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第4話

 朝、目覚めると俺の横で綺麗な寝顔が規則正しい寝息を立てていた。  志野原先輩を起こさないようにそっとベッドを出ると洗面所に向かい、洗面台の大きな鏡の前で服を脱ぎ背中を見てみた。  背中には薄っすらと痣が出来ていた。  昨日の夜は、ベッドに入るなり志野原先輩は俺にしがみ付いてきた。  気持ちを伝えたあの日以来、ずっと同じベッドで寝ていても俺にしがみ付く事はしなかったのに・・・  不安になっている。  先輩が抱き付く時は大抵不安な時だ。  その証拠に腕に、指に凄い力が込められていた。  一体何をそんなに不安に思っているのだろう?  弓を引く事に不安を覚えているのなら止めればいいのに。  志水先輩の矛先が俺に向いた所で全然構わない。  それくらい対処する自信はある。  伊達に今まで優等生をやってきたわけじゃない。  やはり説得して今日行く事を止めさせよう。  そう、心に決め脱ぎ捨てた足元の服を拾おうと屈んだ。  服を手にし、再び鏡の前に立った時ギクリとした。 「痣になっちまったな」  弾かれた様に後ろに向き変えると、先程まで俺の隣で寝息を立てていた人がだるそうに立っていた。 「起こしちゃいましたか?」  俺の質問には答えずに申し訳なさそうに「ごめん」と言った。 「謝らなくてもいいですよ。痛くないし、何よりも先輩に付けられた跡だから嬉しいです」  ニッコリと微笑みながら言うと、先輩は困ったような恥ずかしそうな複雑な表情を見せた。 「それより、今日はやっぱり弓を引きに行くのは止めて下さい。不安なんでしょ?」 「ああ、でも行くよ」 「何で? 俺の為なら・・・」 「確かに志水の矛先が光にならないようにする為に行くけど、それだけじゃない。行って動かしたいんだ」 「動かすって・・・何を?」  先輩はちょっと悩むようにして 「詳しいことは矢を的の中央に的中させられたら話すから・・・」  そう言って力なく微笑んだ。  その後弓を引きに行く事を止めさせようと何度となく言ったが、先輩の心は決まってしまっているらしく、首を縦には振らなかった。  仕方なく俺は諦め、朝食とも昼食ともつかない時間に食事を取り、約束の三十分前に先輩と共に家をでて学校へ向かった。  茹だる様な暑さの中十五分ほど歩くと学校に着いた。  中央玄関に入ると、パタパタと足音が近付いて来た。 「志野原先輩、稔川くんおはよう御座います」  足音の主は俺たちの目の前まで来ると深々と頭を下げ、挨拶をした。 「おはよう御座います」  挨拶を返していると先輩は「何でここに居るんだ?」と紺野くんに質問をした。 「怪我をしていても弓道部員ですから、練習に参加出来なくても見学しに来なくてはいけないんです。それに、午後に行われるはずの『謝罪会』の当事者ですし・・・」 「それは分かっているよ。そうじゃなくて、なんで俺達を待っていたんだ?」  先輩の言う通り、確かに紺野くんはここで俺達を待っていたらしい。  よく見てみれば紺野くんが走って来た方に水筒と弁当の残骸があった。  弓道部の昼休憩時間を利用し、ここで俺達を張っていた様だった。 「来るかどうか分からなかったんですが、もし来られたら渡そうと思って」  そう言って、怪我した手と逆の手に持っていた大きな紙袋を差し出した。  紺野くんの手から紙袋を受け取り中を覗いて見ると、中には弓道着が入っていた。 「俺のでは小さいと思って兄のを持ってきました。ちゃんと洗ってありますから綺麗ですよ。一応胸当てとかけも入っていますから使って下さい」  俺の右腕に寄り添うようにして袋の中を覗いていた先輩は、冗談ぽく「形から入れってか?」と訊いた。 「兄は四段なんです。ですから上手く引けるようにというおまじないみたいなものです」  言われて先輩は吹き出した。 