。
この声で口説かれたら腰砕けになることは間違いないが、今は恐怖でしかない。
淡い恋心もどこかに吹き飛んでしまった。
「はい……」
力なく応えて、俺はデスクの上で振動しているスマートフォンに視線を移した。
SNSが受信し、メッセージが液晶画面に表示される。
『いつものホテルでいいよね?瑛太、愛してるよ』
どこまでもお気楽な忍のメッセージに、今はため息しか出て来ない。
俺は本当に愛されているのだろうか……。
聴取の合間を見て、今日の約束をキャンセルする旨を連絡しなければ、確実に俺たちは終わる。
眞欧たちに気付かれないように小さく息を吐くと、仕事と恋人を天秤にかける自分に呆れ、そして叱責した。
* * * * *
「ごめん。仕事でトラブって今日は会えないんだ」
嘘を吐く必要などどこにもない。後ろめたいこともない。
会議室に入ってもう三時間以上になる。頃合いを見計らって廊下に出ると、忍のアドレスを呼び出して発信ボタンを押した。簡潔に、かつ素直に自分の置かれている状況を説明する。
『――そっか。仕事かぁ……。あまり無理するなよ』
「あ、ありがと……。ごめん……忍」
俺は謝った。でも――彼からの答えは何もなかった。
肯定も否定もない俺たちの関係。
まあ、それが男女の関係のように面倒臭くないところでもあるのだが……。
男同士というのは、どこか一線を引いている部分があるように思えてならない。
同じモノを持っているのだから、どこをどうすれば感じるとか、気持ちがいいとか分かるはずなのに、いざ相手に施そうとするとそれが全く反映されない。
遠慮……とは違う。何とも言えないもどかしさに身を焦がす。
気持ちも同じだ。でも、それって本気じゃないっていう意味にも捉えられなくもない。
恋人といえる関係――俺は、その真意を理解していないのかもしれない。
誰もいなくなったオフィスの照明は自分の頭上から照らす蛍光灯のみだ。
パソコンのモニターのバックライトが異常に眩しく感じて、目を細める。
映画の中の世界なら、この画面から溢れる眩い光に呑み込まれて、全く知らない世界に飛ばされるというパターンだ。
そこにはイケメンの王子様がいて、未知の世界からの訪問者を、最初は訝しがるが心を開くと快く受け入れてくれる。
「――俺、なに考えてんだ?」
マウスを握ったまま、先程から全く進んでいない報告書にイラつきながら、何度も髪をぐしゃぐしゃとかきあげた。
現実逃避も甚だしい。
早く終わらせて帰りたい。でも、先が見えない。
デスクに散らかった資料と、経理からの契約書の数々。
見るだけで吐き気を催しそうだ。
打ち込んでいる文字がだんだんとぼやけてくる。
極度の緊張と疲労からくる睡魔に襲われ、俺はカクンと頭を落としてハッと息を呑んだ。
「寝てどうする!俺っ」
冷めたコーヒーを喉に流し込み、ワイシャツの袖を捲り上げる。
しかし、一度襲われた睡魔をそう簡単に振り払うことなど無理なことなのだ。
マウスを握りしめたまま、自然と下がってくる頭を再び持ち上げることが出来ない。
「ヤバ……眠い……」
意識が遠のいていく。もうモニターは見えていない。
その時点で俺は完全に眠りについていた。
* * * * *
芸術的な曲線を描く深紅のカウチソファに足を伸ばしたまま寛ぐ俺の目の前には、南国リゾートを思わせるヤシの木で囲まれた中央に配置されたプールの水面が、その向こう側に見える海と見紛う湖の水面と丁度重なり、床に置かれたキャンドルの光が暗闇を照らす美しい光景が広がっていた。
広大な敷地全体が寝室のように錯覚する。
「――次はねぇ、ライチが食べたい」
