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第2話

 期末試験が終わりテスト休みに入り、店の手伝い以外の時はずっと先輩の家に入り浸っていた。  自分専用の箸やカップ、タオルや洋服を持ち込み、まるで同棲生活をしているようだった。  二人で向かい合って食事を取っていると、先輩は難しい顔をした。  不味いのかと訊くと「味が分からない」と言った。  精神的に参っている人間は味覚を失う事が有ると、テレビで聞いた記憶がある。  それなのだろうかと心配だった。  俺の気持を察したのか「そんな顔するな。お前と一緒に飯が食えて楽しいんだから」と、俺を安心させようと微笑んで見せた。  だが、俺の表情が晴れない事に疑問を感じたのだろう。 「まだ何かあるのか?」  箸を動かす手を止め訊いてきた。  確かにまだ心配事が有った。  先輩は一学期にかなり休んでしまっていたし、授業もまともに受けていなかったので試験の結果が心配だった。  先輩と俺の学年が逆なら勉強を見てあげる事も出来たが、残念な事に俺は年下だった。  うちの碧校は進学校だ。試験内容は難しく範囲も広い。  一教科だけなら独自で勉強し、二年の範囲も教えられるかも知れなかったが、一教科だけを何とかしても意味がない。  赤点を取れば追試が当然ある。  追試で赤点を免れなければその学期の成績には容赦なく一が付き、一を取ってしまった者は挽回する為に次の試験を死に物狂いで頑張らなくてはならない。  もしも、三学期の成績に一つでも一が付けばその者は留年確定なのだ。  先輩は一学期の出席日数もギリギリで、この上赤点を取ってしまっては大変な事になる。  一の付く教科が多ければ多いほど、二学期にそれこそ死に物狂いで頑張らなくてはいけないのだ。  何も出来ない自分の無力さを呪いながら、俺は恐る恐る先輩に試験の手応えを訊いた。  先輩は自信が有るようでなく、かと言って不安が有るようでもなく、どこか他人事のように「さぁな・・・」と言った。 「赤点は免れているとは思うけど・・・」 「勉強したんですよね?」 「教科書は読んだよ」  教科書を読んだだけかと半分驚き、半分飽きれた。  自分の置かれている状況が分かっていないのかと、俺の方が焦ってしまった。 「赤点だったらどうするんですか?」 「学校から電話が来るだろうから追試受けに行くさ」  けろっと答えた。  試験休み中、俺は電話がかかってこない事をひたすら祈り続けていた。  一週間後、学校に先輩と登校した。  結局追試の電話はかかってこなかったが、先輩の成績が悪ければ二学期に大変な事には変わりない。  試験結果と成績表がなるべく良いものでありますようにと祈った。  中央玄関に入り、俺は一学年の先輩は二学年の下駄箱に向かった。  見れば、壁の方に人だかりが出来ている。  中央玄関に設置されている掲示板には、試験結果が張り出されていた。  全員のものではなく、一番から百番までのものだ。  俺は自分の学年のものには目もくれず、二学年の結果を見た。  出来れば百番以内に名前がありますようにと、祈りながら名前を探した。  百番から五十番まで見ていったが、先輩の名前は見つからなかった。  駄目だったかと諦め、結果表から目を逸らした時だった。 「やっぱ志野原はすげーなぁ」 「あんなにいい加減してんのに・・・」  そんな会話が聞こえ、再び結果表に視線を戻した。  四十番・・・三十番・・・順位をどんどん上げ見ていくと、探していた名前が目に入った。  有った! 『志野原 貢』  順位を見て力が抜けた。  十番・・・得点七百五十三点。  授業をまともに受けず、教科書を読んだだけなのに・・・。  凄い。心の底から思った。 「やっぱり悪かったな」  何時から其処に居たのか先輩は俺の真後ろに立っていた。 「何言っているんですか十番ですよ!凄いじゃないですか!」  