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第2話

 ガタンッ!  不意に足元が掬われるような感覚に、体が大きく揺れた。  握りしめていたマウスが汗ばんでいる。 「っぬは……!はぁ、はぁ……ぁぁ……夢?」  デスクに広げられた書類に額を押し付けたまま眠っていたらしい。  最近、この手の夢をよく見る。  専務である眞欧が本物の魔王設定で、俺はその恋人……。  デロデロに甘やかされているが、本人はいたって自由気ままに他の男と寝まくっているという、実に夢ならではのあり得ないシチュエーション。  リアルの俺がもしこんなビッチであったなら、今頃は忍を掌で転がしながら、密かに想いを抱くリアル眞欧をそそのかしているところだろう。  そんな絶対にあり得ない世界から一気に現実に引き戻された俺は、眩いばかりの光を放つパソコンのモニター画面に一文字も打ち込まれていない超現実を突きつけられ、軽く眩暈を覚えた。 「今日は家に帰れない気がする……」  失意のどん底に突き落とされ、その出口さえも塞がれた俺。  足掻けば足掻くほど足元を掬われていく。今夜中にこれを仕上げなければ魔王の逆鱗に触れることは間違いない。 「まったく……仕方のない奴だな」と苦笑いで許してくれる夢の中とは違うのだ。  キス一つですべてが許されるというのならば、俺は恥も外聞もかなぐり捨てて同僚の目前で魔王のイチモツを咥えてもいい。  ついでに、幾人もいるであろうセフレの一人としてこの身を捧げる!  なぜか夢の中のビッチキャラを引きずっている自分の思考に辟易し、現実逃避も甚だしいと大きくため息を吐く。 「誰がビッチだよ……。そんな度胸も才能もないくせに」  空になったコーヒーカップを覗き込み、重い腰を上げる。  ギシッと軋んだ椅子の音が、今夜会うはずだった忍への想いとラップして、どうにもならない自分を嘲笑った。  今日、会わなかっただけで関係が終わるなんて……そう思っているのは自分だけなのだと。  被害妄想もいいところだ。  自分は彼に愛されている。じゃあ、それでいいじゃないか。  何度言い聞かせても拭えない不安は、一体どこから湧き出てくるのだろう。 「ホント、俺ってメンドクセー奴だよなぁ……」  フロアの壁沿いに置かれたカウンターにはコーヒーメーカーや給湯ポットが置かれている。 そこに向かい、もうすっかり煮詰まり、いい香りを放つことを忘れたコーヒーをカップに注ぎながら、白い天井をぼんやりと見上げた。 * * * * *  翌朝、会社近くにある漫画喫茶から出勤した俺は、とりあえずコンビニへ飛び込んだ。  スーツはまだしも、昨日と同じネクタイをしていたら同僚に何を言われるか分からない。  ありもしないことで冷やかされるのも癪だし、それを笑顔でかわす力も今の俺にはなかったからだ。  サンドウィッチと缶コーヒー、そして可もなく不可もないデザインのネクタイをカゴに入れてレジに向かう途中、雑誌を立ち読みしていた二人のサラリーマンの会話に足を止めた。 「おい、あの例の痴漢、ついに捕まったらしいぞ?」 「マジか?男ばっかり狙ってた奴だろ?俺も一度だけ尻撫でられたことある」 「被害報告がかなりあったみたいで、あの時間帯の車両に私服警官が張り付いてたみたいだ。そこで現行犯逮捕……」 「その警官って、あいつの好みそうなタイプ選んだのかもしれないな。ほら……俺みたいなイケメン」 「バカか……。おっと、時間潰し過ぎた。行くぞっ」  慌てて開いていた雑誌を元の棚に戻し、重そうなブリーフケースを持った二人はそそくさとコンビニを出て行った。  昨日の朝、電車の中で精液をかけられたバッグをじっと見つめた。  確かに、いつも利用する路線のラッシュ時間帯は痴漢が多いとは聞いていた。  その噂は圧倒的の女性目当てのモノが多かっただけに、まさか男をターゲットにする奴がいるとは思ってもみなかった。  ふと、昨夜の夢を思い出し、魔王の逆鱗に触れた痴漢が処刑された図を思い浮かべて、思わず笑みが浮かんだ。 こうもタイミング良く捕まるとは……。 デジャヴのようにも思える出来事に、ほんの少しだけ気分が軽くなった。 終電を逃し、深夜まで報告書を頑張って作った苦労が報われた……と思うべきか。  会計を済ませ、安いネクタイを結びながら歩き出す。  歩道沿いに並ぶショップの窓ガラスで寝癖を整えながら、俺は足早に会社へと向かった。 * * * * * 「――っや。はぁ……やめて……くだ……さ、いっ!」  不躾な皺だらけの手がスラックスの生地越しに臀部を撫でる。  滅多に社員も利用しない非常階段の冷たい壁に押し付けられたまま、俺は嫌悪感に顔を歪め低く唸った。  なぜ、こんなことになっている?  俺はただ……打ち合わせをしたいと原田課長に呼び出されただけだった、はず!  