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第2話

 東京都心、山手線の駅から徒歩五分。地上三十五階、約一五〇メートルのHユナイテッドビル、通称HUBが束原蒼哉の勤務先である。  HUB内には数十社のオフィスと商業施設が融合されており、複合開発として注目されているビルである。オフィスタワーは進化するビジネスに合わせた最新機能を充実させ、高レベルなオフィス環境を追及している。商業施設にはコンビニエンスストア、レストラン、スーパーマーケット、歯科クリニックなどが展開され、近隣住人も利用できるよう地域貢献にも余念がない。  このパッと見ずいぶんご大層なビルの管理、運営をするのが蒼哉の仕事である。  二階にある事務所へ入ると視線を遮る胸の高さまであるスチールロッカーが置いてある。ロッカーにはこのビルに関するお知らせのプリントが全面に貼られていた。  ロッカーを避けて、蒼哉は自分のデスクがある島へと近づいた。蒼哉の所属する島は六つのデスクが二つずつ向き合って並んでおり、一番奥には六つのデスクを監視するかのように所長のデスクが入り口側に向かって置かれている。隣の島は他のビルの管理担当である。スタッフ十八人ほどの小さな事務所だ。  左奥の蒼哉のデスクの前に座っていた、事務担当の男性社員、日笠が蒼哉に気付くと、下がった黒ブチの眼鏡を右手の中指で上げながら声を掛けて来た。 「束原さん、一時からミーティングですよ」 「あ、はい」  壁時計の針は一時十分前を差していた。  蒼哉はチェアを引いて席につき、スリープ状態のパソコンを起動させてミーティング用のフォルダを開く。 その様子を日笠は眼鏡を光らせながら凝視している。パツンと切られた前髪と、まっすぐに伸びた背筋。どこか時代錯誤な容貌の日笠は、たびたび同僚をじっと観察しているため同僚たちから警戒されていた。先輩であり蒼哉もお世話になっているが日笠の食い入るような目つきを苦手としていた。 「あの……日笠さん、ちゃんとミーティングの準備は出来ていますので、大丈夫ですよ?」  日笠に睨まれるのはきちんと仕事をしていないと思われているのだろうか。蒼哉は正面の日笠に向かってぎこちなく笑いかけた。 「……」  日笠は返事をせずに、ふいとパソコン画面に視線を動かした。仕事はそつなくこなしてくれるが、愛想というものを知らない。佐月の愛敬のほんのひとかけらでも分けてあげたい。  やがて昼休みを終えた同僚たちが順に戻って来た。 「お疲れ様です」  高すぎず低すぎず、透き通った声が蒼哉の鼓膜を震わせ、びくりと肩を上下に揺らしてしまった。隣の席に声の主が座る。蒼哉は彼の方を見られなかったが、彼からの視線をビシビシ感じる。  先ほどまで屋上で瀕死の形相をしていた木梨佐月が、蒼哉の隣で幸せそうに微笑みながら長い脚を組む。蒼哉は冷や汗をかきながら、俯いて作業しているふりをする。  つい先ほどのことが思い出される。  正気とは思えない取引条件を呑み、佐月の命を救った蒼哉だったが、安心したのも束の間、午後の就業時間が近づいて来ても蒼哉を抱いたまま離れようとしない佐月に焦り出していた。 「蒼哉さん」  まるで初恋をした少女のように可憐に名前を囁かれ、鳥肌が立った。  非常にまずいことになった。やばいやつと滅茶苦茶な約束をしてしまった。  このままでは妊娠させられる⁉ 蒼哉は貞操の危険を察し、仕事があるからと言い訳をして佐月を引き剥がして屋上から逃げてきたのだ。 佐月の魔の手から逃れたのも束の間。蒼哉と佐月は同じフロアで働く同僚であり、午後の仕事はチーム全員揃ってのミーティングから、再び顔を合わせることは決まっていた。己の愚かさに蒼哉は消え去りたかった。  視界の端に佐月がこちらを向いている姿が映る。気まずい。 頬杖をついて隣の蒼哉を楽しそうに見詰める佐月と、視線に気づいているのに佐月を無視する蒼哉。 「蒼哉さん」 「……」 「ご飯つぶ、ほっぺについてますよ」 「え、うそ」  反射的に顔を上げ、右の頬を拭う。  肩をすくめて笑う佐月と目が合った。 「うそです」 「おまっ、先輩をからかうなっ」  佐月の馴れ馴れしい態度に妙に意識してしまう。照れくさくて蒼哉は佐月の背中をめいっぱい叩いてやった。 意識しないようにしようと思えば思うほど、抱きしめられた時に吸い込んでしまった佐月の香りが生々しく蘇り蒼哉の呼吸を乱した。 そんなふたりの午前中とは違う空気に気づいたのか、日笠は涼しげな瞳でじっと見ていた。まさか日笠に勘づかれていないだろうかと、ひやひやする。  