「イタコじゃないんだからお前の兄さんは乗り移らないよ」 「でも、制服って着ただけでその気になれるといいますし、弓道着着ただけで気が引き締まりますし・・・」  しどろもどろになりながら説明する紺野くんに先輩は紙袋を返した。 「気持ちだけ貰っとく」 「押し付けがましいって分かっています。でも・・・」 「そうじゃない。お前が俺に弓道着を貸したとばれたらいびられるだろ」  紺野くんは「えっ?」と言って驚いていた。  正直俺も驚いた。  先輩が俺以外の人間を心配するのは初めてだったから。 「俺の事なんかいいんです。弓道着着るのが煩わしいんだったら、せめて胸当てだけでも使って下さい。ボタンが引っかかったらいけませんから・・・」 「シャツなんか脱ぐから大丈夫だよ」  そう言って先輩は紺野くんの頭をポンポンと優しく叩いた。  紺野くんをその場に残し、先輩は弓道場のある方に歩き出した。  ポォとしている紺野くんを尻目に俺は先輩の後を追った。 「先輩紺野くんの事気に入ったんですか?」  歩調を合わせ先輩の真横に並び質問した。  先輩は驚いた顔をして俺に向き直った。 「何だそれ?」 「紺野くんに優しかったから・・・」 「はぁ?」  惚けている訳ではなく、本当に自覚が無い様だった。  今まで自分に手一杯で、他人の事など見る事は出来なかった。  でも、今はほんの少しだけ心にゆとりが出来たから思いやれたと言う事なんだろうか?  今後、心にゆとりが出来て人間に厚みが出て来たら先輩は今以上に素敵になるだろう。  そう思った瞬間、何故か落ち着かない気持ちになった。  心がざわつく。  何なんだろうこれは・・・ 「おい!」  右腕を引っ張られ立ち止まると目の前に木製の扉があった。  気付かぬうちに弓道場のまん前まで来ていたらしい。  志野原先輩に止められなかったらそのまま扉にぶつかっていたかもしれない。 「大丈夫か?」 「すいません。考え事をしていました」  先輩は考え事については何も訊かず、掴んでいた腕を離し、そのまま手の位置を下へずらし俺の手を握った。 「俺頑張るから見ててくれよ」  何時になく真剣な眼差しでそう言うと握っていた手を離し、扉を開けた。  中に入ると、昼食を済ませただろう白い着物に黒い袴姿者が数名居る程度だった。  志野原先輩に気付いた何人かがひそひそと話し出すと、こちらに背を向けていた一人の人物がゆっくりと振り向いた。  志野原先輩の姿を認めると、すたすたと近付いて来た。  一メートルくらい手前で足を止め、残忍な光をともした目で志野原先輩を見据え薄く笑った。 「よく逃げずに来たな」 「別に逃げても良かったんだけど、先輩がもしかしたら必要以上に人を招集してて、俺が現れなかったら先輩が恥じをかくんじゃないかと思ってね」  志水先輩の悪意に満ちた視線など無視してからかう様に言った。 「ギャラリーが少ないようだけど今直ぐに始めるか?」 「今、部員たちを呼びに行かせる。待っていろ」  そう言って一番近くに居た弓道部員に何か指示をした。  指示を受けた部員は志水先輩に一例をしてこちらに向かって来た。  俺と先輩の横を通り過ぎるとそのまま扉を開け外へ出て行った。  扉が閉まって直ぐに再び扉が開いたので反射的に振り向くと先程中央玄関に置いて来てしまった紺野くんの姿があった。  見ればさっき持っていた大きな紙袋は持ってはいなかった。  部室か何処かにでも置いてきたんだろう。  俺と先輩に軽く会釈すると「靴を脱いで板間にどうぞ」と促した。  言われた通りに俺も志野原先輩も靴を脱ぎ板の間に進んだ。  何気なく振り返ると、紺野くんは俺と先輩の靴を靴箱に片付けてくれているようだった。 「部員達が来るまで暇だろう。あそこから好きな弓を持って来い」  志水先輩に指差された方に先輩と一緒に行くと数本の弓が壁に立てかけられるようにして置いてあった。  先輩は立てかけられている弓を手に取り弦を引っ張りしていた。  