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特に驚きはしなかった。うちの同居人はよく消える。連絡もなしに彼がいなくなって1日が経過し、ようやく連絡をとると北海道にいると告げられた。 多分、5回目。 「せっかちだね、君は」 おれの第一声に、電話の向こうの彼は小さく笑った。空気が漏れるだけの情けないそれは、眉根を寄せた不細工な顔の彼を容易く連想させる。 「出かける前にどこへ行くかくらい、教えてくれたらいいのに」 澄んだ冬空に浮かぶ飛行機雲を目で追いながらおれは息を吐く。漂う白は心の中の靄なのか、よく分からない。ただ、自分でも感心するほど、おれはいつも通りだ。 あの飛行機雲の向こうにいる恋人は、どうだろう。 「君と行けたらいいなって思ってたんだよ。ほんとうだ」 スピーカーから聞こえる声は弱々しくて、それでも、おれが好きな声は数日前となんら変わりない。 同じような彼の言い訳を今までに5回聞いて、それでも呆れない自分に呆れる。それは単に、彼の『ほんとうだ』は、いつも本当だからなんだろう。 「急に、かきたくなって。気づいたら飛行機に乗ってたんだ」 世界、とまではいかないが、彼は日本では名の知れた画家だ。そのための芸術肌なのか、ときたま予想外の行動に出る。急に家を飛び出して、遠く離れた地へ行って、その風景を絵におさめて帰ってくることは、彼にとってなにも珍しいことではない。 「だろうね」 そっけないその返事も、怒っているのではなくていつも通りだ。なのに、小心者の恋人は、慌てて謝ってくる。 「別にいいよ。どうせ帰ってくるんだろう」 「うん、帰る。帰るに決まってる」 早口でまくしたてる彼はなんだか可愛らしくて、置いて行かれたことは寂しいし不安なのだけれど、こう、気持ちは同じなのだと、少しだけ分かる。 仕事休みの昼下がり、することもなく出かけた近所の公園は、平日のせいなのかあまり人がいない。その、冷たい風が木々の葉っぱをかさかさ揺らす音だけを聞きながら、穏やかさに身を任せた。 「どうして君が、こんな僕なんかと……」 ふと聞こえたその言葉に、おれは目を瞬く。 「なに?」 「いや……何回もこうやって勝手なことしてるのに、僕と付き合っててくれるから」 それはとんでもなく面白い。 いや、可笑しいのか。彼にも、そして自分にも、笑える。 「勝手なことしてる自覚はあるんだ」 「だって、怒ったじゃないか……」 そりゃあ、最初に置き去りにされた時はすごく腹が立った。急にいなくなって連絡もないものだから、飽きて捨てられたのかと思ったくらいだ。 いや、だから、怒ったんじゃない。おれはすごく怖かっただけだ。 「君だって、おれがいなくなったら泣くくせに」 意地悪したくなっておれは笑う。 初めての置き去りに対し、おれがとった行動は、そのままお返しすることだった。帰ってくると告げられた日にビジネスホテルを一部屋予約して、連絡も取らないままアパートを出た。 しかし、おれの家出は開始数時間で終わりを告げる。飛行機の到着時刻からしばらくして恋人が泣きながら電話をかけてきて、何事かとあっけにとられているおれに、彼は言った。 『どうして迎えに来てくれないの』 しゃくり上げながらそう言う。意地になって、先に置き去りにしたのは君じゃないかとおれが答えると、彼はもっと泣いた。そうして何度も謝って、帰ってきてと懇願され、折れたのは言わずもがなおれの方。 何日かぶりに会うおれに、彼は、真っ赤な目をしたまま絵を差し出した。春の風景だった。二人の人間の影が小さく描かれていて、彼はなにも言わなかったけれど、それはおれと彼なのだと、なぜかそう思った。 『これを、君に』 描き上げた数枚の絵画の中、それが一番輝いて見えた。錯覚かもしれない。でも彼は、これが描きたかったんだと言ってくれた。 おれに見せたかった、なんて、笑ってしまう。 一緒に出かければ済むものなのに。 ただそれ以上に、おれは嬉しかった。彼は昔から変わらず、可笑しくて、不可解で、一途だ。

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