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第3話
「――忙しかったんだな。ごめん」
「いいんだよ。ドタキャンしたのは俺の方だし……」
N社のゴタゴタがひと段落して、やっと忍と会う時間が出来た。
ほんの数週間会えなかっただけで、随分と顔を見ていないような気がした。
なぜか恥ずかしさが先立ち、彼の顔を直視できない。
「どうしたんだ?瑛太、何かあった?」
「いや……。何だか照れくさい」
「相変わらず可愛いなぁ。ベッドの上でもその調子で頼むよ」
腰をグッと引き寄せられ、唇を重ねる。
その時、俺はなぜか違和感を感じた。
重なっているはずの唇の間に、見えない何かが挟まっているように感じられ、直接触れていないような気がしたのだ。
あり得ない事ではあるが、忍との間に何らかの隔たりがあるように思えて、俺の方からそっと唇を離した。
不思議そうな顔で見つめる忍はまだ、俺が照れていると思っているようだ。
もう一度キスをしようと顔を近づけた時、俺は無意識に顔を背けていた。
「瑛太?」
「あ……ごめん。キスの仕方、忘れたみたいだ」
そんなことは絶対にない。そう――昨夜だって夢の中で、眞欧とキスを繰り返した。
厚い舌が口内を蹂躙する感触はやけにリアルで、俺は目が覚めてからもそのキスの余韻を抱いたまま、自分で抜いたぐらいだ。
毎晩のように抱かれている設定になっているが、その決定的瞬間は映像化されない。
寝る前に何度願ってみても、彼と繋がれないままに朝を迎えてしまう。
そのたびに黒井が現れて「そろそろお時間です」とバカの一つ覚えのように別れの呪文を告げる。
キスを強請る俺の太腿には大量の白濁が伝い落ちているというのに……。
もしかしたら、ビッチな俺は彼とは繋がっていないのではないかと思えるほどセックスシーンがない。
「――瑛太?ねぇ……聞いてる?」
「え?あぁ……うん。ボーっとしてた。ごめん」
「疲れてるのか?今日はもう帰ろうか?」
どこまでも優しい言葉をかけてくれる忍に、俺は彼といながらにして全く別の男との事を考えていた罪悪感に苛まれた。
忍とは別れたくない。でも――夢の中の眞欧に抱かれたい。
今の俺はどっちが本物なんだ?
貧しい生活を強いられている奴隷街でふらつき、闇を統べる魔王に拾われ、溺愛されているビッチか……。
それとも一流企業の営業マンで、日々不満を抱きながらも自身を愛してくれる恋人がいるリア充か……。
もしも、もう一つの世界――パラレルが存在するというのなら、どちらも正真正銘の俺なのだろう。
俺を抱きしめて額にキスを落とす忍の香水がいつもと違っていることに気付く。
ブランドを変えたのだろうか。しかし、今まで使っていたものを気に入っており変える気はないと言っていたことを思い出す。
「瑛太……。お前が元気になったら、ゆっくり食事に行こう?それまで待ってるから」
「ごめん、忍……。俺……」
「いいって。俺のことは心配しないで。会えなくてもお前のことを愛する気持ちは変わらないから。ね?」
「忍……」
ゆっくりと彼が離れていくと、二人の温度が急激に下がっていく。
まるで気持ちの温度と比例するかのように……。
「じゃあ。気をつけて帰れよ。家に着いたらSNSでメッセージ頂戴!」
手を振りながら笑顔で去っていく忍の背中を見送る。
どこまでも俺の事を想ってくれる恋人――そう思った。
さりげなく腕時計に視線を落とし、足を早める彼を見るまでは……。
終電に遅れるという時間ではない。それなのに、やけに時間を気にする後ろ姿に俺は一抹の不安を覚えた。
疑いたくはない。しかし、さっき感じたキスの違和感を思い出し、ゾクリと背筋を震わせた。
嫌な予感……。
女性が彼氏に抱く疑念。それに限りなく近い感覚。
「浮気……とか」
彼に限ってあり得ないと何度も否定する。笑顔で優しい眼差しを向けてくれる忍に限って……。
俺は自分を抱きしめるように腕を掴むと、近いうちに突き付けられるであろう現実の恐怖に震えていた。
* * * * *
その夜――俺は夢を見なかった。
忍に対する不安を夢の中で眞欧に慰めてもらおうとしたのがいけなかったのか。
眠ろうと目を閉じれば、忍の後ろ姿がチラつき、心臓が異常なまでに早まった。
喉が渇く、胸が苦しい……。
何度も寝返りを打ってはため息を吐く繰り返し。
逢いたい……。誰に?