何を基準にして選んでいるのかは素人の俺には分からないが、先輩はちゃんと選んでいるようだった。 「先輩はいい弓とか分かるんですか?」  俺に問われて持っていた弓を元の場所に戻した。 「適当だよ」  そう言って別の弓を手に取り弦を引っ張った。 「これでいいか・・・」  小さく呟き、何度目かに手に取った弓を持った。 「行くぞ」  俺をチラリと見て直ぐに元居た場所に向かって歩き出した。  板の間に戻ると、随分と人の数が増えていた。  一段高い位置の畳敷きの所には、正座をした人が何人も座っていた。  見れば、弓道着に混じって制服の者も数名居る。  やはり先輩をさらし者にする気らしい。 「それでいいのか?」 「何でもいいよ」  意地悪そうに問う志水先輩に対してどうでもよさそうに言った。 「それより矢をくれよ」  志野原先輩に催促され、志水先輩はやはり側に居た部員に言って矢を持って来させた。  部員から矢束を受け取ると、弓と一緒に足元にそっと置き、器用な手つきでボタンを外すと着ていたシャツを俺に手渡した。 「持っててくれ。・・・ギャラリーも増えてきたし、そろそろ始めるだろうから精神統一でもするかな」  冗談ぽく言いながら弓の側に正座して座った。  先輩は何時もよりずっと低い位置から見上げるように、上目遣いで俺を見た。 「光ちょっと離れててくれないか。傍に居られると邪念が入るんだよ」  俺は少しうろたえ狼狽た。  邪魔だと言われたようで寂しかった。  俺の心情を察してか否か 「お前が傍に居るとお前の事で頭が一杯になっちまうからさ」  そう言って、先輩は悪戯っぽく笑った。 「分かりました」  俺は頷き、数メートル先輩から離れた。  邪念が入るから離れろと言ったわりに、先輩は俺を真っ直ぐ見詰めていた。  あまりにも真っ直ぐな眼差しだったので、恥ずかしくなり俯きたくなったが、目を逸らしてはいけない気がした。  真っ直ぐ挑むように見詰め返すと、先輩は柔らかく微笑みゆっくりと目を閉じた。  人の出入り、ひそひそ話し、ざわつく弓道場の中で先輩は自分の世界に入れたようだった。  その証拠に、先輩の周りの空気だけが澄んでいるように感じられる。  物音も人の声も何も先輩の耳には届いていないに違いない。  もの凄い集中力だ。  先輩を取り囲んでいる空気が浸透していくかのように、徐々に物音や話し声が消えて行く。  誰かが静かにしろ言ったわけでもないのに、弓道場は静粛に包まれた。  ピンと張り詰めた空気。  三十人以上は居るだろうギャラリーの視線は全て先輩に注がれている中、先輩が動く気配はない。  汗が頬を伝い顎の部分で止まっている。  それを拭う事も出来ず、ただただ先輩から目が離せなくなっていた。  もの凄い集中をしている人間の側に居ると呑まれてしまうというが、本当だ。  この場に居る誰もが先輩に呑まれてしまっている。  これが・・・ 志野原貢。  ドクドクと鼓動が早まるのを感じた。  俺は・・・  緊張しているのだろうか?  先輩が目を閉じてからたいして時間は経っていないはずなのに、とても長い時間の様に感じられる。  動き出すのを皆固唾を飲んで待っている。  柔らかい風が撫でる様に吹き去った。  深く息を吸い込んだのだろう。  身体が僅かに大きくなった。  ゆっくりと目を開く。  頭の天辺から指の先、体中に神経が行き渡り、ピンと一本筋が通ったように見える。  引ける。  何の根拠もないのにただ漠然とそう感じた。  先輩はゆっくりとした動作で弓と矢を持ち、立ち上がった。  しばらく的を見詰めてから流れるような動作で弓を引いた。  先輩の手から離れた矢は風を切り裂くように力強く的に向かって飛んだ。  ドス!  鈍い音が響いた。  矢は的には当たらなかったが、深々と真っ直ぐに的の横に刺さっていた。  初心者には弦を引く事さえ難しいと言われている弓をこうも引けるのだら、先輩は以前に弓を引いた事があると確信した。  