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第1話

 五月晴れの空の下、背広姿の背中は景色に溶けてしまいそうだった。日の光が眩しくて、蒼哉は目を細めた。  束原蒼哉(つかはらそうや)の人生はごく平凡なものだった。  東京都西多摩の都会とも田舎ともいえない中途半端な土地で生まれ育ち、都立の高校を卒業し、私立中流大学を出た。一流企業の子会社ではあるが、新卒で入社した。恋愛の方は自慢できる経歴は持ち合わせていないが、まだ二十五歳、これからである。  身長百六十九センチ。女性の男性として背が低いと判断する微妙なライン。背の高さを問われた時は百七十センチとさばをよんでいる。小柄に見えるのは母親譲りの小さな頭のせい。幼く見えるのはくりくりした柔らかい猫っ毛と黒目の大きな二重のせい。格好良いよりは可愛いという形容詞がしっくりくる、男としてどうなのか疑問な容姿のせいで女性にもてたことはない。  順風満帆とは言えないかもしれないが、波風のない平和な日々を送ってきた。人生の修羅場というものには遭遇したことがない。だから非常に困っている。 「待て、木梨。早まるな」  努めて冷静な声で目の前の彼に話しかけるが、手のひらは汗でぐっしょり濡れており、不測の事態にどう対処をしたらいいのかと頭の中は大波乱である。  彼、木梨佐月(きなしさつき)は呼びかけられ、蒼哉の方を見たがその目は生気を失っていた。  佐月の向こう側は、東京のスモッグがかったビル群と頭上にはグラデーションが美しい青空が広がっている。後方には工場地帯と東京湾、ロケーションは最高である。ここは蒼哉と佐月が勤務するHUBビルの地上から約百五十メートルにある屋上だ。ふたりの間をビル風が通り抜けていく。  蒼哉の一年後輩の同僚である佐月は、安全柵を乗り越えて飛び降りようとしている、ように蒼哉には見えた。佐月の足取りは不安定で強風が吹いたらあっけなく地上へ落ちてしまうのではないかと思う。  地面に叩きつけられる佐月と、ランプを光らせるパトカーと救急車。何があったのかと集まってくる野次馬を想像して、蒼哉は青くなった。 「どうして止めるんですか」  力のない衰弱した声音に、ドキリとする。  正直、佐月が自殺をしようが蒼哉には関係のないことだ。同僚といっても佐月は一カ月前に本社からの転勤で蒼哉のデスクの隣にやってきたばかりだし、親しい交流は特にない。彼を止めるには蒼哉では役不足かもしれない。  けれど自殺現場に鉢合わせてしまったというのだから話は別だ。みすみす目の前で死なれるわけにはいかない。見て見ぬふりをしたものなら、世間から人でなしと罵倒されるだろうし、蒼哉も人の死に遭遇して簡単に忘れることができるほどの精神力は持ち合わせていない。佐月が本当に死んでしまったら、後悔することは明らかだ。 「ひ、ひとが自殺しようとしているのに、止める理由なんていらないだろ! 女の子にふられたくらいで死ぬなよ!」  口から出たのは綺麗事に違いなくて自分でも情けないと思った。 「見ていたんですね、束原さん」  佐月は自嘲すると、安全柵に寄りかかり、青く透き通った空を眺めた。 身長百八十センチほどの長身に、すらりと伸びた手足。  グレーの品のあるスーツにストライプシャツとドットタイを着こなし、大きくゆったりとした動作に、彼を見た者は英国紳士ではないかと勘違いするだろう。三着セットで一万円のサイズが合わない激安スーツを着ている蒼哉とは比較対象にもならない、サラリーマンの鏡である姿。 会社員としては少し長めの髪は色素が薄いのか光を浴びると明るい茶色になる。