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第17話

 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五 蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不……。  廃墟の外で修行僧達が心経を唱える声が聞こえる。四方八方から聞こえる低い読経の声は燃え盛る炎の音とあいまって、中に居る紅葉に地獄の業火を連想させた。  もはやこれまでか……壊れかけた木造建築など燃え尽きるのに時間はかからないだろう。パーンっと柱が割れる音が響いて、風に煽られ炎が爆ぜる。赤い火花が散る。 「ゴホッゴホッ……お前ら、逃げ……」  煙に喉をやられて上手く声が出ない紅葉を、あなたの方が逃げた方がよろしいですよと、地蔵が平然と見ていた。かまどから拾い上げた自分の頭を石の胴体が胸に抱く姿はなかなかホラーな可愛らしさ。 「平気そ、うだ、ゴホッ、な」 「本体石なんで」  ……そうですか。  もう片側では清涼がこれまた涼しい顔だ。 「我は幽霊」  ……そうですか。  こうなると何を必死に助けに来たのか、悲しみも怒りも通り越して無の境地に達しそう。来るんじゃなかったと紅葉は激しく後悔した。  賢道の叫ぶ声が聞こえたのは、その時だった。 「紅葉!聞こえるか、出て来いっ。兄貴が追い込みに入った。焼き殺されるぞ!」  十分わかっている。  やっぱり頼道は見た目通りそういう人だったんだ。晃が冷酷なのはなんか頷けるけど、あの二人は人間だろうが何だろうが焼き殺す非道な奴らなんだ。  耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至 無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死……。 「顕道!ここに居る。清涼も地蔵も一緒だ!火が強くて出られない」  叫ぶ声は炎に消されて届かない。  恨み言を思っていても仕方ないので、突破口を探して紅葉は視線を巡らせる。あっちもダメ、こっちもダメ。ならばいっそ突き進め。 「清涼来い。玄関の方に逃げるぞ」 「そちらは沢山の僧侶が控えてる気配がいたす」 「じゃあ縁側だ」 「そちらも同じこと」 「分かった。じゃあ地面だ。お前狐だろ、穴を掘れ」  ポンっと清涼が手を打った。 「さすがは我が君、意外に頭いい」 「待って下さい。私も以前は地蔵として人々に拝まれていた身、人間のあなたを焼き殺すのはいささか……援護しますので逃げて下さい」  今更正気めいた事を地蔵が言うけど、それじゃあ意味が無い。 「清涼と地蔵を連れて出られないんじゃ、俺一人生き残っても恥さらしだろ。そんなヘタレな根性してねーんだよ」  基本ヘタレだけど。  本音を言えば即逃げたいけど。  言ったそばから後悔してるけど。  とにかくここに居るよりはと、紅葉は右手に清涼、左手に地蔵を引っ付かんでバタバタと家の中を駆け回った。しかしどの脱出口も既に火が放たれて僧侶が控えている。まず炎が出口を塞ぐし、何とか突破して転がり出ても清涼と地蔵がやられてしまう。  そうこうしているうちに炎は益々勢いを増し、熱風が紅葉を襲う。 「人の情などそんな物。人間とはなんと無慈悲で冷酷極まりない生き物なのか、そんな奴らを見守って来た自分が哀れで」  ふふふ……と、行き場を失った紅葉の左隣で生首のような石の顔が笑った。こうなると本当にホラー。 「悲しいなぁ」  ふふふふふふ……ふふふ……。  人の世を儚む笑い声。  ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……。  もう終わりかも知れない。  熱風が体を包み、煙が身を焦がす。熱い、息が出来ない。煙が目にしみて開いていられなくて……。 「……それでも俺は、清涼を見捨て無いよ。こいつは可愛く無いけど俺のだから。ついでにお前もあきらめないよ」 「……あなたは……」  言い切った紅葉に地蔵は眩しそうに目を眇めた。そこに有るのは悼みなのか羨望なのか、それでも諦め無いと言って貰えた地蔵は何を思うのか。  その時だった。ドガンっと音がして向こう側から土壁が突き破られたのは。がらがらと音を立てて、真っ赤な炎の中で火柱を立てながら壁が崩れ落ちて行く。そしてその向こうから有髪の僧が姿を現した。 