二本目を構え始めた時だった。 「間に合いましたね」  品の良い聞き覚えのある声が右肩付近から聞こえ、見ると和風の美人が立っていた。 「葵澄生徒会長! なんでここ弓道場に?」 「志野原貢が弓を引くと聞きまして、やってまいりました」  何時もと同じように無表情のままそう言った。 「ブランクがあるとは思えないな。相変わらず綺麗な型だ」  葵澄生徒会長が何気なく言った言葉に驚いた。 「今、なんて言いました?」 「綺麗な型」 「もっと前です」 「ブランクがあるとは思えないな」  ブランクがあるとは思えない・・・ やはり先輩は弓をやっていたんだ。  でも、何故それを葵澄生徒会長が知っているのだろう?  疑問を率直に訊いてみた。 「私が弓をやっている事は以前お話したでしょ? 始めたきっかけは祖父が弓道の師範で家に射場があったからです。祖父の弓道場に私の父の知り合いの子供が何人か通っていて、その中に志野原兄弟が居ただけです」  晃くんと一緒に通っていたんだ。  弓道経験者ならそんなに何十本も矢を引かなくても的のど真ん中に当てる事が出来るかも知れないと喜んび、再び視線を志野原先輩に戻してから的を見た。  二本目の矢も的には当たらず一本目の矢の側に刺さっていた。 「志野原先輩は弓は上手い方だったのですか?」  問われて葵澄生徒会長は中指でフレームを押し上げ眼鏡の位置をずらした。 「弓道には射法八節と呼ばれる一連の動作があります。それを一つの動作として流れるように行えれば矢は勝手に的に向かって飛びます。志野原貢は見事な型でそれを行っているものの的に中らないのは『中てたい』という気持ちが早気を誘っているのでしょう。離れが早いようです」  弓道の事は分からないが、要するに焦らなければ先輩は的に当てる事が出来ると言う事なんだろう。 「私などを見ていないで、志野原を見た方がいい」  言われた瞬間タンっと軽い音が響いた。  音のした方を見てみると三本目の矢は的の一番外側の黒い部分に刺さっていた。 「目を逸らさず見ていなさい」  言われた通りじっと目で先輩を追った。  深呼吸をして精神統一を図っているようだった。  四本目の矢を拾い上げ足を開き位置を決めた時だった。 「足踏み」  葵澄生徒会長は呟くように言った。  右手を腰に添えぴしゃりと姿勢を伸ばす。 「胴造り」  顔を的へ向ける。 「弓構え」  志野原先輩の動作に合わせて葵澄生徒会長は聞き慣れない言葉を呟く。  肩が僅かに落ち。 「打起こし」  弓を左右に引く。 「引き分け」  弓を引いたまま暫くそのまま固まったようにしている。 「会」  一本目の時よりも長く「会」と呼ばれた状態で止まっていた。  矢を放った次の瞬間「離れ」と言った。  タンっと軽い音が響き、四本目の矢は三本目よりも遥かに中心に近い位置に刺さっていた。 「残心」  葵澄生徒会長が呟いていた呪文のような言葉。  足踏み、胴造り、弓がま構え、打お起こし、引き分け、会、離れ、残心。  これは先程言っていた射法八節という動作の事なんだろう。 「志野原貢の弓は優雅ですね。まるで能を舞っている様に見えます」  先輩を褒める言葉に驚き、生徒会長の顔をじっと見てしまった。 「何ですか?」 「いえ、葵澄生徒会長は志野原先輩の事をあまり快く思っていない気がしていましたので・・・」  葵澄生徒会長は俺から視線を外し、志野原先輩を見た。 「正直嫌いです。でも、良いものは良いのです。嫌いだからといってその者の全てを否定する事は出来ません」  ああ・・・そうだった。  良いものは良い、悪いものは悪いと正直に言う人だった。  先輩のいい加減な態度を嫌ってはいても、ちゃんと認めている。  俺は生徒会長が志野原先輩を認めてくれている事が自分の事の様に嬉しかった。 「五本目を射る様ですよ」  慌てて視線を先輩に戻すと『引き分け』と呼ばれていた動作を行っていた。  