俺が興奮気味に言うと先輩は驚いた顔をした。 「学年一位が何言ってんだよ」 「え?」 「お前一番だったぜ。凄い奴」  そう言って先輩は嬉しそうに微笑んだ。  凄いのは先輩だ。  俺は授業もきっちり受けていたし、勉強だってした。  頑張った。努力したからこその結果だ。  先輩は何もせずに十番なのだから先輩の方が凄いに決っている。  ああ、まただ・・・。  喉が渇く。 「人がウザイから行こう」  俺の腕を掴んで先輩は歩き出した。  掴まれた部分が熱い。  喉の奥がカラカラした。  蒸し風呂状態の体育館で小1時間の終業式を終え、教室で一学期の成績表を受け取った。  十段階評価で全ての教科に十が付いていた。  内申もすこぶる良く書かれていた。  見る前から想像が付いていただけに、たいした感動もなかった。  夏休み中の注意を担任の先生が話している間中、夏休み中先輩とどう過ごすか考えた。  家の手伝いも有るから遊んでばかりもいられないけど、両思いになった人と初めて向かえる夏なのだから二人でどこかに行きたいと思う。  誰かとちゃんと付き合った事などないからデートもした事がない。  恋人同士の過ごし方など想像もつかない。  先輩自身に行きたい所ややりたい事が有ればそれに付き合うだけだが、先輩の事だから俺と一緒に居られれば家で一日中過ごしたいと言うに違いない。  それでは何時もと変わらない。  折角の夏休みなのだから特別な事をしたい。  海や山へ行ったり、花火大会やお祭りに行ったら楽しいだろう。  ふと、先輩の泳ぐ姿が思い出された。  キラキラと水しぶきを上げて泳ぐ様は魚のようで、先輩が女性なら人魚と形容してもいいくらいだった。  本当に綺麗だった。  もう一度先輩の泳いでいる姿を見たいと思った。  ああ・・・また、喉の奥がカラカラしてきた。  何なんだろうコレは・・・。  夏の暑さの所為だろうか?  謎の喉の渇きの訳を考えているうちに、担任の先生の話は終わっていた。  チャイムが鳴ると同時に先輩と待ち合わせをしている中央玄関に向かおうと席を立ったが、何時ものように先生から頼み事を仰せつかってしまい、直ぐに向かう事が出来なくなってしまった。  用事を終え、待ち合わせの場所に向かうと、数名の女生徒に志野原先輩は囲まれていた。  先輩は遠目から分かるぐらいあからさまに鬱陶しいそうな顔をしていた。  近付いて行くと先輩は俺に気付いたのだろう。顔をほころばせた。 「ねぇ志野原君夏休み一緒にプール行こうよ」 「私と一緒に旅行行こう。ねっ、お願い」  引っ切り無しに女性達はせっついた。 「チャラチャラしてんじゃねーよ!」  突然放たれた言葉に、俺も先輩も声のした方へ向いた。  知らない男子生徒が三人立っている。  上履きが緑色の事から三年生だという事が分かった。  眉間に皺を作り物凄い形相で睨んでいる。  先日、俺と先輩をからかった二年生達とは違いこの三人からは明らかな悪意が感じられた。 「ちょっと位顔が良いからって調子に乗ってんなよ!」  志野原先輩は顔色一つ変えず涼しげな顔で「ありがとう」と言った。  お礼を言われ困惑した三年生たちは「はぁ?」と不機嫌そうに言葉の意味を訊いた。 「顔が良いって認めてくれてんだろ」  先輩は不適に微笑むが微笑みに意味などない。  志野原先輩は自分の容姿を鼻にかけてなどいないし、それどころか興味がない。  だが、そんな事を三年生達は知らないだろうから、先輩が自身満々の嫌な奴に見えたのだろう。  真っ赤な顔をして怒った。 「ふざけんな!」  そう捨て吐くと踵を返して行ってしまった。  先輩達のやりとりを目の当たりにしていた女性徒達は「何あれ?もてない男のヒガミ?」「やだーだっさ―い」と言ってクスクス笑った。  女性って恐い・・・と本気で思ってしまった。  一時中断されてしまったが、女性達は再び先輩に夏休みの約束を取り付けようと迫った。  