それに、自身がゲイであるということは社内では公表していない。  それなのに、それなのにぃっ! 「君のお尻は罪作りだね……。ここで何人の男のモノを咥えたんだ?んん?」  耳元にフッと息を吹きかけられる。その息がやけにミント臭い。  最初からこうするつもりで準備していたとしか思えない。同じ営業部の上司にセクハラされている俺。  このままではトイレに連れ込まれて最後まで致しかねない。  仕事はロクに出来ないくせに、女子社員だけにとどまらず男性社員にも手を出していると噂の原田。  前々から俺を見る目がやけに粘着質だということは気付いていた。だから、ゲイオーラを極力抑え込んで、彼の前では女性の話を努めてするようにもしていた。  しかし、どこでどう漏れたのか――いや、俺がゲイだということがバレたかどうかは分からないが、ついにターゲットにされてしまったらしい。 「課長……こんな事、誰かに知られたらっ」 「知られたら……何だというんだ?君も同罪だぞ」 「はぁ?!どうして俺が……同罪なんですかっ」 「こんな触り心地のいい尻を俺の前にチラつかせやがって……。あぁ、この尻に顔を埋めたい!身体中を舐め回して、君の可愛い声を聞きたい……」  俺は肩越しに禿げかけた頭を睨みつけながら、こみ上げる吐き気に身を震わせた。 (変態かよ……コイツ!)  男に撫でられることは慣れている。あの痴漢でさえ吐き気を伴うことはなかった。  ――ということは、原田に関しては生理的に受け付けない相手だということが明白だ。  今はまだ洋服の上からではあるが、もし生で触られたりしたら……。  想像するだけで背筋が凍り、全身に鳥肌が立った。  年齢の近い眞欧とはまるでタイプが違う。このシチュエーションで、俺を背中から押さえつけているのが彼だったら……。  おい――ちょっと待て!  なぜ俺は眞欧の事ばかり考えているんだ?俺には忍という恋人がいるはずで……。  原田の手が前に回り込み、完全に萎えたままの場所を乱暴に弄る。 「いっ!いや……だっ!やめ……ろっ」  不快指数はとうに限界を突破し、俺の額には脂汗が滲んでいた。 「浦沢……。このまま外回りに出て、ホテル行こうか……」  何度触っても絶対に勃つことのないその場所。下着が擦れて痛みさえ感じる。  思い切り殴り倒して逃げ出したい。  でも、上司だけに後々の事を考えてビビっている自分がいる。 「原田……課長っ!」  苦し紛れに一際大きな声を上げた時、廊下の方で硬い靴音が聞こえ、俺はホッと肩を撫で下ろした。  原田の手がピタリと止まり、息をひそめているのが分かる。  この現場を見られたら現行犯で役員に通報されることは間違いない。 「助け……っうぐ!」  声を上げようとした俺の口を乱暴に塞いで、原田は荒い息を繰り返していた。  靴音はだんだんと近づいて来る。  非常階段の入口には鉄扉があるが、それを開ける者はまずいない。  俺は人知れず、この男に犯されてしまうのだろうか……と、昨日からのツイていない自分を呪った。  痴漢、取引先の夜逃げ。そして今日は犯罪まがいのセクハラ。  息苦しさと情けなさで自然と涙が滲む。  目尻に溜まった滴を何とか零さないように、ギュッと奥歯を噛みしめた。  ギィ――。  錆びた蝶番が擦れる音と同時に細く鉄扉が押し開かれる。  俺は目を見開いたまま、何とか声を出そうと暴れた。 「――誰か、いるのか?」  静かな階段室に響いた声に、俺の体が即座に反応した。 「うー!んんーっ!」  先程までの原田の感触を上書きするかのように、背筋に甘い痺れが走り、無意識に臀部に力が入る。  キュッと締めた蕾がウズウズと疼き、体中の熱が逆流し始める。 (なんだ……これっ)  体の異変を原田に気付かれないように、漏れてしまいそうになる吐息を必死に我慢する。 「おい、返事をしろ……」  低く甘い声が反響し、俺の腰が重怠くなってくる。  声の主――それは眞欧だった。  こんな場所に彼が訪れることなどまずない。それがどうだろう、今日に限って非常階段に現れるなんて……。  原田もそれに気づいたようで、マズイという顔で小さく舌打ちを繰り返している。  彼にとっても専務である眞欧は脅威なのだ。 「んー!うぅーっ!うーっ!」  折り返しの階段を駆け上れば、上階まではそう時間はかからない。  反応がないにもかかわらず近づいて来る靴音に、原田の手も緊張で汗ばんでいる。 「――おい、この事は誰にも言うんじゃないぞ。いいなっ」  耳元で吐き捨てるように言った原田は俺の体を突き飛ばすようにして、踊り場から一気に階段を駆け上がり上階の鉄扉から廊下へと逃げた。  急に突き飛ばされたことでバランスを崩した俺はその場に派手に倒れ込んだ。  その音に気付いたのか、眞欧が足早に近づいてくるのが分かった。 「浦沢?」  乱れたスーツ、曲がったネクタイ。涙目のまま床に倒れ込む俺を上から見下ろす彼の鋭いこげ茶色の瞳。 