弓の事は正直何も分からない。  でも、先輩の弓を引く姿は目を奪われる。  ピンと伸びた背筋や動きの一つ一つが綺麗だ。  初めて叔父の店で先輩に出会った時にも感じた事だ。  ただ飲み物を飲んでいるだけで絵になる人だと・・・。  何気ない仕草の一つ一つが洗練された動きのようだと。  改めて思う。  先輩はカッコ良い。  タンっと音が響き、矢は的の真ん中にある白い部分に刺さった。  一瞬やったかと思ったが、白い部分に刺さっただけで真ん中をいていた訳ではなかった。  六本目の矢を拾い上げると、目を瞑り大きく息を吐いた。  暫く目を瞑ったままでいた。  ドキドキしてきた。  いや、ずっとドキドキしていたがもっとドキドキしてきた。  身体中が心臓になった様にドキドキしている。  もう直ぐ先輩は的のど真ん中を射れる!  期待とも願いともつかない気持ちで一杯になり、緊張した。  目を開け射法八節を流れるように行っていく。 『会』の動作でピタリと動作が止まる。  まだ矢を放さない。  まだ・・・まだ・・・  ほんの数秒の時間なのだろうが、とても長く感じた。  汗が頬を伝い、ポタポタと落ちた。  喉が渇く。  カラカラした。  優しい風が弓道場を吹き抜け、僅かに涼しさを感じた。  暫くして矢は放たれた。  矢は的に吸い込まれるように真っ直ぐに飛んで行った。  タンっと軽い音が響いた。  矢は的の真ん中に刺さっていた。  何が起こったのか実感が持てず茫然としていると、不意に志野原先輩と目が合った。  ドッキっとした。  優しく穏やかに微笑む先輩がそこに居た。  今まで見た事もない笑顔だった。  先輩は俺から目線を外すと、畳敷きになっている部分に座っている志水先輩に向かって「これでいいか?」と言った。  志水先輩は苦虫を噛み潰したような険しい顔をして黙っていると「志野原先輩凄いです!」と興奮気味で紺野君が近寄って行った。 「俺、感動しました!」  紺野くんに釣られる様に弓道場がざわつき出した。 「俺・・・俺・・・」  どんなに感動したのかを伝えようと必死になっている紺野くんに持っていた弓を渡し、先輩は優しく微笑んだ。 「怪我させて悪かった」  ブルブルと左右に頭を振る紺野くんを見て、やはり先輩は微笑んだ。  志水先輩の返事は聞かず、一瞥くれてから俺の方へやってきた。 「帰ろう」  俺の手からシャツを取り静かに言った。  先輩が歩き出そうとした時だった。 「お見事でした」  何時も無表情でいる葵澄生徒会長が僅かに微笑んだ。  それを知ってか知らずか「どーも」とそっけなく先輩は返し、下駄箱から靴を取り出して履いた。  靴を履き終えると扉を開け出て行ってしまった。  出て行ってしまった先輩を追うために、俺は生徒会長に軽くお辞儀をして歩き出した。  スタスタと先を歩く先輩を小走りで追いかける。 「待って下さいよ」  俺の声が届く距離のはずなのに、先輩は振り向きもせずに歩いて行った。  先輩が中央玄関に入り続いて自分も入る。  グイッと横から思いっきり引っ張られた。  引っ張られた方を軸に、半回転して壁に手を突くと目の前に志野原先輩が居た。 「何するんです危ないじゃないですか!」  俺の言葉など無視して先輩は抱き付いて来た。 「悪い。無性にお前に抱き付きたくなったんだ」 「ここ学校ですよ」 「知ってる。数秒でいいからこうさせておいてくれ」  俺の胸の中で微かに震えている。  泣いているみたいだった。  壁に突いていた手を離し、先輩を優しく抱きしめると震えは大きくなり小さな声を漏らして泣いた。  朝言っていた『動かしたい』と言う言葉も、この涙の意味も理由も分からなかったが、不安が消えた事だけは俺に回された腕の力から分かった。

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