色の変化が衰弱している佐月の心理状態も表しているのかと思うくらいに、いつもより透き通って見えた。  数十分前、蒼哉は天気が良いのでたまには外で昼飯を食べようとコンビニ袋を提げてこの屋上にやってきた。弁当を平らげてうたた寝をしていたところに、佐月とある女性がやってきた。両腕を組んでため息をついていた女性は知った顔ではないが、彼女が着ている紺色のジャケットとスカートは見覚えがあった。このビルに入っているとあるオフィスの制服だった。  不穏な空気を感じ取った蒼哉は身を隠して事の成り行きを見守った。彼女が何かを告げると、佐月は感情的になり彼女の腕を掴んだ。佐月の整った顔が歪むのを見て、蒼哉はなぜか胸が痛んだ。ところが彼女は追いすがる彼を冷たくあしらい、立ち去ってしまった。蒼哉は、佐月が彼女にふられたのだと思った。  見てはいけない場面に遭遇してしまった。佐月も女性にふられる格好悪い姿を蒼哉に見られたくはなかっただろう。このままそっと屋上から立ち去り、素知らぬ顔で何事もなかったふりをして佐月の隣に座り午後の仕事に取り掛かるのが人としての優しさだと思った。  蒼哉が佐月に気づかれまいと屋上から退場しようとした時、放心した佐月が腰の高さほどの安全柵を軽々と乗り越えたのだ。  蒼哉は考えるより早く、声を上げていたのだった。 「えーと、何があったのか俺でよければ聞くから、な?」  佐月の神経を逆なでしないように引きつった顔でできる限り優しく語りかけ、少しずつ革靴を前へずらし距離を詰める。 「蒼哉さん……」  背中を向けている佐月が涙声で呟いた。初めて佐月に下の名前で呼ばれたので蒼哉は違和感を覚えたが、なぜ下の名前で呼んだのかと問い詰める余裕はない。  茶髪が目元にかかり、整った顔を歪ませて憔悴しきった佐月は妙な色気があり、ここに女性たちがいたら悲鳴が上がりそうだ。佐月ほどのイケメンでも女性にふられてしまうのだなと思うと、蒼哉は恋愛の難しさを痛感した。 「彼女、妊娠したそうです」 「へ?」  話が突飛であったので、蒼哉は自分の耳を疑った。 「僕ではない男性との間に子供が出来たそうです。だから僕に別れてほしいと」 「はあ」  蒼哉が思っていたよりも、佐月の恋愛事情は拗れていて、正直返す言葉が見つからない。 「僕の何が悪かったんでしょうか」  知るか。と言い出しそうになった口を慌てて閉じる。そんなことを言おうものなら佐月は即死だ。 「えーと、俺にはよく事情が分からないけど、彼女はお前と他の男とも付き合っていたってことだろ? 二股かけてたのは向こうなら、非は彼女にあるんじゃないか。お前は悪くない」 「蒼哉さん優しいんですね」  先ほどまで泣いていた佐月が、目を潤ませたままふっと口元を綻ばせた。花が咲き、芳しい香りが漂ってきそうな、上品な微笑み。 男の蒼哉から見ても佐月は美しい容貌をしていた。黒目の大きい瞳は人懐こい印象であり、スッと筋の通った鼻梁は人の目を惹く。中性的な清潔感のある立ち姿はファッション誌を飾るモデルのようだ。佐月のおっとりした雰囲気は、周りを巻き込み、彼がいるだけで仕事場は和やかな空気になってしまうのだ。 「でも、これが初めてじゃないんです。付き合っていた彼女が他の男の子供を妊娠して捨てられたの」 「そ、そうなんだ」  蒼哉は佐月より長く生きているはずだが、そんな経験はない。  付き合っていた彼女に浮気され、揚句彼女が妊娠してしまうなんて頻繁に起こることではないと思う。それが重なったということは、佐月にも原因があるのかもしれないが、考えても憶測でしかなかった。 「愛していたのに。大事にしていたのに。