大きなテーブルの上に置かれた色とりどりのフルーツとワイン、豪華な料理に目移りしながら、俺は唇に残った甘い果汁を舌先で舐めとりながらリクエストする。
俺のすぐ隣に座る男の手がフルーツの皿に伸び、長い指先でライチを摘み上げる。
それを待ち受けるかのように口を開けると、甘酸っぱいライチが口の中に入れられた。
「ん……美味しいっ」
「――瑛太。今日はやけに疲れた顔をしているな?」
腰を抱き寄せながら顔を近づけた彼に耳朶を甘噛みされ、くすぐったさに肩をすくめた。
ふわりと漂うソープの香りにこれからの事を期待し、胸が高鳴る。
「今日はホント……朝からついてなくて」
「何があった?」
低く甘い声が鼓膜を擽る。その心地よさに、ガウンから伸びた足をモゾモゾと擦り合わせた。
大きな手が滑らかな俺の足をゆっくりと撫で上げる。
特に気を付けているわけではないが元々体毛が少ない体は女性の肌に近い。
その指先には長く伸びた黒い爪があった。もしも、これを立てられれば引っ掻き傷どころの騒ぎではない。
皮膚だけでなく肉まで抉れるであろう鋭利な爪で傷をつけないように気遣っている彼が愛おしい。
「電車の中で尻を撫でられた……」
「なにっ?痴漢か?」
「そう……。コーフンして最後には俺のバッグに射精。買ったばっかりだったのに、最悪だよ」
彼は俺の首筋にキスを繰り返しながら、眉間に皺を刻んだ。
従者や部下に対してはいつも厳しい表情を崩さない彼が、俺にだけ見せる優しさと嫉妬。
それが何より優越感を感じる。
「――お前が無事で良かった」
「あのねぇ、降りるまでずーっとお尻触られてるとか……あり得ないだろ?」
彼の手がガウンの上から尻のラインを確かめるように撫で上げていく。
その動きに、体の中で燻っている熱がじわじわと甘い痺れとなって広がっていった。
(気持ちいい……)
痴漢の手の動きの何倍も優しい動きに、うっとりと目を細めてしまう。
顎を上向けて吐息したところに、彼の薄い唇が重ねられる。
厚い舌が口内を蹂躙し、俺の舌を絡めとる。
「ん……っふ……ぅ……っんん」
彼とのキスは大好きだ。クチュクチュと音を立てて舌を絡ませているだけで、頭の芯がジン……と痺れてくる。
まるで高性能の媚薬でも使われているような酩酊感が心地よい。
「――私の許可なく瑛太に触れるとは、許される事ではないな」
「だろ?俺が貴方の恋人だってこと、みんな知っているはずなのにね」
「すぐに見つけ出して処罰してやるから安心しろ。そんなヤツを野放しにしてはおけん」
象牙色の牙を剥き出して怒りを露わにする彼の頬にそっと手を添えて、俺は微笑んだ。
「ホント、俺のことになるとムキになるよね?」
「当たり前だ。すぐにでも伴侶にしたいと思っている最愛の男に手を出されれば、黙ってはいられないだろう?」
「俺、まだ返事してないよ?」
クスッと笑って、頬にキスをする。
俺は超絶イケメンのこの男――闇の世界を統べる魔王である眞欧にプロポーズされている。
奴隷街をウロついていた俺に一目惚れし、この魔王の邸に連れて来られた。
それから毎晩のようにたっぷりと愛されている。
しかし、俺は一人の男に縛られることを嫌う体質で、彼の目を盗んでは他の男と体を重ねている。
それを知っていても絶対に怒ることはしない。だが、俺の相手の男はことごとく処刑されているという噂だ。
眞欧は俺を溺愛し、俺もまた彼を愛している。
でも……まだ、落ち着く気にはなれないでいるというのが現状だ。
この体を満足させてくれる男を求めて、この闇の世界を自由気ままに飛び回るのも悪くない。
そんな俺を欲し、嫉妬してくれることが嬉しくて仕方がないということは、絶対に彼には内緒だ。
