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第1話

 ○  一日目〈我妻椿〉  獅子雄が死んだ。  狭くて薄暗い、冷たい病室だった。エティとマリアは泣いていた。亜鷺と時永は黙って獅子雄の死に顔を見つめていた。蛇岐はいなかった。  獅子雄が死んだ。俺が殺した。獅子雄はちゃんと、俺の望みどおりに、きちんと死んだ。  望んだはずの死に顔は、ちっとも美しくなんてなかった。陶器みたいに白かった肌は血の気を失い艶をなくしているし、切れ長だった双眸は閉じられ、周りは黒ずみへんに落ち窪んでいる。 「へんなの」  こんなのぜんぜん、俺の知っている獅子雄じゃなかった。 「へんだよな」  言ってもだれも、返事をしない。 「おかしいよな、時永さん」  名指しをすれば、へんですか、と小さな声で返された。 「へんだよ」  しばらく獅子雄の顔を見つめて、つまらなくなって病室を出た。自分の病室に戻って、もしかするとあれは獅子雄ではないのかもしれないと想像して、それもきっと有り得ない話ではないな、と自らを納得させた。  獅子雄に刺された(俺が無理やりナイフを握らせた)腹の傷が少しだけ痛み、鎮痛剤が必要だ、と思った。手元のナースコールを押すと、しばらくして時永がきて、どうされました、と草臥れた様相で俺の体調を窺った。 「ううん、腹の傷が、少し痛むだけ」 「そう、おくすりを持ってきましょう」  時永は病室を出て、足音が聞こえなくなった頃に入れ違いで蛇岐が訪れた。目が合うと口元だけで笑みをつくり、病室の扉を閉めた。  蛇岐は無言でベッドに腰かけ、俺もなにも言わなかった。沈黙が流れて、ふたたび視線が絡むと、蛇岐はゆっくりと俺の手を握った。汗ばんだ、熱い手だった。 「椿ちゃん」  近くで見る蛇岐の顔はひどく寂し気で、目元はあかく腫れていた。蛇岐は何度も俺の名を呼んだ。椿、椿ちゃん、椿姫、そして最後にもう一度、椿、と囁いた。ふと、昨日までの獅子雄が思い出された。まだ美しく、生きていた頃の獅子雄だ。生きていて、俺の名を呼んで、しっかりとその腕で抱き留められていた頃の獅子雄だ。それが今は、あんなにも、冷たく。 「椿」  蛇岐が呼ぶ。 「椿」  まるで探るように、何度も何度も。 「椿」 「……………蛇岐」  呼び返して、窓の外を見やった。灰色の空だ。寂しげで、暗く湿った空だ。 「蛇岐、散歩に行きたい」  腹の傷はずきずきと痛んだ。昨日からまともな食事もしていない。生命線のようなチューブに繋がった針を、その腕から自ら抜き取った。蛇岐はそれを咎めるでもなく、黙って静観していた。 「外に出たい。連れて行って、蛇岐」  左腕に、はらはらと血液が伝った。蛇岐は目を伏せ、頷いて、いいよ、と言った。  病院の外へ出るまでに、誰ひとりとしてすれ違うことはなかった。静まり返った院内を蛇岐に手を引かれながら歩き、病院着は目立つし、外は寒いと蛇岐のコートを肩に掛けられた。  蛇岐の言うとおり、確かに外は寒かった。吐く息が白い。一歩を踏み出すたび、腹は痛んだ。最後にもう一度、獅子雄の眠る病室の窓を見上げると、寂しげに微笑む亜鷺と目があった。こちらを見つめ、口角はきちんと上を向き、そして白い手を胸の位置まであげると、こちらへ向かってひらひらとその手を振った。ああ、と吐息とともに声が漏れそうになり、それを蛇岐が遮った。 「寒いから、もう行こう」  歩き出した蛇岐に手をとられ、速足で追いかけながら、それでももう一度病室を見上げたけれど、亜鷺の姿はそこにはなかった。  蛇岐と並んで歩いて、いくつも電車を乗り継いで、コンビニで食べ物を買って、夜になっても歩き続けた。寒さに喉がはり付いて、咳をすれば腹の傷が痛んだ。そして見たこともない街に辿り着き、人気のない通りの小さなアパートのひと部屋に忍び込んだ。 「………だれの家」  知らない、と蛇岐は答える。 「たまに仕事で俺が使ってる。もとが誰の部屋かは知らない」 「………そう」  ワンルームは狭かったけれど、家財の一式は揃っていて居心地は悪くなかった。埃をかぶったベッドに腰かけて、寒さを凌ぐようにコートの前をあわせた。心細くはない、不安も不満もとくにない。けれど、からだの一部にぽっかりと、どうしようもない虚無感だけが確かにあった。 「スープ飲む?」  そう訊く蛇岐は、俺の返事を待つ前にコンビニで買ったインスタントの粉末をカップに入れて湯を注いだ。人の出入りがない部屋は埃とカビの匂いがして、一度咳をすると吸い込んだものが気管に張り付いて尚更ひどく堰き込んだ。蛇岐はスープの入ったカップをテーブルに置くとカーテンと窓を開けて、腹と胸を押さえて呼吸を我慢する俺を抱き締めた。  椿、深呼吸。蛇岐は静かに囁く。蛇岐の胸にからだを預けて、獅子雄より随分と体温が高いな、と思った。太い腕、分厚い胸板、ぱんぱんに張った太腿、節のしっかりした指、極端に吊り上がった目、ピアスだらけの顔、色のない唇、どれをとっても獅子雄と違う、なにひとつ違う。けれど声だけは、ほんの少しだけ獅子雄に似ている気がした。冒頭と言葉尻に空気を含ませるところだとか、あまり唇を動かさずに口先だけで声を発するところだとか。  開け放った窓から冷たく乾いた風が入り込み、にごったような部屋の匂いは少しずつ清潔なものに変わっていった。腹の傷がひどく痛んだ。あたたかなスープのいい匂いはしたけれど、とても食べられそうにない。痛みに唸り眉を寄せて目を閉じると、蛇岐は俺をしっかりと抱き直し、こどもをあやすみたいに小さな声で歌をうたって聞かせた。へたくそな歌だった。

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