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御狐様拾いました
「かんじーざいぼーさーつぎょうじん~」
月明かりに照らされた田んぼのあぜ道を、ベロンベロンに酔った若い僧侶が一人ふらふらと歩いている。闇にまみれて見えない草むらからは虫とカエルの大合唱。僧侶が歩くたびにその音がぴたりと止まって、しばらくするとリリリ……とまた奏で出す。
「 はんにゃーはーら~ みったじーしょうけんごうんーかいくうーヒック」
慣れ親しんだ念仏を唱える滑舌すらも最早怪しく、完全な泥酔常態だ。
「 どいっさい~く~や~く~ しゃりしー しきふいぃぃぃくうー 」
頬を撫でる冷たい夜風が気持ち良く、ふらふらともつれた足を畦道によろけさせた僧侶は、そこら辺の石にけっつまづいて草むらの中に尻もちをついた。
「いってー」
転んじゃったよ。
法衣の袂を引き寄せて、ふと見上げた空に星が瞬いている。酔って火照った体に夜風も気持ちいい。起き上がる事をやめて草むらの中に大の字になると、風に流れた雲が月を隠して辺りがしんと真っ暗になった。
その時。
「……誰なり。我の眠りを妨ぐる不届き者は誰なり」
虫の音が止んだ闇に染み入るようなか細い声が聞こえた気がした。
空耳だろうか。
僧侶は首を捻りながら辺りを見回すけれど、月明かりが無くなったせいで真っ暗になってしまって何も見えない。しばらく待っても虫の音も蛙の声も始まらずに、夜の闇はいよいよ深さを増して行く。
こうなると葬式に慣れていても不気味なもので、ひたひたと不穏な何かが近付いて来ているような気さえする。僧侶は手首に付けているオニキスの数珠を音を鳴らした。
カチリ……。
目の前にすっと何者かの気配が立ったのはその時だった。息がかかるほど顔のすぐ側で二つの大きな瞳がキロリと光った。
「うわぁぁぁぁっ!」
出た!
なんか出た!
それが何なのか確かめる前に草むらを這いずる勢いで逃げ出そうとしたが、運の悪い事に僧侶は仰向けだった。仰向けで四足歩行なんて芸は普通の人間には出来ない。
「待たれ」
待たない。こんな時に待てと言われても待て無いに決まってる。
「ぎゃあぁぁぁ悪霊退散っ、エロエムエッサイム!」
最早宗教が違う。
「えろ……?我が名は清涼(せいりょう)えろではない」
「せい?え?」
すうっと風が吹いて月を隠した雲が流れると、辺りにまた銀の明かりが射して山々が影を取り戻して行く。リリ……リリリリリ……虫の音が帰って来た。
「なんだ、脅かすなよ」
落ち着いて見れば僧侶よりも幾らか年下に見える人間で、ほっと胸を撫で下ろした。
それにしても相手は闇夜にぼんやり白い狩衣姿という妙な格好をしている。今の日本でそんな物を着ているのはコスプレイヤーか神社勤めくらいなものだ。こちらも盆の檀家回りで法衣を着ているのだから人の事は言えないけれど。
「神社さんですか、お疲れ様です」
浮かぶシルエットは長身なので男かと思ったけれど、よく見ると後ろで束ねた髪が長いので女性かも知れない。
「あ、俺はすぐそこの山寺の僧で、紅葉(こうよう)です。この時期お互い大変ですね」
この辺りに神主の居る神社はあっただろうか。酔った頭で考えても思い出せないし、思い出す気も無い紅葉はヘラリと愛想笑いを浮かべた。何しろ過疎化の進んだ田舎町だ、跡取りの居なくなった寺は檀家を近くの寺に頼んで畳むか本山から新しい住職を派遣して貰っているご時世、もしかしたらネットの密林から派遣された出張神主かも知れない。
「紅葉と申すか。して、何用?」
「は?」
紅葉は声の低さから相手を男だと判断した。そうと分かればみんな友達。
「用って、えーと。じゃあ一緒に呑みますか?」
「は?」
出会った酒飲みはみんな仲間で、飲んで無ければ飲ませりゃいい。
「寺にいい酒有るんですよねぇ、檀家さんが持って来てくれたんですけど、和尚に見つかる前に隠しといたやつ」
「ほう、我に酒を供えると?」
「本堂に行けばお供えに何でも有るよ。ツマミは何が好き?」
「生米」
「ツウだな。俺、それは食えねぇや。よし行こう」
清涼と名乗った彼の肩を馴れ馴れしく組んで歩き出すと、足元の草むらでまた虫の音が止む。二人で居ればそんな音も気にならなくて、紅葉はなんだか楽しくなって来た。
「ところで清涼どこから来たの?あ、俺は紅葉って呼んで」