一時になり、所長がデスクに着席したのを合図にHUBビル管理担当のミーティングが始まった。 「先月のHUBの支出ですが――」  先輩社員が数字を述べていくのを蒼哉は慌ててパソコン上でメモしていく。今は佐月に気を取られている場合ではない。  佐月も先輩社員の発表を真剣に聴いている。  抑揚のない先輩の数字を羅列する声に、やがて皆の顔が曇っていく。  組み合わせた両手の上に顎をのせて、静かに聴き入っていた所長が顔を上げた。五十四歳になる所長は半年ほど前から頭を丸坊主にした。発毛はついに諦めたらしい。 「ふむ、先々月よりも維持管理費と修繕費が膨らんでいるね」  社員全員が、ほらきたという顔をした。蒼哉も胃がきゅっと引き締まる。 「繰り返すようですが、我がHUBは有難いことに現在満床です。空室ゼロ。家賃収入百%を徴収出来ています。利益を少しでも増やすには、支出を抑える、基本ですね」  毎度のこと、所長の説教が始まってしまった。  支出を抑えなければ儲けが少なくなってしまう。そんなことは全員分かっている。しかしビルのメンテナンスを続けていくには管理費が必要不可欠だ。快適なビル環境を追及していけば金がかかる。金をかけなければビル環境は廃れていき、顧客離れに直結していく。  ビル管理担当として、テナントの要望には積極的に応えたいのだが、自社の方針は所長の言うようにコストは抑えろの一点張りだ。蒼哉たちは板挟みに苦しんでいた。 「お言葉ですが所長」  日笠が挙手をした。 「前年度の同月に比べて維持費は一%削減出来ています」  皆の表情筋が固まった。  上司に真正面から反論できる日笠の怖いもの知らずなところを密かに蒼哉は尊敬している。  所長は極太眉毛を下げて、首を縦に振った。 「皆さんが努力していないとは言いません。しかし二%削減が今年の目標であることを忘れていませんか」  全員が押し黙った。  所長の頭が午後の陽ざしを浴びて、してやったりと言いたげに光り輝いている。 「私も皆さんに守銭奴と思われてしまうほどネチネチ言いたいわけではないのです。繰り返しますが、HUBの家賃収入は現在上限まで達しています。しかし会社としてはさらに利益を増やしたいのです。ではどうしたらいいですか、束原くん」  名前を呼ばれて蒼哉はその場で跳ね上がった。 「ええと、家賃を上げる?」 「短絡的ですね。どうですか木梨くん」  咄嗟の捻りのない返答に所長は笑っている。  指名された佐月は冷静に答える。 「現在の家賃を引き上げるとなると、テナントを納得させるだけの理由と付加価値を提示出来なくてはなりません。テナントも家賃支出は極力抑えたいでしょうから、交渉は難航するでしょう」 「現実的ではありません」  日笠に切り捨てられた。  そんなことは蒼哉だって分かっている。けれど、他にいい方法があるのだろうか。ビル管理を生業としている自分たちに、金を儲ける方法があるのだろうか。社員たちは自分の意見を発表するが、いいアイデアは出て来なかった。  蒼哉は気が滅入ってくる。そもそも、自分たちの物件を駆使して利益を上げるのは営業部の仕事だ。ビル管理担当の自分たちの仕事ではない。営業部はHUB内にはなく、本社にある。HUBはH土地開発株式会社の所有ビルで、蒼哉はそこの管理部門の社員である。 「利益のことは営業部に任せておけばいい、と皆さんお考えかもしれませんが、営利企業である限り利益と利潤を追求しなければなりません。利益が全てではありませんが、利益がなければ会社は存続出来ません」  耳が痛い。心中を所長に突かれてしまった。雇われて給与を得ている身としては、会社の方針には従うしかないのだ。  皆、暗い顔をしている。蒼哉と同じ気持ちになったのかもしれない。  ふと隣の佐月を見ると、小難しげな面持ちで右手を顎に当てて何やら考えている。その面構えには、畑違いの要求を所長から突き付けられて落ち込んでいる他の社員たちが纏っている重苦しさはなかった。  配属されたばかりの新人である佐月にはこのプレッシャーを感じられないのかもしれない。まだまだ他人事と思っているのだろうか。  毎日管理業務に追われて、その上で利益向上を考えろなんて、会社は酷なことを求めてくる。  これといった解決策が挙げられるでもなく、ミーティングは終息となった。  社会人の重圧から逃れたい。途方に暮れた気持ちで蒼哉は天を仰いだ。  疲れ切った蒼哉を隣で佐月が笑顔で見詰めている。悩みの種はここにもあった。

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