先輩は煩わしそうに「悪いけど夏の予定はもう、決ってんだよ」吐き捨てるように言うと、強引に女性徒達の間を割って俺の方へやって来た。 「帰るぞ」 小さく囁くように言うと先輩は二学年の下駄箱の方へ向かった。  俺も靴を履き替える為自分の下駄箱へ向かった。  先に靴を履き替え終わり、玄関口で待っている先輩に小走りで近付き、小さな声で夏休みの予定が本当に決っているのかどうか訊いた。 「お前と過ごしちゃ駄目か?」  先輩は恥ずかしそうに俯き、小さな声でそう言った。  俺の答えがどうあるのか分からず緊張しているのだろうか?  俯いたままこっちを見ようともしない。 「俺も先輩と過ごしたいと考えていました」  言うと、弾かれたように顔を上げホッとした表情をした。  つい今しがた不適に笑っていた人物と同一人物だと思えないほどの柔らかい笑顔。  こんな風に無防備に笑うのは俺にだけ。  そう思うと自分は先輩の『特別』なんだと感じて嬉しかった。  俺は店の手伝いがあるので先輩とは途中で分かれ自宅に戻った。  稔川酒店と書かれた店に入ると、店番している父が仏頂面で出迎えてくれた。 「ただいま」  笑顔で言うと、父はやはり仏頂面のまま 「おう」とだけ言った。  俺の声が聞こえたのだろうか、奥の部屋から竜也兄さんはフライ返しを持ったまま現れた。 「お帰り」  そう言った後、「お勤めご苦労様」と言った。  お勤めが何を指しているのか分からなかったが、とりあえず笑顔で答えた。 「今、昼飯作っているから着替えて下りて来い」  フライ返しでシッシッと追い払うような動作をして、兄は台所に戻って行った。  兄に言われた通りに二階の自分の部屋に行き、着替えていると低くドスの利いた声が俺を呼んだ。 「光! お前に電話だ」  開襟シャツを脱ぎ、Tシャツを脱いでいる途中だったので、Tシャツだけを着直し、急いで下りていった。 「葵澄《きすみ》とか言う人だ」  生徒会長?  父から電話を受け取り出てみると受話器から品の良い声が聞こえた。 『もしもし葵澄です。キミの生徒手帳を生徒会室で拾いました。先生に預けてあるので取りに行って下さい』  葵澄生徒会長は何時も通りのはきはきとした喋り方で要件だけを告げた。 「はい。わざわざ有難う御座いました」  俺の返事を聞くと直ぐに電話は切れてしまった。  葵澄生徒会長を冷たいと言う人は結構いる。  今の電話も生徒会長を知らない人が受けたりしたら、そう感じるかもしれないだろう。  必要最低限な事しか言わない人だから・・・。  でも、誰に対しても公平な態度。  良いものは良い、悪いものは悪いと自分を偽らない姿勢。  はきはきとした物言いは分かりやすくて俺は好きだった。 ・・・それにしても、生徒手帳なんか何時落としたのだろう?  あれが無いと学割が使えないから困る。  明日、学校に取りに行く事を決め、自分の部屋に戻って着替えの続きをした。  家の手伝いを終え、志野原先輩の住む五階建てのマンションに向かった。  制服を持って現れた俺に先輩はぎょっとした。 「制服なんか持ってどうした? 夏休み中も生徒会とかで、こき使われるのか?」  心配そうに訊いて来るので、生徒手帳を受け取りに行く事を話した。  すると先輩は「俺も行く」と言い出した。 「直ぐに帰ってきますから待ってて下さい」  優しく微笑む俺に対して、先輩は不満そうな顔をした。  一分一秒たりとも離れていたくないと言う訳ではないのだろう。  先輩の申し入れを俺が断ったのが気に入らないのだ。  まるで、主人の後を追いかけようとして『待て』を喰らった犬のような感じだ。 「やっぱり一緒に来て頂けますか? 折角の夏休みなんだから出来るだけ先輩と離れていたくないな」  ニッコリ笑ってそう告げると、先輩の顔はほころんだ。 『待て』を解かれた犬が尻尾を振っているように見える。  可愛い人だと本気で思った。

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