「山寺の紅葉か。あぁ、そういえば山に捨てられた赤子がおったな。和尚が拾うたので我は寝入ったが、随分と育ったものだ」
「あれ?良く知ってるね。和尚の話じゃ俺は生まれたばっかの頃に山に埋められてたらしいけど」
「命が途切れるとあんまり泣くので目を覚ましてな、風に命じて朽ちた葉をば布団にさせた。そうか、あの赤子は育ったか。良い良い」
「は?」
ダークなネタをノリのいい冗談で返されたという事にして、紅葉はもしかしたらと思う。会合で和尚が死んだ後の檀家問題にでもなったのかも知れない。それで紅葉の名前に聞き覚えがあったとか。
そんな事より肩を組んだ清涼から白檀の香りがして、いい匂いだと紅葉は胸いっぱいに吸い込んだ。ポニーテールにまとめている髪がさらりと頬に触れて、冴えた月明かりが照らし出した横顔が思いがけず可愛い。丸みを帯びた柔らかそうな輪郭は女性的で、鼻の頭が生意気そうにちょっと尖ってる。印象的な目は切れ長なつり目の狐顔美人系。
声で男と思ったけれど、もしかしたら女の子だったのかも知れない。背が高いのでスラリとして綺麗だし、ヤバいくらいにイイ女。
「清涼、一応聞くけど、男だよね?」
「我が女に見えるか?」
くりんとこちらを向いた可愛い目が睨んで来る。ちょこん小さなおちょぼ口をアヒル口に尖らせて、性別なんかどちらでも構わない可愛らしさ。
「見える」
「貴様の眼は節穴じゃな、こんな醜女が有ったら不幸なり」
醜女とは随分な謙遜で、紅葉は清涼の耳もとに唇を寄せる。
「俺は好き。清涼みたいな綺麗な子に会った事無いよ」
一応口説いてみないと始まらないわけで、何しろ相手は家まで来ると肩を抱かせてくれる上に、耳元で囁いてもくすぐったそうに肩をすくませただけで逃げないのだから。紅葉は腕を肩から腰に移動させて身体を密着させてみた。
「ねえ、彼氏居ないの?」
「そのような者はあった試しが無い」
誰にも遠慮は要らないらしい。
目の前に有る白く細い首筋から香る白檀の匂いが、紅葉にとっては寺で四六時中炊いている嗅ぎ慣れた香の匂いだけれど、清涼から香ると妙にそそる。
「ねえ、いいの?」
笑い声に混ぜて耳元でヒソヒソと尋ねながら、唇をこめかみに掠めさせてみる。それでも逃げないのだからいいのだろう。けれど袖で拭ってくすぐったそうにしている清涼からは、OKの合図が出て来ない。
「ねえ、俺でいいの?」
はっきり返事を貰わないととんでも無い事になってしまうので、笑いに混ぜてねぇねぇと何度も確認するのに、清涼はちゃんと頷いてはくれない。
そうこうしているうちに寺の門まで来てしまって、門の前で仁王立ちになっているステテコ姿の和尚に紅葉は足を止めた。時間的に普段ならもう寝ているはずの和尚が、外灯の明かりにハゲ頭をテカらせながら待っている。
「この、バカ者がぁっ!」
そして帰宅した紅葉を見るなり、こめかみに血管を浮き上げさせて怒鳴った。
「えっ、なんで」
「なんでじゃない、妙な気配に起きてみればお前は何を連れて来たんだ。未熟者が」
「何って……」
隣に居るのは身を寄せていちゃいちゃ歩いて来た清涼だけ。
「や、別に下心があった訳じゃ無くて、酒。そう、一緒に酒を飲もうって話になって」
「お前の下心なんぞ透けて見えるわ。化け狐の色香に誑かされおって、自分から招き入れてどうする。寺の結界もへったくれも無いわ!」
「……狐?」
誰が狐?
化け狐?
確かに清涼は狐顔だけど人間で、狩衣を着た二足歩行の狐なんか存在しない。
「和尚こそ何言ってるんですか。こんな綺麗な方にいきなり失礼ですよ、ボケたんですか」
「見抜けぬから未熟者と言っておる。お前は何か?こんな夜更けにそんな妙な格好の若者が出歩いていて、普通と思うか?」
「普通……ですよね」
紅葉は自分が着ている法衣を見下ろした。
普通かどうか問われたら、盆の檀家周りでこの時間まで法衣で出歩いていた自分がここに居る。
「俺ばっか働かせて自分はさっさと寝たくせに」
恨みがましい目を向けると、和尚はもう年だから……と咳払いでごまかした。
「とにかく来い。坊主が悪霊に憑かれるとは、仏様に顔向け出来んよ」
急に年老いたふりで背中を丸めた和尚が背を向けて門の中に歩いて行った。
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