「専務……。お、お疲れ様、です」 「こんなところで何をしているんだ?」 「何でも……ない、です。ちょっとコケちゃって……」  訝し気に頭のてっぺんからつま先まで見下ろす彼の視線が見えない縄のように体に絡みつく。  猛禽類のようなその目が、昨夜の夢の中の深紅の瞳と重なる。  トクン……。  心臓が高鳴る。触れるでもなく、ただ見つめられているだけで体がウズウズし始める。  夢の余韻がまだ残っているというのか。いや、そんな馬鹿なことがあってたまるか! 「――誰かに、何かされたのか?」 「い、いえ!そんなことは……ありませんからっ」  視線から逃れるように顔をそむけ急いで立ち上がると、乱れたスーツを直し、埃を払い落とした。  間合いを詰めて来た眞欧がいきなり俺の顔の横に手をついた。 (か、壁ドン?!)  すぐ近くにある端正な顔立ちを恐る恐る見上げ、俺はコクリと唾を呑み込んだ。 「まさか――お前が誘い込んだわけじゃないだろうな?」  感情のない瞳がすっと細められる。  闇を統べる王の瞳……。  俺はその鋭い光を湛える彼の目が好きだ――って!それは夢の中の俺!  思わず見惚れそうになってしまった自分の意識を呼び戻し、力強く首を左右に振った。 「俺がそんなこと……。しません!絶対にあり得ませんからっ」 「本当だな?」  首をわずかに傾けながら疑う彼。  これがあの夢の中の彼であれば、この場で服を脱がされていきなり尻に……あの驚異的な大きさを誇るイチモツを突っ込んでいる事だろう。  耳元で何度も「愛している。俺のモノだ」と囁きながら……。  先程からキュンキュンと疼く蕾が夢と現実を混同してしまっている。  これでは夢精と変わらないではないか。 「――逆に。専務には、俺がそういう人間に見えるってことですか」  喉の多くが震え、上手く声が出ない。  頭の回転が速いビッチな俺ならば、もっと気の利いたことを言って窮地を逃れることだろう。 「いや……。そうは見えない」  きっぱりと言い切った彼はゆっくりとその体を離すと、乱れた前髪を後ろにかきあげた。  その仕草もまた男の色気が駄々洩れている。  俺はもう一度、コクリ……と唾を呑み込んだ。 「――仕事に戻れ。報告書は私が目を通して上にあげておいた」 「あ、ありがとう……ございます」  原田から逃れた安心感と、報告書が無事に彼のチェックをクリアしたという達成感に、ずっと押し留めていたはずの涙が頬を流れ落ちた。  それを見た眞欧の片方の眉がピクリと動いたことを見逃さなかった。  感情を出さずに、冷酷な判断を下す社内きってのドS専務が、俺の涙に反応した瞬間だった。  しかし、彼は何事もなかったかのように背を向けて足早にその場を去っていった。  鉄扉が閉まる音が響く。その音は、非常にも牢屋に取り残された奴隷のような気分にさせた。 * * * * *  複雑な気持ちを抱えたままフロアに戻ると、眞欧の秘書である黒井が誰かを探すかのように視線を彷徨わせていた。  背後からそっと彼を除けるように足を踏み出した瞬間、俺の顔を見るなりインテリ眼鏡越しの冷めた目が、まるで汚いものでも見るように細められた。 「何か、ご用ですか?」  不躾な態度にイラつきながら声をかけると、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら小さく咳払いをした。 「天城専務が報告書のデータが欲しいとの事です。USBメモリーに早急に入れてください」  事務的な口調はまるでプログラムされたロボットのようで人間味が感じられない。  しかし、俺よりもはるかに有能であることは、あの厳しい眞欧が手放さない事でも分かる。  眞欧が信頼を寄せる秘書であることで、社内でも一目置かれた存在である彼に逆らう者は誰もいない。  一番敵に回したくない相手だ。 「ちょっと時間貰えますか?」 「急いでいます」 「だから……。俺だって今、戻ってきたばかりで、パソコンだって立ち上がっていない」 「――本当に食えない男ですね」  吐き捨てるように言った彼が昨夜の夢と重なる。  夢の中の彼も、俺が元奴隷街出身というだけで上からの物言いをする。  そのたびに魔王に首を刎ねられるという役目なのだが、なぜ夢の中に彼が出て来たのかが未だに分からない。  自身の潜在意識の中にあったという事だけでも不愉快で仕方がない。 「どうしてこんな使えない男を部署に置いておくのか……。天城専務の気が知れない」 「ほっとけよ!」と喉まで出かけた言葉を呑み込んで、俺はイラついたままデスクに戻った。 (今度夢に出てきたら、絶対に俺たちの邪魔はさせないからなっ!)  パソコンの電源を入れながら、肩越しに黒井を睨みつける。それに気づいたのか、彼はフンッと鼻を鳴らした。

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