妊娠したからとあっさり捨てられる。こんな苦しい思いはもうたくさんです」  佐月が彼女たちを本気で愛していたのだと分かる悲痛の叫びを受け止め蒼哉の胸中も押し潰されそうに苦しくなった。  佐月はまっすぐ自力で立ちほんの少し前へと進む。その先は何もない。ひたすら自由な空が広がっているだけだ。 「――――ダメだっ!」  蒼哉は地面を蹴って、自由へと飛び立とうとする佐月の腕を柵の内側から必死に引き寄せた。全体重を後ろへかける。自分より十センチ以上背の高い佐月に力で対抗できるとは思えなかったけれど、掴んだ腕は決して離すまいと思った。 「離してください」 「ダメだ! 絶対ダメだ!」  なぜ佐月のために必死になって泣きそうになっているのか蒼哉自身よく分からなっていた。ただ人をこんなにも本気で愛せる純粋な佐月を死なせてはいけないと思った。 「蒼哉さん……」  蒼哉の気持ちが伝わったのか、佐月が腕を振り払おうとする動作を止めた。右腕にがっちり絡みつき固まっている蒼哉に困惑している。 「ダメだ、木梨……」  それ以上、佐月を引き止められる言葉を持ち合わせていなくて歯がゆかった。佐月が一カ月前ではなく半年前に転勤して来てくれていれば、もっと佐月と仕事でも世間話でもいいから会話をしていれば、掛けられる言葉はあったかもしれない。 「僕を引き止めるというのなら、蒼哉さん、僕の子を妊娠してくれますか」 「は? えっ?」  佐月が出してきた予想だにしない取引条件に、全身緊張状態であった蒼哉が一瞬弛緩し佐月の腕を離しそうになってしまった。  このタイミングで何てたちの悪い冗談か。笑い飛ばそうにも、少しでもバランスを崩せば佐月の人生が終了してしまう状況で下手なリアクションはとれない。 「僕の子を妊娠してくれますか」  強風に踊る前髪の下、真摯な眼差しが蒼哉を射抜く。  一言一句間違いなく耳を疑う台詞を繰り返された。  佐月は冗談を口にしているという様子ではなかった。自暴自棄になり望みのないことをわざと言っているわけでもなかった。間違いなく蒼哉に承諾を求めている。  妊娠。雌が子供を腹に宿すこと。  生物学的に無理と思考が達する前に、自分は雄として育ってきたと思っていたが、本当は雌だったのかな。と、訳の分からぬ混乱状態に陥った。  血液が頭に上っていくのが分かる。顔がひどく熱い。佐月のせいで蒼哉は赤面していた。妊娠してくれと言われて赤くなる自分がますます恥ずかしい。  だが佐月の目は本気だった。先ほどまで絶望で死んでいた目に強い意志が滲んでいる。  断ったら佐月は死ぬ。そう思ったら、蒼哉は恐ろしくて拒否することが出来なかった。承知するということのリスクは二の次だった。 「わ、分かった。俺が妊娠すればいいんだろ!」 「蒼哉さん……!」  蒼哉がやけっぱちに叫ぶと、佐月がパッと明るい表情になった。ああ、やっぱり佐月はしょげているより笑っていた方が良い。  佐月は長い足を器用に使い軽く柵を飛び越え、その勢いのまま蒼哉に抱き付いた。 「ぎゃあっ」  自分より図体のでかい猛獣に飛びかかられて、蒼哉は屋上のアスファルトの上に潰された。 「嬉しいです。蒼哉さん、ああ……大好きです」  頬を寄せうっとりと呟く佐月の髪がくすぐったい。布越しに伝わる佐月の体温が生きて存在していることを教えてくれる。 真っ青な空を佐月越しに見上げながら、緊張感から解放され蒼哉は安堵した。約束してしまったことの重大さと、これから自分に降りかかる厄災について、微塵も考えが及んでいなかった。

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