今、本当に逢いたい人は忍?――それとも眞欧?
広い胸に顔を埋めて眠りたい。その相手は……。
「――もう、俺……分かんないよ」
暗闇でそれまで抑え込んでいた弱さが口をついて出る。
愛しているはずの忍への疑念、予想以上に自身の中で大きくなっていく眞欧の存在。
あんな夢なんか見なければ良かった。そうすれば、憧れだけで済んでいたはずだった。
「眞欧……」
届くはずのない相手に助けを求めるようにそっと呟く。
夢の中でいい。俺を甘やかして、愛して欲しい……。
甘い香りに包まれながら、彼の凶暴な楔で貫かれて果てたい。
俺は溢れてくる涙を止めることが出来ずに、そっと腕で目を覆った。
* * * * *
朝方になって、浅い眠りの中で眞欧に会うことが出来た。
しかし、彼の体は半分透けていた。
力強い光を湛える深紅の瞳が、今日はなぜか憂いを含んでいる。
何も言わずに俺の頬に添える手もいつもの力強さは感じられない。
「眞欧……?」
「――瑛太。お前が本当に愛しているのは誰なのだ?」
「それは……っ」
「私がどれだけ愛情を注いでも、お前はそれに応えてはくれないのか?そんなにあの忍という男が好きなのか?」
「違う……っ」
「じゃあ、なぜ……。私を拒む?本当のお前を曝け出さない?」
「本当の俺って……」
ゆっくりと目を閉じて、薄い唇を重ねる。
その感触が忍の時と同様、何かに阻まれているような気がして俺は目を見開いた。
すぐそばにある眞欧のスーツの袖をギュッと握り、崩れ落ちそうになる体を何とか支えた。
「――お前の唇が遠い。心が……気持ちが離れてしまったようだな」
「眞欧?」
「何にもとらわれないお前の心が欲しい……。私だけを愛するお前が」
きつく眉を寄せた彼が不意に背を向ける。
それが忍と重なって、俺は思わず手を伸ばしていた。
「待って……!俺を……俺をっ」
言いかけて言葉を呑み込んだ。
中途半端な想いで二人を都合よく天秤にかけているのは俺だ。
彼に言い訳出来る立場ではない。それに――引き留める資格もない。
キャンドルの明かりも消えた暗闇に吸い込まれるように消えていった眞欧を見つめ、俺はその場に膝をついた。
冷たい大理石の床が、体を冷やしていく。
遠くで黒井の声が聞こえたような気がしてパッと顔を上げてみるが、彼の姿は見当たらなかった。
広い彼の寝室に一人でいたことなど今までなかった。
だんだんと冷えていく空気と、薄れていく彼の香りが俺の意識を混濁させた。
そして次の瞬間、ぐらりと体が傾いて床に倒れ込んだ。
* * * * *
ハッと息を呑んで目を覚ます。
涙で濡れた頬が冷たい。
ベッドサイドの時計を見ると、あと数分でアラームが鳴る時間だ。
満たされないままに目を覚ましたことは初めてで、戸惑いしかない。
今日、会社で眞欧と顔を合わせても、まともに彼を見れる気がしない。
たとえ夢の中であって現実とは違ったとしても、あんな切ない彼の顔を見てしまった以上、平常心を保っていられる自信はない。
無表情で感情を出さないリアル、感情豊かに俺に愛を注いでくれるパラレル。
夢の光景が鮮明に思い出されて、俺はまた涙を流さずにはいられなかった。
「眞欧……」
忍と別れるのは嫌だ。しかし、眞欧と夢の中で会えなくなるのはもっと辛い。
現実ではあり得ない彼との逢瀬を楽しむビッチの俺……。
色香を放つ端正な顔立ちと、筋肉質の体躯……。
あのスーツの下には俺が求めている身体が隠れているに違いない。
それを思うだけで下肢に熱が集まってくる。
俺はベッドに横たわったまま、スウェットパンツのウェストにそっと手を忍ばせて、力を持ち始めたペニスをゆるゆると扱き上げた。
「はぁ……あぁ……まお……ぅ」
なぜか口をついて出るのは、恋人である忍ではなく眞欧の名ばかりだった。
俺の気持ちいいところを知っている男、快楽と溢れんばかりの愛情をくれる男……。
いつの時も……心を満たし、不安を取り除き、自信と安らぎをくれる。
彼の温もりと、あの低い声を思い出しながら、俺は淫蕩に耽った。
カーテンの隙間から射し込んだ朝日に照らされてもなお、再び夢の世界へと向かいたくて……。
目を閉じたまま、何度も彼の名を呼んだ。
最愛の伴侶となる闇を統べる魔王の名を――。
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