「オラッ見つけた。チョロチョロ動き回りやがって面倒くせーな」  燃え盛る炎の中に、頼道が立っていた。 「頼道さん!」  こんな中、壁を突き破って助けに来てくれるなんて、なんて頼りになる。 「ヘタレてんぞゃねーぞ、逃げる。お前の所の陰陽師が焼きまくるからすげー事になった」  頼道は安心してへたり込みそうな紅葉から地蔵のボディを受け取り、しかしすげーなと燃える家の中を見回した。 「ありゃ力の使い方知らねーな。ほら行くぞ」 「待って、下ろして。私はもうここで尽きると決めた」  頼道に抱えられた地蔵が何か喚いている。頼道はそんな地蔵を鋭い眼差しでチラリと見た。 「面倒くせぇなこいつ。粉砕して寺の砂利に混ぜるか」  その瞬間に地蔵がぴたりと黙った。  なるほど、黙らせるには脅せば良かったのか。  頼道が壁に手を向け、破っ!と気合を入れるとドガンと音がして土壁が崩れ去った。 「えっ……」  それはスネ子ちゃんの時に賢道と晃がやっていたのを見たけれど、二人は見えない世界の住人に向けての攻撃で、本当かどうかさえ怪しかった。なのに今度は物理的に壁が崩れたのだ。物質に効力が有る様を見てしまうと凄いとしか思えない。  兄ちゃん凄い、強い。 「清涼来い、行くぞ」  清涼の手を握る手に力を込めると、ふふーんと清涼は満足そうに笑った。 「君と二人ならどこへでも」  振り返りもせずにさっさと外に出て行く頼道の背中を、紅葉は清涼の手を引いておいかけた。 「では、地蔵はこちらで預かりますので心配しないで下さい」  まだまだ夏の日差しが降り注ぐ山寺の庭で、白のワンボックスカーの後部座席に巨体を押し込んだ住職が物言わぬ石に戻ってしまった地蔵の頭を抱えている。  下山した紅葉たちを山寺で待っていたのは和尚と住職で、一件落着の報告を聞いた二人は地蔵の今後を金持ち寺の参道に置く事にしたらしい。よろしくお願いしますと頭を下げた紅葉に、住職はそれから……と鋭い瞳を向ける。 「稲荷様は京都の晴明神社に返してはどうかな。探し物はこの世に存在しないだろう。神は在るべき所に返すのが筋と思うよ」 「え、と……」  なんと返そうかと迷う紅葉の隣で、清涼が生意気そうに鼻で笑って住職を斜めに流し見る。 「人間風情が余計な事に口を挟まぬが望ましい」  くっそ生意気だ。相変わらず紅葉以外にはブレない高飛車。紅葉は慌てて清涼を自分の背中に押しやる。 「すみません住職、神は歯に衣着せぬ正直者なもんで」 「いや、ははははは……紅葉君も正直だね」  ははははは……と住職と二人で乾いた声で笑い合っていると、運転席でハンドルを握って待っている賢道がため息を吐いた。 「じゃあ行くよー。紅葉、清ちゃん、またな。晃さんにもまた来るからって言っといて。あ、今度は魚の美味い所に清ちゃんのボディ探しに行こうぜ。マグロがいいなぁ、大間かなぁ」 「お前は目的を間違えてる」  じゃあねと走り出した車を見送りながら、紅葉は隣の清涼を見た。  すっかり忘れていたけど、そうだった。清涼の死体を探しださなければならない。 「うーん……」  探すったって、そんなもん。 「どうした、紅葉」  住職に向けた生意気な表情を引っ込めて、くりんとした瞳でこちらを見る清涼が可愛い。 「清涼の身体をどこに探しに行こうか。何食べたい?」 「強いて言うなら甘味?」  小首を傾げて語尾が上がってる。 「それは難題だなぁ、コンビニで買える」 「我の身体はコンビニという所で買えのか」  いちいちツッコんでいると話にならない。  それよりも。  無事に帰って来て良かったと口に出して伝えるべきだろうか。きっとそうなんだろう、もしも賢道だったら簡単に言えるんだろう。 「あー……」  言葉をためらう紅葉の隣から、清涼が不思議そうに見上げてくる。飼い主のする事なら疑わない犬みたいな目だ。  だから相手は犬だと思い込んで、唇に軽くキスをしてすぐに離れた。 「紅葉?」  清涼の目がみるみる見開かれて行く。  恥ずかしい。 「紅葉、今のは何じゃ?」  言葉にするのも態度で表すのも死ぬほど恥ずかしい。軽口は幾らでも言えても本心は言えない、そんな不器用な男だ。 「ねぇ、紅葉ぉ」  満面の笑顔で清涼が袖に絡みついて来るから、何でも無いと早口に告げた紅葉は足早に踵を返した。  死ぬほど恥ずかしい。

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