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第3話
日差しの照りつける中、志野原先輩を伴って学校へ行くと、夏休み中の校内は人影も少なくガランとしていて、校庭からは運動部の声と蝉の鳴き声がした。
二階にある職員室前で先輩には待っていてもらい、一人で中へ入って行き、当番の先生から生徒手帳を受け取った。
職員室を後にして、帰ろうと階段を下りていた時だった。
俺は自分の上履きの紐を踏みつけてしまい、バランスを崩した。
前を下りていた先輩は俺に押される形で階段から足を滑らせ、落ちそうになる。
咄嗟に左手で掴んだ手摺のお陰で先輩が階段から転がり落ちる事はなかったが、丁度階段を上ってきた生徒の肩に先輩の身体が当たってしまい、小さな悲鳴と共に生徒は階段から落ちて行ってしまった。
俺と先輩は慌てて生徒に駆け寄り、安否を確認した。
生徒は小さくうめきながら身体を起こした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。生きています」
そう言って無理に笑った。
「何かあってはいけませんから病院に行きましょう」
左手を掴み引き起こそうとした時だった。
「痛い!」
悲痛な声が耳を振るわせた。
俺の手から自分の手を引き抜き、左手首を右手で押さえた。
「落ちた時左手をやってしまったみたいです」
不安げに弱々しく笑った。
「病院に行って診てもらいましょう」
慌てふためいていると、先輩は生徒の両脇を持ち身体を抱起こした。
「足は何でもないんだろ? 歩けるな」
「はい。大丈夫です」
俺と先輩で生徒を挟む形で歩き出した時。
「うちの部員に何している!」
怒りと不信感を帯びた怒鳴り声に驚き、声のした方へ視線を向けると白い着物に黒い袴を着た生徒が物凄い形相でこっちを睨んでいた。
この間と着ている物が違うので初めて見る生徒のような気がしたが、よく見れば先日志野原先輩に絡んで来た三年生だった。
大股でズンズンと近付いて来る三年生は俺なんかには目もくれず、真っ直ぐに先輩を睨んでいた。
「紺野《こんの》こいつに何をされた?」
『こいつ等』ではなく『こいつ』と言った。
しかも『何があった』ではなく『何をされた』と明らかにこちら側に非がある様な物言いをした。
明らかに先輩を敵対視している。
「志水先輩・・・別に何もされていないです」
それまで右手で押さえていた左手を隠すように後ろに回した。
志野原先輩を庇おうとしているのだろうか?
「嘘を言うな」
志水と言う人はそんな事あるものかと言いたげな目で睨んだ。
睨まれた紺野くんは身体をすくませて小さくなり「ただ・・・」と弁解した。
体育会系では上下関係が厳しく、年下の者にとって先輩は絶対者のような所がある。
紺野くんが志水先輩に嘘を言う事は逆らう事になるから、本当の事を言わざるおえない。
「ただ?」
「ぶつかって・・・僕が勝手に階段から落ちただけです」
申し訳なさそうに俯き、身を小さくした。
志水先輩が余程恐いのだろうか?
目を合わせようともせず俯いたまま唇を噛み締めていた。
「志野原お前、俺の後輩を階段から突き落としたのか!」
何を言うんだこの人は!
「違います! 俺が・・・」
「黙れ稔川! 俺は志野原に訊いているんだ!」
俺の言葉を遮り、きつく志野原先輩を睨んだ。
「突き落とした覚えはないけど、俺とぶつかった所為で階段から落ちたのは事実だ」
先輩は事実を言った。
俺の事は出さずに・・・。
「紺野は夏の大会に出る予定の選手だったんだぞ! それを階段から落とすなんて・・・どう詫び入れるつもりだ」
「俺がどうしたらあんた満足するんだ」
「詫びの入れ方も知らないのか?」
志水先輩は顔を歪めて笑った。
「知らないね」
「誠心誠意心を込めて謝るんだよ」
言われて先輩は紺野くんの方へ身体ごと向き直り、深々と頭を下げて謝った
その様子を見て志水先輩はフンと鼻で笑った。
「それで謝ったつもりか? お前の言葉にどれほどの重みがある。本当に悪いと思っているなら態度で示せよ」
ズレている。
コレは紺野くんと俺達・・・ 厳密に言えば俺との問題のはずだ。
なのにどうして志野原先輩が志水先輩にこんな事を言われなければならないんだ。
俺が割って入ろうと一歩踏み出すと、志野原先輩は手でそれを制した。
「先輩?」
俺の問いかけには答えずに先輩は「土下座でもして欲しいのか?」と顔色を変えずに言った。