「返事などなくても、お前は私の妻になる男だ。誰のモノでもない」
「じゃあ、首輪でもつけて鎖でつないでおく?俺はまだ自由でいたい」
「――責める気はない。だが、束縛はしたい」
「わがままだな。いっそのこと束縛してよ……。雁字搦めに……。出来るもんならねっ」
俺は彼の腕からすり抜けるようにして立ち上ると、カウチソファの背凭れに両手をかけ腰を突き出した。
ガウンの裾をゆっくりと捲りあげ、形のいい自慢の尻を見せつける。
自分で解した双丘の間の蕾から、つつっと白濁が流れ落ちた。ここに来る前に持て余した熱を発散してきた証だ。
相手の名前ももう覚えてはいないが、明日には彼の部下の手によって呆気なく死を迎えている事だろう。
そんなことは俺の知った事じゃない。
肩越しに振り返って、誘うように唇を舐めると、眞欧はチッと舌打ちした。
「このビッチが……。どこの雑魚とも知れぬ男と交わりおって」
「そのビッチに惚れてるのはどこの誰?」
広い寝室に焚き染められた甘い香の香りが揺らいだ。
鍛えられた逞しい体を惜しむことなく晒した彼が立ち上がると、俺の腰を引き寄せるように抱きしめた。
その腕の強さも、欲情した息遣いも、すべてが愛おしい。
自分だけを愛してくれているという自信が、俺をより妖艶にさせていく。
「眞欧……」
「あぁ……瑛太。今宵も朝まで離さないからな」
「エッチな眞欧、好き……」
蠱惑的に笑う俺に、まんざらでもないと微笑む彼。
二人の唇が再び重なろうとした時、部屋の入口に立つ気配に眞欧の鋭い視線が向けられる。
音もたてることなく、そこに立っていたのは黒いスーツに身を包んだ長身の男だった。インテリぶった眼鏡が俺の不快指数を増幅させる。
「――黒井、邪魔をするなと言ったはずだろ」
イラついた声で言い放った眞欧に対し、黒井と呼ばれた男は抑揚のない声で言い返した。
実に事務的で感情のない声音だった。
「そろそろお時間です」
その声に、俺はわずかに目を伏せた。
黒井が発するこの言葉は俺たちを引き離す呪文。魔王である彼さえも抗うことが出来ない。
「これからという時に……っ。お前というヤツは」
「首を刎ねますか?もう、何百回と繰り返されて、私は慣れっこになってしまいました」
淡々という彼に「うぐ……っ」と言葉に詰まった眞欧の手をそっと解いて、俺はゆっくりと黒井の元に歩み寄った。
国を統べる魔王の側近であり、身の回りのことを全てこなしている彼。
時に眞欧さえも説き伏せる力を持った従者は、誰に対しても毒を吐く。
「――慣れるなよ、そんなこと」
ボソリと呟いた俺を、冷たい瞳が眼鏡のレンズ越しに睨みつける。
「奴隷風情が……」
「なにっ」
眞欧の前で決して言ってはいけない一言を口にした黒井の首が瞬時に跳ね飛ばされる。
足元に転がった首は唇を歪ませたまま俺を睨んでいた。
「――さっさと行きなさい。時間が迫っています」
俺は肩越しに最愛の恋人を見つめ、ゆっくりと唇を動かした。
「あ・い・し・て・る」
声に出さなくとも理解してくれた彼は、優しく微笑んでくれる。
やはり、俺が戻る場所はここしかない。
彼の腕に抱かれて、愛されていたい。
ずっと、ずっと……。
わずかな時間でも彼と離れることを嫌がる心、それに抗うように自由を求める体。
俺は溢れそうになる涙をぐっとこらえて、彼に背を向けた。
「またね……。眞欧」
声が震える。込み上げる嗚咽を我慢しながら、甘い香の香りを纏ったまま寝室をあとにした。
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