「土下座? そんなモノは心がなくても出来るだろう」
「なら何ならいい?」
「矢を撃って的のど真ん中に当てることが出来たらお前の謝罪を認めてやる。弓は心で引くものだから心がなければ弓を引く事も出来ない。どうだやるか?」
先輩は即答せずに少し考えていた。
それを怖気付いていると志水先輩は感じたのだろう。
「部員を階段から落とし、弓道部に迷惑をかけるのだからそれくらいの事はしてくれてもいいだろう?」
獲物を追い詰めた狩人のような残忍な目付きで笑いながら言った。
先輩は腹を括ったと言うよりも、諦めたような顔をした。
「分かった。それで何時やればいいんだ」
「今直ぐ、これからだ」
それを聞いて俺は我慢が出来ずに一歩前に出た。
「待ってください!」
「俺は黙っていろと言ったはずだぞ稔川」
「いいえ、黙りません。紺野くんの事を考えるのであれば謝罪よりも先に彼を病院へ連れて行く事が先でしょ? まさか病院なんかどうでもいいなんて言いませんよね?」
俺に言われ、志水先輩は苦虫を噛み砕いたような表情をした。
「明日午後一時に弓道場で待っている。逃げるなよ」
志水先輩は吐き捨てるように言ってその場を去った。
俺と先輩は紺野くんを連れて学校を後にした。
紺野くんを病院に連れて行き診てもらうと、怪我の程度は軽く、1週間前後で治るという話だった。
「ご迷惑をお掛けしました」
左手に包帯を巻き、その手を庇うように右手を添えて申し訳なさそうに言った。
彼は一方的な被害者なのだから怒りこそすれ、謝る必要など何処にも無い。
謝るなら俺の方なのだから・・・ 俺は頭を下げ誠心誠意を込め謝った。
すると紺野くんは慌ててペコペコ頭を下げ「俺こそ落ちちゃって御免なさい」と言った。
お互いに頭を下げ謝っている様子に呆れたのか、志野原先輩は軽く溜息を吐いた。
「お前らいい加減に止めろよ。鬱陶しい」
言われて俺と・・・多分紺野くんも申し訳なさそうな目で先輩を見た。
眼差しの意味を察したのだろう。先輩は眉間に皺を寄せた。
「気にするな。アイツは俺が嫌いなんだ。お前達は関係無い」
腕組みをしてそう言い放つ先輩に、紺野くんは泣きそうな表情で「でも」と言い寄った。
「弓は昨日今日で引ける様になるモノではありません。基本が出来ていなければ弦を引く事だって難しいんです。それを的の真ん中に当てるなんて・・・」
「アイツは一発で当てろとは言わなかったから、多分当たるまで何本でも引かせるつもりなんだろうな。まぁ、数撃ちゃそのうち当たるだろう」
期末テストの時同様自信が有るようでもなく、不安が有るようでもなく、やはり人事みたいに言った。
でも、先輩の言う通りなら志水先輩は精神的にも肉体的にもいびるつもりだ。
俺自身は弓を射った経験など無いが、葵澄生徒会長が弓道をやっているので話を少し聞いた事がある。
弓道は運動神経や頭でやるものではないらしい。
だから先輩の運動神経がいかに優れていて頭が良かったとしても、直ぐに的のど真ん中に矢を当てることは出来ないだろう。
練習をさせないために今日今直ぐと言ったに違いない。
紺野くんを病院に連れて行く事で今日は免れたが、約束の日は明日だ。
たった一日では何も出来ない。
それと知って、志水先輩はギャラリーを集め、先輩を晒し者にするに違いない。
的のど真ん中に当てられるまで何度も何度も弓を引かせ、肉体を酷使させるつもりだ。
殴りこそしないけれどコレは立派な暴力だ。ただの虐めだ。
そんな理不尽な目に先輩を遭わせたくなんかない。
「先輩、明日の約束すっぽかしちゃいましょう」
力強く訴えると先輩は驚いた顔をした。
俺の言葉が意外だったのだろう。
だが、直ぐに先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「そうだな、めんどくさいからシカトするか」
先輩が明日理不尽な目に遭わなくて済むんだと、俺はホッと胸を撫で下ろした。
紺野くんの方に向き直ると、彼は怪我を負っていない右手を胸の前あたりで左右に振り「俺の事は気にしなくていいですから・・・」と優しく微笑んだ。
「こんな消毒臭い所に何時までも居ると気が滅入るから帰ろうぜ」
志野原先輩に背中を押されながら、俺達は病院の出口に向かった。
紺野くんが学校に荷物を置いたままだというので、三人で学校に戻ろうと提案したが、紺野くんは志水先輩の目に俺たちが留まると志野原先輩が弓を引かされる恐れが有るから一人で戻ると言い張った。
ありえる事だと思った俺達は、彼の言う通りに病院前で別れた。
俺と先輩は途中までは一緒に帰ったが、俺は店の手伝いの為自宅へ、先輩も自分の家に帰った。
店の手伝いを終えてから何時も通りに先輩の住むマンションに向かった。
先輩から貰った合鍵でドアを開け、玄関に入ると御飯の良い匂いが鼻腔を刺激した。
匂いに誘われるように部屋の中に入って行くと、テーブルの上に晩御飯の支度がされていた。
「お帰り。丁度今作り終わったところだ。手ぇ洗って来いよ」
片手鍋を持ったまま先輩は言った。
言われた通りに手を洗い席に着くと、炊き立ての御飯の盛られた茶碗と味噌汁の入った御椀を俺の前に置いた。
「味噌汁だけは適当に作ったから味が変だったら御免な」
見ればテーブルに並んでいるのは、サラダに冷奴に冷しゃぶなどドレッシングやタレなどで食べられる物ばかりだった。
味が分からなくなっているので、味をみなくても良い料理を考えて作ったのだろう。
「無理しなくてもいいのに・・・」
俺が申し訳なさそうにこぼすと先輩は優しく微笑み
「好きな奴の為にする無理は楽しいからいいんだ」
そう言って俺の頭をポンポンと叩いた。
何時もは自分が先輩の頭を撫でているので、逆の立場に置かれると変な感じがして頭を掻いてしまった。
先輩が席に着くのを待って食事を始めた。
心配していた味噌汁は少し薄いくらいで別に問題はなかった。
その事を告げると先輩はホッとしていた。
テーブルの上の料理をたいらげると、先輩は冷蔵庫の中から切り分けられたスイカを持ってきて俺の前に置いた。
「コレ食べたら風呂にでも入って来いよ」
俺の前だけに置かれたスイカを見て先輩の分は?
訊くと「今の俺にとってスイカ食べるのと水を飲むのとたいして変わらないからいいんだよ」と笑った。
出されたスイカを食べ、風呂に向かうと、先輩は台所に洗い物をする為に消えた。
風呂から出て居間に行くと、先輩はソファに座りながらテレビを見ていた。
いや、見てはいないようだった。
テレビは付いていたし、先輩はテレビの方を向いていたが、見てはいなかった。
両手の平合わせ人差し指を口に付けたポーズで何かを考えているようだった。
声をかけると、ハッと気が付いたように俺の方へ振り向いた。
「もう出たのか?」
「はい。お風呂有難う御座いました」
ニッコリ微笑んで言うと、先輩は無表情のままジッと俺を見詰めた。
「先輩?」
少し間があってから先輩の唇は動いた。
「俺、明日弓を引きに行って来る」
「何で?」
「俺が行かない事でアイツの矛先がお前に向いたら嫌だから」
完結に答えた。
「弓は簡単なものじゃないんですよ! 的のど真ん中に当てられるまで撃つなんて、嫌がらせなんてもんじゃないです。そんな目に遭わせるなんて嫌ですよ!」
「大丈夫だよ・・・」
「大丈夫って・・・的のど真ん中射抜く自信でもあるんですか?」
「ないけど・・・」
「ないならなんで!」
「お前が居てくれたら引けると思う」
何を無茶苦茶言っているんだろう。
俺が居るからといって、弓の達人になれる訳でもないだろう。
段を持った人間が後ろに控えてくれていたら心強いと言うなら話も分からないでもない。
でも、俺は弓の経験もないずぶの素人なのだ。
先輩の「引けると思う」根拠が全然わからない。
訝しげに眉を寄せていると先輩は突飛な質問をしてきた。
「はい?」 もう一度言ってくれと言わんばかりに?付きの返事を返してしまった。
「だから・・・俺の事好きかって訊いているんだ」
一度目の質問で答えをもらえなかった事に拗ねたのか困ったように同じ質問を繰り返した。
「勿論好きですよ!」
「俺が弓を引けたら凄いと思うか?」
「それは凄いでしょう」
「的のど真ん中射抜いたら嬉しい?」
「・・・嬉しいと思います」
何故か先輩は必死な様子で質問をする。
俺は少し不安を感じた。
「上手く出来たら俺を認めてくれるか?」
弓など引けなくても俺は先輩の事を認めている。
凄いと本気で思っている。
だが、その事は言わずに「認めます」と告げると先輩はホッとした表情をした。
「先輩、大丈夫ですか?」
先輩の足元に立ち膝をつき、右手を先輩の膝に乗せ視線の高さを合わせ見た。
先輩は俺を安心させる為に微笑んだが、その微笑みは何時もよりも弱々しく感じたのは俺の気の所為だったのだろうか?
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